今月のメッセージ

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「美しい調和を求めて」                             平成23年1月
             ―「現代人における和合について」―
                        南禅寺派 冨士 玄峰
 
 「和を以って貴しとなす・・・・」。和合という言葉を聞く時、私どもがまず思い浮かべるのが、
西暦六〇四年に聖徳太子が定められました十七条憲法の第一条ですね。
それ以後の日本的精神を大きく育んできた憲法ですけれども、中心に流れている精神はご承知のとおり、仏教精神です。
 今日まで、人の和ということが日本社会では最優先されており、協調性がなによりも求められてきました。
そこでややもすると目立たないように、突出しないようにという自己規制が強く働いて、会議でも進んで意見を言わない、
議論になりかけると自分も周囲も抑えてしまうという傾向が強いということは、外国の人から良く指摘される点ですね。
 しかし、本当は「和を以って貴しとなす・・・・」の後に、まだまだ続いているのでして、「事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは・・・・」とあり、
言うべき時にはしっかりと議論を尽くすことを奨めておられるのです。協調と討論のバランスが大事です。
 協調するばかりでは、体制に流されやすくなり、大きくは国の進路を誤る元となったのは、歴史が物語っています。
言うべき時には言う、反対すべき時には反対するということは、日本的な協調社会の中では、なかなか勇気のいることです。
ややもすると議論が議論で終わらず、後を引きがちだという国民性があるように思います。
それは一つには討論を楽しむという習慣が少ないからだと思います。
はっきりと自分の考え、意見を言うことは、決して協調性を損なうものではありませんし、和合を破るものではありません。
最近の若者の姿を見ていると、とにかくケータイかゲーム機に見入っている姿が目立ちます。五、六人で集まっているのですが、
見事に黙ってケータイに向かって、メールかゲームに没頭しているようです。ですから最近では、会社へ就職しても、
まず挨拶から始まって、はっきりとモノが言えるように研修しなければ、使い物にならないそうです。
そうした沈黙の和合は和合とは言えませんね。まるで大人しい家畜のようです。
 まだ学校時代はいいですが、社会に出てからはそれぞれが独立した人格ということで、基本的には放って置かれますから、
人間関係を築く努力を怠れば、個々のバラバラな無縁の大衆の一人として生きているということになります。

 この状態を「社会学の始祖」E・デュルケーム(フランス人、1858〜1917年)はアノミーと呼びました。
 アノミー (anomie) は、社会秩序が乱れ、混乱した状態にあることを指す「アノモス(anomos)」を語源とし、宗教学において使用されていたのですが、
デュルケームが初めて社会学にこの言葉を用いたことにより一般化しました。デュルケームはこれを近代社会の病理とみなしました。
社会の規制や規則が緩んだ状態においては、個人は必ずしも自由になるとは限らず、
かえって不安定な状況に陥ることを指します。規制や規則が緩むことは、必ずしも社会にとってよいことではないと言えるのです。
 彼は著作「自殺論」の中で、自殺のタイプを四つに分類し、
「アノミー的自殺」
社会的規則・規制がない(もしくは少ない)状態において起こる自殺の形態。集団・社会の規範が緩み、より多くの自由が獲得された結果、
膨れ上がる自分の欲望を果てしなく追求し続け、実現できないことに幻滅し虚無感を抱き自殺へ至るものである。
つまり、無規制状態の下で自らの欲望に歯止めが効かなくなり、自殺してしまうもので、
不況期よりも好景気のほうが欲望が過度に膨張するので自殺率が高まる。
としています。
まさに当たっていますね。
 現代はアノミー状態が、ますます拡がっていくようです。
地域社会が疲弊し、少子化から子供を中心とした地域のつながりが持てなくなっています。私の自坊のある町内も少子化でとうとう古くからの子供会が無くなり、
あまりの高齢化に老人会も世話する人がいないので無くなり、自然と人々のつながりは希薄となり、ばらばらになっています。
 現代の日本は異常ですね。十二年連続三万人を超える人が自殺しているのです。最近、自殺者の分析結果が出ていましたが、
会社での配置転換から過労となり、鬱を発症して自殺に至るというパターンが顕著だというのです。ネットで知り合って、待ち合わせ、
初対面の人たちで車の中に練炭を焚き、あるいは洗剤を混ぜて毒ガスを発生させ、集団自殺をするという例がちょくちょくあります。
 まさに末世の様相を呈しています。そうかといって大飢饉が起こっているわけでもなく、デフレと言われるように華やかなもの、ぜいたくなもので溢れ返っているのです。

 けれども人間社会の様相は複雑に見えても、時代や社会形態に関わりなく、人の心が生み出したことは疑いありません。
ここに弁栄聖者(山崎 弁栄上人1859〜1920)という方が「十界互具」という仏教の教えについて説かれた一節をお借りして、お話申し上げたいと思います。
我々一人一人はどこまでもこの「十界互具」の在り方の主体として生きているのであります。私なりに今の言葉に訳してみましたが、以下の通りであります。
「十界互具」(一心に具わった六道四聖といわれるわが心の有り様)
一. 自分の思いと違うと、忽ち怒りがこみ上げるのは「地獄」の火の種
二. 他を羨み嫉み、貪り惜しむのは「餓鬼」の心
三. 世のルールを無視し、慎みを忘れ、本能の喜ぶままにふるまうのは「畜生」の心
四. 奢り高ぶり、なにがなんでも勝ち組になろうとするのは「修羅」の心
五. 迷惑を懸けないように心がけ、気の毒な人に同情するのは「人間」の心
六. 平等・博愛を思い、地球全体のエコロジーを考えるのは「天上」の心
七. 人間を超えた霊妙な働きがあることを感じ、信じるのは「声聞」の種
八. 私は何者、なぜ、なんのために、どこから生まれて来たのか、死んだらどうなるのか覚って見たいと強く思うのは「縁覚」の心。
九. ときには自己を犠牲にしても他人を救わずにおれないのは「菩薩」の心。
十. 神・仏を尊信する敬虔な気持ち、その根底に徹すれば、自己が何者であり、  なぜ、なんのために、どこから来て、死んだらどうなるのかが実は分っているのです。
これぞ「仏心」であります。
 このはじめの六つが六道と言われ、瞬時にして経廻るかと思えば、高く昇りつめ、深く嵌り込み、もがき苦しむのが私どもの生きる姿ではないでしょうか。
 
 結論としましては、そのことに早く気づき、深く反省して、「三つのいのちの和合」とでも言われる世界を目指すのが私どもに示された道なのであります。
 「三つの命の和合」
 "いのち"を保つ三つの関係として「身・心」「自己・他者」「人間・自然」が挙げられます。
それぞれの関係を心身一如、自他一如、人境一如の望ましい関係、「美しく調和した関係」に調えていかねばなりません。
 それには生活信条の実践以外にはありません。そこに無縁社会・絶縁社会を救う道があります。生活信条の根底にあるものは無念・無心の教えであります。
  これこそ禅の心、禅的生き方であります。
 「生活信条」
 
     朝に坐って身心を調え その日の業を励み 強く生きましょう.   
                          これぞ「身心一如」ですね。
夕べに省みて 吾も人もともに幸福を祈り 正しく生きましょう.    
これは「自・他一如」です。
日々に努めて 報恩感謝の行を積み 明るく生きましょう    
「人・境一如」あらゆるご縁を思い、自然や社会のおかげに思いをいたす行であります。そうなればおろそかにできるものは一つもないことがわかるでしょう。
わかれば自ずと内面から悦びが涌いて出るでしょう。強く、正しく、明るく生きることが出来るはずであります。
 
 それでは合掌をお願いいたします。充分豊かでありながら、凶悪な事件故に人を疑い、すれ違う時も不安の内に生きる現代の私共に向かって、
これを解決する道をお示しくださるお釈迦様の名号をお称えいたしたいと思います。
 南無本師釈迦牟尼仏 南無本師釈迦牟尼仏 南無本師釈迦牟尼仏
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