「釈尊のご生涯」―ブッダの帰城― 
                              冨士 玄峰

 釈尊のご誕生は紀元前463年だろうというのが中村 元先生の説です。
仏教に関してはそれこそ膨大な経典が伝えられており、その研究書や解説書は気の遠くなるような数量で世に出ております。
 まず教主釈尊のご生涯を知るには、先人のご苦労によって、伝えられたたくさんの経典群をピースとして、
ジグソーパズルのように組み合わせて、まとめ上げたものを読むことになります。
 その代表的なものが木津無庵編の新訳仏教聖典(初版大正14年、昭和51年、改訂新版)であります。
当時の多くの代表的な仏教学者が参画されまして、大変なご苦労の末に完成されたものです。
巻末には出典索引が付されておりますので、いかにたくさんのジグソーパズルのピースを網羅されたかがうかがい知れます。
この編纂事業を完遂された木津無庵師のご功績は誠に尊いものであります。
仏教界においてもっと顕彰されるべきですし、この聖典の普及をさらに図るべきであります。
 釈尊のご生涯の概略は今日ではネット上で検索すれば、便利なことに次々と大抵のことは、読むことができます。
結構な時代だと言えましょう。ですから、釈尊の概略に関しては、そのようにして知っていただければと思います。
 
 ここでは、そのご生涯の中で、今一度注目すべき場面を取り上げて、一緒に考えてみたいと思います。
悟りを得られ仏陀となられた釈尊が初めて故郷のカピラヴァストゥに帰られた時の様子であります。
 まず、「テーラガータ(長老偈経)」からカルダーイ長老の詩偈が置かれます。
釈尊に帰城を伝えるよう父シュッドーダナ王より命じられたカルダーイがただ伝えに行くだけではなく、
まずは出家して釈尊の弟子となり修行することを許してもらえるなら、使いに参りましょうと条件を出します。
このことが10の章句に詠われ、他の長老や長老尼のガータ(詩偈)とともに伝え残されているのです。
「カルダーイは仏陀の弟子となったが、仲秋満月の夜、改めて仏陀にまみえ、
 『世尊よ、見たまわずや、樹々は今、紅に燃え、果実みのらんとして、古き葉を落とす。
  世尊よ、今は遊行のとき、暑さ寒さも程よくて、いと楽しき季節なれ。いざ、北に向かいて、ローヒニー河を渡りたまえ。
そはふるさとの人々の切なる希望(ねがい)なり。・・・』現代語仏教聖典釈尊篇、第四章第一節「帰城」より。
 続いて、「ジャータカ・ニダーナ」(本生因縁)という本生経をつなぎ、仏陀の帰城の様子を述べています。
『カピラ城に入ると、仏陀(ぶっだ)は、鉢をとって、戸毎に食を乞われた。
王は、この報(しら)せを受けて驚き、仏陀の前に立ち、「御身は、我家を辱(はずかし)めようとされるのか」と責めた。
「王よ、われわれの祖先も、この托鉢をいたしてまいりました」
「わが家系には、いままで、一人の乞食(こじき)も出たためしがない」
「王よ、それは王家の家系であります。私の家系は、燃灯仏(ねんどうぶつ)以来の家系でありまして、
諸仏はみな、托鉢し、乞食(こつじき)によって、生命をつなぎました」
仏陀は、路上に立ち、法を説かれた。
 もろ人よ、起(た)て、放縦(ほうしょう)を離れよ、法を修めよ、
 正しき行いをなせ、悪を離れよ、心を正せ。』
このようにして、二つのピースが繋ぎ合わされて、釈尊の帰城という仏伝の重要な場面が描き出されるわけです。
 ここで注目すべき点が二点あります。
父王が釈迦族の家系、すなわち俗世間の血脈を問題にしたのに対し、釈尊は過去仏以来の法脈を示された点であります。
 父王はさぞショックを受けたことでしょう。親子の立場を子供から否定されて、動揺しない親があるでしょうか。
しかしかっての我が子ゴータマ・シッダールタはすでに悟りを自覚して、如来の立場に立つブッダであります。
 一族のリーダーとなるべき立場と責任を放棄して出家した手前、父王とすれば、最も尊敬される聖者となって帰城したことは、
何より一族に対する父王の負い目を軽くしてくれるものであり、そのことを父シュッドーダナは喜んだのです。
しかし、城内に入るなり乞食を始めたことは、父を驚かせました。
まずは凱旋将軍のように王宮に来るものと、そして感激の対面があるものと思っていたのですから。
父王の当惑と狼狽の様子が伺えます。世間の常識と出世間の非常識がぶつかり合った瞬間でありました。
 出家とは血脈を否定し、出世間の立場に立つことです。
どの宗教においても、特に初期の草創期においては、熱烈な信徒が家族や親族の絆を断ち切り、世間を出て、信仰共同体に飛び込むことがよく見られます。
釈尊の場合も釈迦族の若者たちが次々と出家するものですから、家の跡継ぎを失った親たちの嘆きは大きく、
釈尊に懇願して、出家する際は親の同意と許しを得るようになったといわれております。
 ですから本来、我々宗門人は、世間に対して、勇気を持って出世間の智慧を説く存在でなければならないのです。
新聞の川柳欄で「生きている喜び語れお坊様」というのがありましたが、ちょっと待ってくださいと言いたいのです。
生を謳歌することはもちろん生物としての本性ですけれども、人間の性情は放って置くと享楽的に流れ、
経済優先、大量生産、大量消費、娯楽優先、贅沢バンザイ、エゴ丸出しの社会になっていくものです。
一方でそのひずみのためでしょう、毎年、三万人以上の自死者を生んでいるわけですから、
そういう人々には生きる力に目覚めていただかなければなりませんが、
社会全体に対してはお釈迦様の離欲(慎み、知足)の教えをもっともっと説く必要があるでしょう。
 
 もう一点、釈尊は無師独悟(師について修行して悟ったのではなく、独力で悟られた)とされますけれども、
遠い過去仏、燃灯仏以来、次々と出現しておられ、悟りは普遍的な真実なので、時代を隔て、所を隔てても、
求道の道は誰に対しても開かれており、倦むことなく歩めば、いつかは如来の自覚に到達することが可能なのだということであります。
 それゆえにこそ、私どもは発願してブッダの説かれた教えに導かれつつ、ブッダへの道を歩むものであります。
 南無本師釈迦牟尼仏
 南無本師釈迦牟尼仏
 南無本師釈迦牟尼仏 合掌 三礼