『「なぜ、葬儀をするのですか」ときかれて』
冨士 玄峰
一言で言えば、せずにはいられないからであって、理屈ではありません。
これは人生において経験しなければわからないことです。
同輩の方の晋山式、つまり住職に就任するお祝いの席に招かれて、祝辞を求められたときに、
自分は気張って居ったのでこういうことを言った。
つまり住職に就任しての職務において、教化活動こそが大切で、葬式法事は二義的なことだと。
「そう言い切ることは、いかがでしょうか。はるか昔から我々一般住職は営々と勤めて来ているのですよ。」と穏やかにではあるがたしなめられた。
母を早くに亡くし、年老いて病を得た病身の父親を、近くの病院に移して、なるべく見舞うようにしたつもりだけれども、
亡くなってみると、涙が止まらない、もっともっと都合をつけて見舞うのだったと悔やまれてならない。
してみると私どもが葬式法事を懇ろに勤めていることは、残された遺族に安心(あんじん)与えることであって、老僧が言われたとおりであった。
改むるに憚ることなかれと申しますので、今日はそのことをお詫びいたします、と申されたのです。
一人のヒトが産まれたとき、一個の人間として育つ上で、人々はその成長過程において、家族や一族、共同体によって通過儀礼を執り行い、
それらを経験させることによって本人も自覚し、周囲も受け入れていくということを人類は共通の大切な文化として育んで来ました。
まず誕生してからを考えてみましょう。
どの共同体においても成員を育てていく意味で大変重要であり、また強い効果を示して来たからこそ、大切に受け継いで来たのです。
都市部も核家族化、個人主義化で隣保の助け合いも少なくなり、バラバラに匿名化して漂流しているようです。
経済の行き詰まりとともに、面倒なことはなるべく避けて、簡略化こそ合理的という風潮になっています。
寺の維持を考え、バランスを取りながら、皆はそれに従っていくのですが、都市部の場合、核家族が多く、
その時その時の行き当たりばったりになることが多く、葬祭業者のペースで行われようになったことも相まって、途方に暮れることが多いようである。
そうした面から来る情報不足と、信頼関係の無さから来る弊害が多々見られるのです。
次第に通過儀礼の持つ重要さを忘れつつあるのではないでしょうか。
まことに殺伐とした潤いのない不毛の砂漠に生きている心地がすることでしょう。
それではその安心の内容とはなんでしょうか。それは共に目指すべき希望の道を指し示すことです。
人々は安心を得ないまま索漠とした心で、漂流している心地がすることでしょう。
本人にも説き聞かせ、遺族にも説き聞かせて、餞(はなむけ)の言葉を贈り、
新たなる旅路へと送り出して来たのが本来の仏式の葬儀の式次第でありそこに込められた心なのです。
表現のニュアンスを変えれば摂(おさ)め取られたいという願いがそこにあるわけです。
評判になった映画「おくりびと」でも、我々にとっては自明のこの生命観、来世観が聖職者ではなく斎場の従業員の口から素朴に語られるだけで、
聖職者の姿があの映画の中では点景としてしか見られなかったということは、我々の間に、見終わった後、感動しつつも複雑な思いを抱かせました。
今身(こんじん)より仏身に至るまで生まれ変わり、死に変わり修行を続けますと誓ってもらっているわけです。
仏式の葬儀の式次第の持つ意味が良くわかりましたと。
やはり、翌日の葬儀のときも声の調子に気のせいか心がこもっているというか、良くやっていただいているなと感じます。
ささやかな実践ですけれども、案外そのあたりが我々のほうでぬかっているのではないでしょうか。
やはり通夜には遺族や、近親者、参会者はほぼ一時間、覚悟して座っているのですから、その折りがもっとも良いチャンスと言えます。
成長を続けた樹木が寿命尽きて倒れる時も南の方に倒れるように、きっと成仏への道を進むことが出来るでしょう」と。
広大な宇宙の中に生まれた生命という奇跡がもたらす、死後も滅びぬ希望であり、
今日的な表現で言えば、サムシンググレイトの偉大なる恵み、仏教的に言えば如来の広大なる智慧と慈悲の働きといえましょう。