今月のメッセージ    2,,6


   『「なぜ、葬儀をするのですか」ときかれて』     

冨士 玄峰

 一言で言えば、せずにはいられないからであって、理屈ではありません。
これは人生において経験しなければわからないことです。
先日、ある修行道場の指導者である比較的若い禅の師家老師が同輩や弟子の集まりで語っておられたのですが、
同輩の方の晋山式、つまり住職に就任するお祝いの席に招かれて、祝辞を求められたときに、
自分は気張って居ったのでこういうことを言った。

つまり住職に就任しての職務において、教化活動こそが大切で、葬式法事は二義的なことだと。
そのときも控室で、ある老僧から、
「そう言い切ることは、いかがでしょうか。はるか昔から我々一般住職は営々と勤めて来ているのですよ。」と穏やかにではあるがたしなめられた。
 そして最近自分は父を亡くした。
母を早くに亡くし、年老いて病を得た病身の父親を、近くの病院に移して、なるべく見舞うようにしたつもりだけれども、
亡くなってみると、涙が止まらない、もっともっと都合をつけて見舞うのだったと悔やまれてならない。
喪失感が募って、肉親を亡くすことがこんなに哀しいことかと心底感じた。
してみると私どもが葬式法事を懇ろに勤めていることは、残された遺族に安心(あんじん)与えることであって、老僧が言われたとおりであった。

 改むるに憚ることなかれと申しますので、今日はそのことをお詫びいたします、と申されたのです。
一人のヒトが産まれたとき、一個の人間として育つ上で、人々はその成長過程において、家族や一族、共同体によって通過儀礼を執り行い、
それらを経験させることによって本人も自覚し、周囲も受け入れていくということを人類は共通の大切な文化として育んで来ました。

まず誕生してからを考えてみましょう。食い初め、宮参り、七五三、入園式、入学式、卒業式、成人式、結婚式、そうした儀礼を通過することは、
どの共同体においても成員を育てていく意味で大変重要であり、また強い効果を示して来たからこそ、大切に受け継いで来たのです。
しかし今、地方は過疎化現象で地域のコミュニティーの結びつきは希薄になり、
都市部も核家族化、個人主義化で隣保の助け合いも少なくなり、バラバラに匿名化して漂流しているようです。
少子高齢化が進み、人口構成がピラミッド型で無くなっているので、通過儀礼を通じて、社会の構成員として育てようという機運よりも、
経済の行き詰まりとともに、面倒なことはなるべく避けて、簡略化こそ合理的という風潮になっています。
 村の寺であれば、すべて寄り合いで布施や戒名料の額もそれぞれの取り決めがあって、
寺の維持を考え、バランスを取りながら、皆はそれに従っていくのですが、都市部の場合、核家族が多く、
その時その時の行き当たりばったりになることが多く、葬祭業者のペースで行われようになったことも相まって、途方に暮れることが多いようである。
そうした面から来る情報不足と、信頼関係の無さから来る弊害が多々見られるのです。
現代日本の問題点は、あまりにも豊かで安全で平均化された半世紀を過ごしたために、
次第に通過儀礼の持つ重要さを忘れつつあるのではないでしょうか。
 そうした通過儀礼の最後が葬儀であります。
亡くなった人に如何にして次のステージへ通過していただくか。どのように送り出すかということなのです。
もし今の風潮のように死んだらしまいとしか考えられず、物質分子として分解してしまうに過ぎない、といういわゆる還元論に落ち込んでしまうなら、
まことに殺伐とした潤いのない不毛の砂漠に生きている心地がすることでしょう。
先ずはかけがえのない伴侶、わが子、親兄弟を失って悲嘆にくれている人に安心(あんじん)を得ていただくというのが本来の葬儀の心だったはずです。
それではその安心の内容とはなんでしょうか。それは共に目指すべき希望の道を指し示すことです。
 しかし、そんなものは要りませんと言われるように世の中がなって来ているとすれば、
人々は安心を得ないまま索漠とした心で、漂流している心地がすることでしょう。
 そのときに本来、我々仏教徒はそれぞれの教えに従って、成仏への修業の道を提示して、その心構えを説き聞かせるのです。
人生の終わりは同時に新たな尊い価値観に生きるための修業の旅への出発式ですと、
本人にも説き聞かせ、遺族にも説き聞かせて、餞(はなむけ)の言葉を贈り、
新たなる旅路へと送り出して来たのが本来の仏式の葬儀の式次第でありそこに込められた心なのです。
 成仏とは文字通り仏に成る、成らせていただけるということで、知恵と慈悲が円満に備わった光り輝くいのちの存在にいつかは成らせていただきたい、
表現のニュアンスを変えれば摂(おさ)め取られたいという願いがそこにあるわけです。
 その願いを自覚し、抱き続けて、次のステージに、修行の旅に送り出す儀式が仏式の葬儀なのです。
 昨今は、この宗教的な生命観、価値観が支持されず、必要とされない傾向にあるようです。
評判になった映画「おくりびと」でも、我々にとっては自明のこの生命観、来世観が聖職者ではなく斎場の従業員の口から素朴に語られるだけで、
聖職者の姿があの映画の中では点景としてしか見られなかったということは、我々の間に、見終わった後、感動しつつも複雑な思いを抱かせました。
 我々こそプロの「おくりびと」であって、何百年もの間、縁のある人々の最後に修行姿となってもらい、剃髪、懺悔、三帰戒を授け、
今身(こんじん)より仏身に至るまで生まれ変わり、死に変わり修行を続けますと誓ってもらっているわけです。
その誓いを誓って初めて、仏弟子として戒名を名乗ることができるのです。
そのことを私どもでは、私も息子の住職も通夜の折に、遺族や参会者にお話しさせていただいております。
 意外に反響があるのは、式の進行を担当することになっているプロの司会者が、通夜の法話の後、控室にやってきて、大変喜んでくれるのです。
仏式の葬儀の式次第の持つ意味が良くわかりましたと。
やはり、翌日の葬儀のときも声の調子に気のせいか心がこもっているというか、良くやっていただいているなと感じます。
お互いの役割、持ち場、持ち場があるわけですから、良くわかっていただいて、臨むということは本当に大切だと思うのです。
ささやかな実践ですけれども、案外そのあたりが我々のほうでぬかっているのではないでしょうか。
というのもそうした一貫した仏式の葬儀の式次第の内容を初めて聞きましたと、担当司会者がいうのです。決してお世辞ではないと思います。
以前アンケートを見たことがありますが、司会者の方の意見として、導師を勤める方はやはり話をしてほしいという要望が強かったのです。
 まあ、次の予定があったり、遺族は疲れておられたり、会葬者に対する気遣いで、なかなかそのTPOは難しいのですが、
やはり通夜には遺族や、近親者、参会者はほぼ一時間、覚悟して座っているのですから、その折りがもっとも良いチャンスと言えます。
これからも通夜に翌日の葬儀式、告別式の次第の説明は続けて行きたいと思っております。
その中心となるテーマは成仏への願いということであります。
 願いは大切であって、大いなる願いを持つことによって、人はいかなる時も前途に向かって勇気を以って進むことができるのではないでしょうか。
今日の生命観は即物的、生物学的、唯脳論的であって、端的に言えば死んだらしまいという考えに支配されているのではないでしょうか。
励ます意味でよく申し上げるのですが、「願い続けて死ねば、陽光を求めて枝葉を伸ばし、
成長を続けた樹木が寿命尽きて倒れる時も南の方に倒れるように、きっと成仏への道を進むことが出来るでしょう」と。
 成仏への願いを発(おこ)すことが出来るということは、今日の進んだ宇宙論でも到底見晴るかすことの出来ない、
広大な宇宙の中に生まれた生命という奇跡がもたらす、死後も滅びぬ希望であり、
今日的な表現で言えば、サムシンググレイトの偉大なる恵み、仏教的に言えば如来の広大なる智慧と慈悲の働きといえましょう。
 そこまでの生命観を抱くことが出来れば、それが本当の安心でありましょう。