現代インドに仏教を復活させたアンベードカル博士が
仏教伝道をしてゆくために最初にして最も必要な条件としてあげたものは、
誰でも持ち運びができ、どこでも読める手軽な仏教聖典をつくることであった。
また、そこに描かれるものは教義や抽象的な教理の形式でなく、
神話・叙事詩的なもので、倫理的なものとして読まれるよりは
呪句・詩的な響きをもつ言葉を使い、
なおかつ教義を結びつける物語調なものが望ましいとした。』
(千本木 智著 卒業論文「The Buddha And His Dhamma」にみる
アンベードカルの仏教観
より)
その理想的な仏教聖典が現代日本に存在するのです。
まさに埋もれた宝として、もっともっと世の人々に
読まれることを願っているのです。
 普及会の同志を求めています。
入会と支援をお願いします。僧俗に関わりません。
今日まで孤軍奮闘して参りましたが、インターネットを通じて、
この聖典を、一人でも心ある人の手に届けられるよう呼びかけたいと思います。
一冊1,000円の小さな本の中に甘露の法雨が凝縮されています。
法要の記念施本に最適です。
施本運動を展開しましょう。(最近の普及会の活動へ)
1,000円 :美麗挿絵12枚入り
天台僧、市川義成師ら青年僧有志
が日本仏教文化協会を結成し、出
版事業をされた。
その代表的な仕事が現代語仏教
聖典釈尊篇であって、木津無庵著
の新訳仏教聖典の雅文体をさらに
現代語のコンパクトなダイジェスト
版にされたものであった。
その素晴らしい内容にも関わらず
現実には一般に普及していないの
は実に残念である。(資料へ)
以前は花園大学学長であった、山田無文老師らが普及に努められたこともありました。
釈尊と弟子、あるいは外道や信者との対話を中心とする内容に触発されるものは大きい。
劇団パンタカの脚本もこの聖典から出発した。
第十八章仏陀の入滅
第二節チュンダの供養
一。仏陀は聖衆を伴って、チュンダの家に入り、その供養を受けられた。
チュンダは、自ら給仕し、別に栴檀樹の茸を、仏陀にささげた。
食事が終わってからチュンダは、「世尊よ、世間には幾種類の修道者がありましょうか。」
「チュンダよ、4種類の修道者がある。自ら悟り、他を悟りに導くものを、勝道沙門といい、
教えを説いて、人々を教導するものを、説道沙門という。
自ら熱心に道を修め、他を顧みることなきものを、依道沙門といい、
外見のみの修道者を、汚道沙門という。
外形によって、軽率に親しんではならぬ。
心の浄いものこそ、真によき人である。」
「世尊よ、かって世尊は、自分の所有する一切のものを人に施すことは、称賛すべきである、
といわれましたが、いかなる意味でありましょうか。」
「チュンダよ、ただひとつを除く。
人にして正法をそしり、永く慚愧しないならば、善を断ずるに至る。
その不善の人を除いて、その他の者に施すことは、賞讃すべきことである。」
二。チュンダは、重ねて、「世尊よ、不善の人も救われるときがありましょうか。」
「悔悟し、慚愧し、正法を護持するならば、逆罪、重罪も消滅する。もしかかる人に施せば、
その福(さいわい)には限りがない。それは前に不善の行為があっても、
心にそれを悔い、正法を護ることによって、世間の優れた福田となっているからである。
チュンダよ、道を奉ずる者は他を羨んではならぬ。
他の言に迷ってはならぬ。
また他のなすか、なさぬかを見る必要はない。
自身の善と悪とに心留めよ。」
三。仏陀は、チュンダの家を出て、クシナーラ城に向かった。
チュンダもその後に従った。
途次、仏陀は、病を発し、路傍の一樹下に休息されたが、
乾きを覚え、阿難に、「河へいって、水を汲んでくるよう」命ぜられた。
阿難は、「世尊よ、今しがた五百の隊商が、車を連ねて上流を渡りました、河は濁っておりましょう。
ほど遠からぬところに、カクッター河があります。そこで渇きをいやし、水に浴したまえ」と。
然るに仏陀は、それを三度命ぜられたので、
阿難は、やむを得ず鉢をとって、岸に立った。
水は美しく澄んでいた。
阿難は驚嘆した。
阿難は水を汲んで、
仏陀にささげた。
挿絵:田村 展子
問合せ先:神戸・明泉寺
E_mail:genpof
gmail.com
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