(二)
 そのような点がブッダの独特な位置である。彼の宗教がどのようなものであるか?
どのようにしてそれと彼のライバルによって築かれたものとを比較しようか? 
まず初めにブッディズムとヒンドゥーイズムとを比較してみよう。
短いスペースで有効な比較は、いくつかの重要なポイント、実際にはただ二点に絞られねばならない。
 ヒンドゥーイズムは道徳に根差していない宗教である。
どんな道徳をヒンドゥーイズムが持っていようとも、それはヒンドゥーイズムの絶対必要な部分ではない。
それは宗教に組み込まれていない。それは社会的必要性によって養われた別の力であって、ヒンドゥーの宗教の命ずるところではない。
ブッダの宗教は道徳である。それは宗教に組み込まれている。
仏教徒の宗教は道徳以外の何物でもない。仏教においていかなる神も存在しないというのは本当だ。
神の代わりに道徳がそこにある。神が他の宗教に対してあるように、道徳が仏教に対してある。
彼が”ダンマ”という言葉の最も革命的な意味を提起したことは非常にまれに認められている。
 ”ダンマ”という言葉のベーダ的な意味は言葉のいかなる意味においても、道徳を含んでいなかった。
ブラーミンによって説かれるように、ジャイミニのプルバミマンサにおいて提案されたように、
ダルマは確実なカルマの業(執行)、もしくは宗教的祭式にローマ字の用語を用いること以上の何物をも意味しない。
ブラーミンにとって、ダルマは儀式を支えるものを意味する。すなわヤグナ・ヤーガ、そして神々への犠牲である。
これがブラーミンのもしくはベーダの宗教の本質なのだ。道徳をもってなすべき何物をも持っていない。
 ダルマという言葉はブッダによって用いられたごとく、祭式や儀式とともになすべき何物も持たない。
事実、彼は宗教の本質であるものとしてのヤーガとヤグナを否定している。
カルマの代わりに彼はダルマの本質として道徳を置き換えた。
ダルマという言葉はバラモン教の教師によってもブッダによると同じように共に用いられているけれども、両者の内容は根本的に、本質的に異なっている。
事実、ブッダが道徳を宗教の本質と基礎にした世界で最初の教師であることが言えるだろう。
 クリシュナでさえバガバッドギ−タにも見られるように、儀式や祭式と同義である宗教の古い概念から自身を救いだすことはできなかった。
多くの人々はバガバッドギータの中でクリシュナによって説かれたニシュカム・カルマ、
そうでなければアナサクティヨーガと呼ばれる教義によって誘惑されるように見える。
報賞の期待なしに善を行うことを意味することはボーイスカウト的感覚を受ける。
ニシュカム・カルマのこの解釈はそれが真に意味するところを完全に誤解している。
ニシュカム・カルマの句の中のカルマという言葉は”行為”を意味するカルマという言葉の一般的な意味において行為を意味しない。
それは独自の意味において用いられている。ーーーバラモンやジャイミニによって用いられたような意味において。
 まさに儀式の点において、ジャイミニとバガバッドギータの間にはただ一点の相違がある。
バラモンによって通常行われている儀式は二つのクラスになっている。
1、ニトヤ・カルマと
2、ナイミティカ・カルマである。
 ニトヤ・カルマは正規に執り行われるべく命じられた儀式であって、それについて説く者はニトヤと呼ばれた。
また宗教的義務の事柄として、それに対してはいかなる報賞の期待もあるべきではなかった。
そのためにそれらはまた、ニシュカム・カルマとも呼ばれた。カルマの他の範疇はナイミティカと呼ばれた。
すなわちそれらは必要があるときはいつでも行われたし、それらを行いたいという望みがあるときはいつでもそうであった。
そしてそれらはカマヤ・カルマと呼ばれた。なぜならそれらを行うことからいくらかの恩沢を被ることが期待されたがゆえに。
バガバッドギータにおいて、クリシュナが宣言したものはカマヤ・カルマであった。彼はニシュカム・カルマを宣言したのではなかった。
他方で彼はそれらを賞揚した。心に留められるべき点は、クリシュナに対する宗教でさえ、道徳から成り立ってはいないということである。
それはカルマ、すなわちヤグナスとヤーガとから成っている。たとえにニシュカム・カルマの範疇に入るものであっても。
 これがヒンドゥーイズムとブッディズムの間の対照の一点である。対照の第二点はヒンズー教の公式の聖典が不平等であるという事実に依存する。
というのはチャトゥールバルナ(四姓制)の教義はこの聖典の不平等の具体的な表れなのだ。これに対するごとくブッダは平等に立っている。
彼はチャトッゥールバルナの偉大な敵対者であった。
彼はそれに対決して説いただけではなく、それに対して戦っただけではなく、それを根絶するためにすべてを為したのだ。
ヒンズー教に従えばシュードラも女も宗教の教師になることはできないし、彼らがサンニャーシを取ることも、神に手を伸ばすこともできなかった。
ブッダは一方、シュードラが比丘のサンガに入ることを許した。
彼はまた、女性が比丘尼になることをも許した。
 なぜ彼はそうしたのか。この一歩の重要性を了解している人は少ないようだ。
答えは、ブッダが不平等の聖典を破壊するための具体的な足掛かりを得ることを欲したことにある。
ヒンズー教はブッダによってなされた攻撃の結果として、その教義において多くの改変をしなければならなかった。
ヒンズー教はヒムサー(殺生)をやめた。ヒンズー教はベーダの絶対性という教条を引っ込めることを覚悟させられた。
まさにチャトゥールバルナという点において、どちらにしても屈服することを覚悟させられたのだ。
ブッダはチャトゥールバルナの教義に対する彼の抵抗をやめようとはしなかった。
これがブラフマニズムがジャイナ教に対して持つ以上に、仏教に非常な憎しみと敵愾心を持つ理由だ。
ヒンドゥーイズムはチャトゥールバルナに対するブッダの論旨の力を認めなければならなかった。
このことはそれの論理に屈服することによってではなく、チャトゥールバルナに対する新しい哲学的正当化を発展させることによってそれを成した。
 この新しい哲学的正当化はバガバッドギ−タの中に見いだされるべきである。
だれもバガバッドギ−タが何を教えているかを確かにいうことはできない。
しかし、バガバッドギータがチャトゥールバルナの教義を支えていいることは全く質問外のことだ。
事実それは書かれた主要な目的がそのことのためにあったようにさえ見える。
そしていかにしてバガバッドギータはそれを正当化したのであるか?
クリシュナは言った。私は神としてチャトゥールバルナのシステムを創造し、かつ私はそれをグナ・カルマの理論の基礎の上に組み立てた。
それはすべての個人の地位と職業を彼の生得のグナ(もしくは質)に従って私が規定することを意味した。
 二つの事柄が明らかである。ひとつはこの説が新しいということである。古い説は違っていた。
古い説によればチャトールヴァルナの基礎はベーダの権威であった。
ベーダが絶対に正しいとされたごとく、ベーダが定めたチャトールヴァルナのシステムもそうであった。
 ベーダの絶対性に対するブッダの攻撃は、チャトールヴァルナのこの古い基礎の確実性を破壊した。
ヒンドゥーイズムがチャトールヴァルナを廃止することを覚悟していないこと、
また、その魂がバガバッドギータが勧めるような、さらにより良い基礎をそこに発見することを企てていると考えるのは全く自然だ。
しかし、この新しい正当化がバガバッドギータの中でクリシュナによって与えられることがそれほど良いことなのだろうか?
たいていのヒンドゥーにとってそれは全く明確であるように見える。
彼らがそれを論破できないと信じているために。
多くのヒンドゥーでない者にとってでさえ、それは非常にもっともらしく、非常に心をひくように見える。
もしチャトールヴァルナがベーダの権威だけに依存していたならば、それは長い間に消滅したに違いないと私は確信する。
このチャトールヴァルナ、ーーーカースト・システムの源であるところのーーーに永遠の生命を与えたものが
バガバッドギータの有害で誤った教義であることは明らかだ。
この新しい教義の基礎的な概念はサンキーヤ哲学からとられている。
そこにはそれに関する独創的なものは何もない。クリシュナの独創性はチャトゥールバルナを正当化するのにそれを用いていることにある。
しかしそうすることによって彼は彼自身を多くの誤りの中に陥し入れた。
サンキーヤ・システムの著者カピラはそこはいかなる神も存在しないし、神はただ実体が滅びてしまったと信じられる場合にのみ、必要とされると考えていた。
しかし実体は死んでいない。それは生きている。実体は三つのグナによって成り立っている。
ラージャ、ターマス・サトバ。プラクリットは三つのグナが均衡にある場合にのみ死んでいるように見える。
その均衡が他の二つを抑圧するようになった一つのグナによってかき回されるとき、プラクリットは活動的になる。
これがサンキーヤ哲学の大要であり本質なのだ。そこではいかなる難癖もこの理論につけることはできない。
そのことはおそらく本当だろう。
それゆえ、仮にそれぞれの個々人がプラクリットの形式のように三つのグナから作り上げられたとしても、
さらに仮に、三つのグナの間に一つが他を上回る優越のための争いがあるとしても、
そのとき、つまり彼の誕生のとき、彼の他のグナを支配し始める特定の個人の中の特定のグナが、
一生の間、彼の死まで支配抑圧し続けるだろうことをどうして許すことができようか?
 サンキーヤ哲学の中にも、現実の体験の中にも、どちらにもこの僭越のための場所はどこにもない。
運悪くヒトラーもムソリーニもクリシュナが彼の理論を提唱したときには生まれていなかった。
クリシュナは世界を支配し得るほどの独裁者に看板書きやレンガ職人がいかにしてなり得るかを説明するについてはかなりの困難を見いだしたに違いない。
事柄の要点は個々のプラクリティーはグナの相関的位置が常に変化する故に、常に変わるというところにある。
もしグナがそれらの優越するものの相関的位置において、ずっと変化し続けるならば、
そこではグナの中にいかなる不変にして固定的な人の階級制度も、いかなる不変にして固定的な職業の割り当てもあり得ない。
それゆえ、バガバッドギータのすべての理論は地に堕ちた。
 しかし私が述べたようにヒンドゥーたちはそれのもっともらしさと器量の良さに迷わされてしまっており、
それの奴隷となってしまっている。
結局はヒンドゥーイズムは社会的不平等のその教条と共にヴァルナシステムを擁護し続ける。
そこにはそれからは仏教が解放されているところのヒンドゥーイズムの罪悪の二つがある。
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