顕道和尚、戦中日記「昭和二十年一月より四月三十日」
 
  既に上梓した「平戸日記」「終戦日記」に先立つ日付の部分を「戦中日記」としてアップします。

昭和二十年一月元旦、酉の歳
   日米大血戦の真只中に聖戦第四年の春を迎えたが、帝都は夜半より四時過ぎまでに、敵機が飛来して大事には至らなかったが、小火災さえ起こり、又九州へも二機偵察的に這入り、一機は遂に鹿児島の上空に初めて姿を現わせし由 。
   陸に海に空に一瞬の油断も許されない。神国日本の大空を自由に飛び、良き獲物が見付かれば爆弾を見舞う。ニックキ鬼畜め。今こそ国土も戦場と化したがお互いは神経を太く持ち、警報サイレンが鳴っても、ビクビクせず、各自の天職に神風特別攻撃隊の心構えで、大勇猛心を奮い起すべきときは真実に来た。勝たねばならん。負けられない。国家なくしてお互いの生存は出来ない。
   幸いにも五時半には電波の管制も解除になり、放送は開始された。夜明けと共に明るい気分で元気よく飛び起きて、未だ薄暗いけれども本堂の縁を拭き、散水してたら、鶏の声。鶏音の聴こゆる里は我が守護する処なりと、長田の神の仰せの通り、只今の時刻は太古そのままの静けさ。和やかな気分で聴く鶏の初音。後刻は知らず、今一瞬の間でも酉の春を迎えた嬉しさを感ず。その声はチャボなるか。とても可愛い声であった。早く平和よ、泰平よと呼んでいるようにも思われた。
   手洗い鉢には初水をドシドシ入れる。氷は張らないが微かに吹く風は流石に身を刺す様に冷える。
   義子も幸いな事に元気で、しかも緊張した気分でお祝いの支度して居る。自分は御本尊始め、各所へ御供えする。平和な時代には随分と沢山に御供えして  
頂いたお鏡も本年はなく、その代わりお粗末で若いながら拙寺で義子の手伝い
で、自分で搗いてお供えの出来た事も初めてなり。心嬉しく、国家の安全と皇 
軍の武運の長久ならん事と法恩に深謝して、本年は初めて茶の間でお祝いを頂 
く。お雑煮の餅の美味な事。自分で搗いた餅と思えば一入り嬉しく、大根も里芋も作ったもの。煮〆の牛蒡も干し柿も本年は真っ白く粉を吹き、とても上品に出来た。
 陽は明るく暖かく、平和そのものの様なすがすがとした正月元旦の気分でも、「戦いて今日死ぬ人もあるものと畏れ慎み初日おろがむ」と、川田氏のお歌の如く、大決戦下で祝い膳に着かせて頂く有難さよ。只々感謝の言葉以外には、只々働く事、一路増産に、防国に専念あるのみ。
   初の訪問者は中村仙太郎氏の娘さんであった。義子も彼女も病後初の顔合わせでお互いに元気になった事を心から喜び合う。するめと干し柿を頂戴す。自分は昭和八年十二月二十三日にお誕生になった皇太子様の酉歳にちなみ、鶏の話や、十二年前の酉歳の年賀状を見せたり、話したりす。
   義子はお茶の仕度中に金谷さん親子で来て下さる。共に初の薄茶を自家製の干し柿で頂く。菓子はなくとも心豊かに和やかに決戦下の新春をお互いモンペ姿で頂く真剣味も一入りなり。痴僧(大痴和尚)とてると廣次君へ陰膳作る。義子が真心、痴僧は是心寺でてるは前垣で不幸な中に迎えた新春廣次君は鱗より京都へと各自疎開的新春を。自分は義子と只二人切り、淋しい正月と思って居たに、次々と親切に尋ねて下さる方、参詣の方々で、その合間、合間に次から次へと色々と忙しく働く為に、昼食も又一入り美味しく頂く。
 午前の暖かさに比し、午後は寒くなって来たが、町会長の松野の若主人が明二日、出征されるに付き、皇貨三円包んでお祝いに行く。暫く話す。先に出られた若人二人の中、一人は支那に一人は今危険な南方に、残る若主人は五、六人も子供がある上に、未教育との事なれば、厳寒の折から真実に御苦労さまなり。
  帰るなり霰の大降り。寒さは一入りとなる故に義子は炬燵に、自分は台所付近を次から次へと整理片付けに余念なく、薬石はお雑煮のお供えしたお下がりを温めて頂く。元気が出たので、義子は南禅の老大師と瑞龍の老師へ新年のご挨拶状を書く。自分は昨年中の日記を三冊に製本して、次に本年の日記帳、即ち此の日記を製る。九時まで。次に霜に逢うたトマトを炊いて、屋上に乾して水分を蒸発させてあったのを一つに集め、摺り鉢で搗いたり、擂ったりして保存用にする。一寸食べられる。

二日
  長年の型を破って物資も無き故に、ご飯を炊いてお供えしたり頂いたりした。今朝の冷えは格別で、何も彼も凍りついて居る。義子は十二月中、随分と忙しく、暮れには特に餅搗きの手伝いまでしてくれた為に、知らず知らずに疲れが出て、今朝はとても不快な様であったが、共に頂き、又、床に入る。右の肩、腕の付け根が胸にかけて、何とも云えぬ痛みを感じる由。未だし無理は出来ない。
  時に葉書が来た。只の一枚、それは疎開児童、茅原の坊が鳥取の気高郡より新年の挨拶なり。平和な時代には五百、六百と頂いた事もあるに、是を見ても戦局は愈々倍々重大で、レイテを始めフィリッピン全島を中心とする日米の戦いは真実に血みどろの決戦なるも、勝負はまだまだ目鼻が附かず、銃後の者が正月など云うて居る時でない。否、銃後も毎日の様に飛来する敵機に初夢など夢にも思われない。でもお金にすれば三銭の葉書なるも決戦下の新春を迎えた只一枚の年賀状なり。嬉しく可愛い子供と、義子と共に喜ぶ。お金も使い方次第で大変な効果を顕すものなり。緊張、緊張の一点張りの中にも、なごやかな気分を疎開児童より味あわせて頂く。久し振りに湊川町三丁目五〇に住む橋本弥一郎氏が参詣された。奥様は昨年の八月三十日に西の方へ疎開された由。三人の息子様は皆戦場に。故に賑やかであった家庭も淋しく暮らして居るとのこと。御供え頂く。干し柿とのし餅を焼いて、塩茶の温かいのでお愛想する。午後、東妻さん来る。心安さに床に在る義子の枕元で話し、遊んで頂く。自分は甘酒をとても上等に沸かして皆に配給す。次に薄茶を自分で点てて呑むようにと一切を揃えて置き、自分は出初めに丸山の太田に詣でる。掘り切りを寒風押して登るに閉口した。太田の主人春さんが若人の頃、池本より植えてくれた朝日柑を三個造呈す。四十年以上になる。今日、此のみかんある為に、どんなに助かるか知れない。何でも将来の為には果樹は植えて置くべきなり。本日配給で初売りの蜜柑を六個三十銭で頂いたが、一個腐って居た。可愛い、可愛い蜜柑なるに一個が5銭以上の割になる。でも公定なれば未だ安い方で、闇となれば、恐ろしく高価なり。
  毎日来てくれる永井の子供三人に五十銭づつお年玉をやりしに、とても喜んだ。子供もお正月でも楽しみが無く、可哀想なり。東妻さんより大島の黒糖入りのし餅を三切れ頂く。珍しきものなり。
  次に寒風に吹かれながらお墓全部に遅ればせ乍らお花を献てる。気持ちよくなった時に四時となる。早々に松野廣治君を見立てに行く。早や大勢揃うて居られた。間もなく送会の式は型の如くに進み、万歳を最後に元気で御出征になった。三人の兄弟が陸に空に、兄様が只今海にと帝国の最大国難に順応、御奉公下さるも七人の子供に老いた両親を残して行かれるお心の内、噫々。
自分は心ならずも義子が病故に、長田神社までのお見立ては失礼す。何卒、何卒お元気でと念ず。義子は不快で、故に自分も薬石(夕食)を止めて、夜業の支度する。三つ葉の整理。先刻、丸山で落ちたるを拾い得た人参五本をも。可愛い、可愛い人参なり。次に鶏の餌の大根葉をも、拾いたるをも切り置くに、トマトを整理す。恐ろしく冷える、冷える。次に愛久沢で頂いたわらを整理す。二束で九時半となる。今晩は雑音で正月の夜のラジオを聴く事は出来なくなった。

三日
   義子は暮れに動きが過ぎ、遂に疲れが出て、昨日より夜に入り今朝に至るも苦痛は去らず困って居たが、今日は自分もとても忙しい寺役日なれば、心ならずも早朝より支度す。
   未だ明け行く暁の空に浮かされて一入り尊く荘厳な感じ拝す。やがて平和時代の伝統を破りて、今朝は色々集め、お雑煮を頂く。第一線の皇軍勇士の労苦を思えば、何を頂いても有難い事なり。裏庭のわびすけは純白の花も葉も凍り、蝋引きの造花の様になりながら震えて咲いて居る。
   いかなるわけか知らねどもその罪許せ庭のわびすけ
  
   大急行で何もかも片付けたり色々して置いて、心ならずも義子に留守さして置き、先ず宮本に次に大島に詣で、次に奥之庄より白崎に次に松川に詣でる。正月故に五円も頂いた。次に大急行で長田前の柏倉に、次に池田の中西政太郎家に年賀に至る。相変わらずお年玉頂く。御厚意を謝して東須磨の高井へ。回向了って豆の粉のおはぎ頂く。主人より初めて、一度も欠かさず詣でる事に対して丁寧な挨拶を受けて、自分も初めて満足す。次に原氏を訪れる。横筋へ転宅されていた。干し柿七個呈上す。一寸回向す。珍しくお汁粉と志しを頂く。十円も入って居たのに驚いた。次に須磨寺前の乳屋(精乳舎)に。次に井田に詣で。お薄二服とご飯頂き、三つ葉を呈上す。次に明石へ行かんとホームに入るなり警戒警報が発令。一時三十八分とか。気味の悪いサイレンが鳴り出した。やがて来た西新町行きに乗るなり、火を吹き始め、運転手は故障と云うし、駅長は大丈夫と云うし、超満員のお客は不安なりしが、先ず先ず無事に高女前に下車す。警報は空襲となり、高女を守る責任ある女学生は母校指してなだれ行く。自分も防空頭巾をかぶり、岩本へ走り込む。刻々に報道されるラジオを聴きながら回向す。了ってお餅を炊きながら、頂きながら聴く報道は倍々不安を感ず。淡路上空を数機飛びつつありと耳にした時は愈々、爆弾を落とすかと思われたが、強いて落ち着いてご飯を頂きながら、病床の義子の事ども心配する中に、敵機は次第に飛び去り、遂に解除となり、ヤレヤレと安心す。でも名古屋には二、三ヶ所、火災が起こり、大阪市内にも投弾されたが、大した損害はなき模様との事に不幸中の幸いを喜ぶ。尚蜜柑を沢山頂く。昨日配給受けし蜜柑と比べなば一個八銭から十銭の値いありと思われた。自分は干し柿七つ呈上す。昨今粗悪な干し柿でも一個一円もする由。恐ろしい事なり。御厚意を謝して、次に橋爪に詣でる。珍しく年酒頂く。真に田舎風なるも御親切の程、真実に嬉しく頂いて、夕方に失礼して垂水に下車。小東へ走る。早や薬石(夕食)前であった。回向して干し柿七つ呈上す。早々失礼して足元も危ない夜道を駅に走り、汗す。電車待てども、待てども。遅れて来た電車の超々満員、各駅停車で大変な事なり。真実に今にも押しつぶされるかと思った。長田に出来たホームに初めて下車。身も軽々となったが、先刻の空襲と工事最中の道は危なくって歩けない。真の闇夜を大急ぎで汗かきながら帰るに、心配した義子は案外元気な声で迎えてくれたので大安心した。時に有馬の妻君が来られ、長田の西本作次郎氏が死去され、五日、午後一時より葬式故に頼むとの事。御苦労さまでした。有馬と書いた真新しい提灯は特に明るく、ゆかしきものよと思われた。
  お礼に蜜柑三個呈上す。次に牛乳を温めて、義子に呑ます。昨夜に比して今晩は熱なきが為か、おいしいと呑んでいた。次に不在中の出来事、空襲の模様など聴きながら、藁を二把たぐる。了ったのが十時前。義子は又々咳が出る出る。自分も山陽電車で押し付けられて胸の奥の方が痛む。

四日
   午前二時二十五分に変な音と思うたら、やがてサイレンが鳴り出した。近頃は警戒後十分前後に空襲になる事を覚悟して心構えをしなければならぬ故に、義子と共に支度して、ラジオに耳を寄せるに、幸いにも大阪に入り込むと思った敵機は田辺付近より変転、伊勢の方向に進行、間もなく南へ飛び、やがて解除となり安心したが、昨日は凡そ百機位も全面に亘り、今また夜中にも来るようになる。倍々油断ならぬ事となる。
   早朝に井田さん来てた。故姉娘が十四年の正月五日に死去され、明五日が七年忌と思う故に、詣でてくれとのことに、水仙と熊笹とシャシャ樹で献花を造り、尚朝日柑二個に干し柿三つをお供えに呈上す。塩茶の温かいのを出す。此の間、寝床に義子をお見舞い下され、応接してた義子は井田さんが帰られて、とてもしんどい、しんどいとのこと。次に十一時より出て、上山に詣で、次に一路、中山手まで山田甚一氏へ年賀に至り、主人を尋ねるに、六甲口の宅で相変わらず疎開がてら養生されてる由。次に北野へ登り、先ず藤井に、次に城本に、次に高木に詣で、各家に蜜柑供える。高木で珍しく巻きずしの上に、隣の藤井より大豆めしの炊きたてを下された故に、その方を頂き、すしの方は頂戴して帰る。次に神例に至るに、思いがけなくも繁子さん床にあり。十月から床に付いて居ると、姫路の和子さんが世話に来て、子供二人、姫路に疎開して居ると。やす子十二歳になったと。主人は天津にありと。病名は肋膜の様なり。暫くして失礼。長田で三田氏に年賀お年玉を頂く。次に故西本作次郎氏へ枕経に行く。丁度七十になられ、二日目に死去されたと。葬儀は明午前十時より十一時までに変更された。浅太郎氏や谷本貞治氏と話して失礼。大急行で帰る。心配してたが義子無事。不在中に電話とのことに、福光さんに至る。楠寺とのことに返事す。明朝九時半葬儀とのことに西本と同時刻になる故に、仕方なくお断りす。蜜柑と干し柿と年賀札を呈上せしに対し、巻きずし一本頂く。御厚意を謝して失礼す。此の間に台所の戸棚を開ける音に驚いた義子は、鶏泥棒と思い、飛び出したるに、それは各家でも大困りの虎猫なるにビックリしたと。先刻久し振りに配給された肉をもスンでのことに食べられるところであったと。次にお粥を炊き乍ら忙しく働く。次に馬鈴薯と玉子とわけぎ入りの馳走を炊いて、義子も大喜びで寝床で頂く。高木で頂いた巻きずしの美味しかったこと、美味しかったこと。了って間もなく山本医がお見舞い下される。好都合であった。次に自分は剃髪す。水の冷たさに震える。次に大根の葉を整理して鶏と自分等が頂く分を切り分ける。次にわらを今晩も二把、そぐり了って床に入る。城本には五円も頂く。

五日
   今朝も五時三十分、報道に敵機は浜名湖上空に在りで、未だ解除にはなって居なかった。九時過ぎより大急行で長福寺に至る。福聚寺来てた。正に出かけ様とするところであった。自分は大急ぎで色衣に替えた所へサイレンが鳴り出した故に、西本へ行く事は中止にして、報道に耳を寄せるに大阪に這入るかと思った敵機は名古屋方面に向かい、やがて南方に飛び去り、間もなく解除と耳にした故に、安心して出かける。西本も為に一寸遅れ、十時半頃より始まるに、永らく色々の事に尽くされた方だけに、弔辞がとても多く長くて十二時前に了る。恐ろしく寒く、早々飛ぶようにして長福寺まで引き揚げる。和尚は産業戦士に、自分は杉本と白崎に詣でしに、風邪で四十度前後の熱で床にあり。次に山崎へと大汗で帰り、川重に詣で、次に今日は幸いに義子気分が良く、我慢して起きて、昼食の支度してくれてた。共に大急ぎで頂くなり、再び山越えで石井の松本へ汗かきながら至る。干し柿と皮を粉にしたのを呈上す。時に某病院の院長が来られた為に大騒ぎ。自分は早々出て平野に出て瓜谷の二、七日忌に詣で、次に須磨の井田へ姉娘の七年忌に詣でる。心静かに声量も豊かに、心足る程に回向が出来て、自分ながら嬉しく満足した。次に薬石頂く。珍しくも天ぷらに数の子、ごまめ、黒豆、したし胡麻和え、大根、人参に魚の身入り酢の物に、茶碗蒸しに、人参ご飯を頂く。近頃にない御馳走で嬉しく頂く。尚甲南漬けを久し振りに頂いた。次に抹茶までおはぎで頂く。主人より色々と聲曇らせての話を聴く。お慰め申して失礼。真っ暗な夜道を山陽電で西代に下車して、先刻小畑の老人死去との事に回向に行く。淋しく往生されていた。八年間も寝たり起きたりされて居たと。噫々。明日二時との事なるも、昨今は何日何時、警報が出るか知れない故に、又大阪方面に行かねばならぬ故に、早く来る事を約して失礼。寒風吹く夜道を徒歩で家に近づくに従い、汗かいて帰る。明日が小寒の入り故に、寒気は一入りとなって来た。今日は本年初めての忙しさなりしが、無事通過した事を喜び、心ならずも早く床に入る。瑞龍の老師よりご挨拶を頂く。

六日
   氷は見ないが恐ろしく冷えて、手足がずきずきするも、義子幸いに起きて、粥座を共に頂く。今日はとても忙しいので、心ならずも早々出て、丸山の英霊黒川に詣でる。次に高取駅に至る。電車待つ間の長い事、長い事。寒風は身を射す様なり。やがて来る満員電車に無理から乗る。糸ヤの古賀さん、柳原を店仕舞して押部谷に疎開して、若夫婦は長田の松尾の近くに居るとの事で、長田で下車された。自分は新開地まで徒歩す。途中、長谷川薬局で肝油を求めたが、何処を尋ねても絶対に無くなった。各軍工場に配給される為に、揮発油も無く、エビオスもわかもとも無いとの事。近頃、病人となれば大変なり。困った事なり。寒風を除け乍ら住友銀行前で西代行きのバスを待つも姿を見せず、急に変更して大橋に。途中、散水は皆氷となり、危ない、危ない。大橋の妻君も正月の三日より風邪で床にあり。警報で夜中に再々起きたりなどしたのが元なりと。東京、名古屋方面の方々は定めし毎日毎夜の事に、お困りの事と思う。次に山陽電車まで。寒風は疎開で取り払われた広場や道路面の砂埃を吹きまくり、煙のようなるに、市電は故障で大変な徒歩者なり。自分は西代に下車。小畠に至り、法名を寒梅芳香信士と付けて、心静かに式を了る。煙城(火葬場)へ行く霊柩車の外に客車の交渉に葬儀屋が来てたが、一台四十円と聴いて驚いた。自分は徒歩で行かれると断らせた。近頃はうっかり注文はされない。今朝の新聞ではお酒も上と下の二種になり、上酒は十五円、下酒は八円となる。闇値は百五、六十円もする由。恐ろしい事になった。
   塩茶を頂いて失礼す。再び山陽電で兵庫へ市電を待つも未だ故障なるか、人は山の様なるに、又もや変更して省線で大阪へ先に行かんと一円で大阪まで乗る。途中、立花に下車して、吉田に詣でる。田舎より頂かれた餅米で作られたぼたぼたの餅ともおはぎともつかぬ物を焼けた金網で困って居られるに、フライ鍋で焼かれよと、その他色々教えてあげる。在家の女は案外工夫を知らないのに驚いた。鉄カブトが入荷したから、近く売ると申された。闇では百円の声を聴くが、昨今の様な警報空襲となれば、不安故に一個は備え付けたく、注文して置く。次に大急ぎで駅へ。やがて入り来る車で大阪に。砂塵吹きまくる中を阪急にて十三に下車。飛ぶ様にして森脇へ。途中、金谷さんに頼まれていた故に、薄茶を求めるに品切れで、濃い茶ならあるとの事。抹茶の一円三十銭に比し、濃い茶は二円八十銭なるに中止す。次に森脇で児島の老婆の四十九日の回向す。満中陰の志として上等のお茶半斤箱入りを頂く。早々失礼。再び十三より崇禅寺に下車。柴島の平井に。次に寺井に年賀用お札十一枚置いて、お年玉頂いて失礼す。
   橋本は不在の様なりし為に仏壇にお札を納めて早々新京阪で車窓より淀川の枯れ草の原で、グライダー基地色々の練習をされてるのを見ながら大阪に。次に幸いな事に築港行き空車が入り来る故に腰かけ得られて大助かり。川口に下車。夕暮れ寒風吹きまくる川口より江の子島一帯は路行く人も無く淋しい事なり。堺力の方に老婆を始め皆風邪で床にありと。年玉頂いて失礼。次に堺久に詣で、主人と各宗の出来た由来に付いて大いに話す。未だ薄闇い頃に失礼して、都合良く野田へ阪神で、都合良く腰掛けられて神戸まで。十合(そごう)前でなかなか来ない電車を待つ間の寒いのナンノ、ナンノ。譬えようもなし。やがて入り来る車に幸い乗れたが、多く残された人々の気の毒さ。長田より徒歩で頑張り帰る。坂になって汗かいた。八時頃に帰る。義子は元気な声で迎えてくれて大安心す。早々薬石頂く。小寒入り故に、葱入りのお汁に粥なるも温かくて大助かり。大満腹に頂きたり。次に藁の整理頑張り、昨夜の分も片付けて全部了る。次に残る穂を取れば良きにする。今日も疲れた、疲れた。西九州へ敵機九十機から飛来した。噫々。

七日
   敵機の空襲爆音に暮れて迎えた皇紀二千六百五年の春。今日七日も午前一時頃に気味の悪いサイレンが鳴り、円かなる夢は破られたが、間もなく解除となる。やれやれ。七草のお粥もすずしろ、即ち大根の葉一種だけ入れて、珍しき白粥を炊き、とても美しくお供え。了る早々頂く。北国雲に覆われて重苦しき曇天で、寒さは一入りなり。十一時前に出て宮本より一路長田の木原へ。昨日の百朝忌に詣でしも、転宅でもされるのか、ごったがえして居られた故に失礼す。次に上筒井一丁目に下車して香月へ。途中の公設食堂に只一椀の雑炊にありつかんとする人の行列。吹きまくる寒風の中に気の毒でもあり、困った事なり。香月で回向了って暫く火とお茶の御馳走になり、次に大伴に至り、山吹の佃煮と柚餅を呈上す。珍しや、たき女が来てた。今は森下という姓で、石井の松本へ登る坂下に住まわれる由。途中まで話しながら出て、自分は一路山内に向かう。雪がちらちらしてものすごい砂塵には閉口なり。山内へ朝日柑二個に柚一個、蕗の佃煮、柚餅、南瓜入り熨斗餅七切れにお札を贈呈す。平士氏は初出されて不在。和子さん等と暫く話し、義子へ混ぜ寿司頂いて失礼。次に国電で芦屋に下車、大西に詣でる。佃煮と柚餅を呈上す。奥様がとても喜ばれた。前垣の死去を色々話され、一入り淋しく主人の直幸氏も力を落としているなど、共に話す。直幸氏も前垣の死去した日、即ち十二月十六日より病となり、今尚病床にありと。肋膜の気味の様なり。今日は何も御供養が出来ぬからとて、とても立派な帯の様な昆布を頂く。真実に尊く、とてもとても一寸手に入らぬ物なり。御厚意を謝して失礼。再び国電で西宮の山田を訪れる。太郎君には松江に入隊以来、無事元気に頑張って居る由。政子、子供と一緒に帰って居る。朝日柑と柚を御供えして回向す。炊き立ての御飯とお汁で薬石頂き、温まる。六時前に失礼して、国電三十銭で脇の浜まで。次に長田行きを待ち、中央に腰かけて楽々と長田まで。今晩程長いと思った事はなかった。途中からはとてもとても乗れない。長田より徒歩で七時半頃に帰る。廣次君が来てた。彼が分の餅と砂糖等々で鱈腹食べ終えた所であった。義子は寒さに震え乍ら待っていた故に、早々共に雑炊を炊き、九時半に床に入る。寒い寒い。

八日
   午前一時に警報サイレンが鳴る。敵機は神経戦に出て来た。毎夜なり。二十五分に解除になりたり。粥座後、小畑より寺詣で来る。蜜柑呈上す。次に十一時頃に出て財家に、次にパンを十一銭で受け取り、非常用に持ちて、松田に至るも不在。次に宮阪に詣で点心頂く。奥様には死んだ子の妹が来てたのに、田舎の親達が神戸に空襲再び再びのデマに心配して居る故に送り届けに行き、途中汽車の都合悪く、死にもの狂いで、やっと今朝帰った所なりと。噫々。柚の加工品を三種呈上す。次に田中に、次に西本の初七日に詣でる。次に久保に、次に西代の小畑の初七日に、次に駒ヶ林の山本に詣で、菩提樹の歌本を頂く。次に区役所へ病人用玉子配給受書を頂きに行く。次に一路湊町に下車。藤田に至るに不在なり。約束を守らぬ女には困った事なり。次に中山に至り詣でる。柚の加工品三種呈上す。饂飩の御馳走になりながら色々話す。知章さんの銅板を頂いて失礼。電車大故障の為に三の宮へ下る時刻が悪い故にとてもとても大変なり。新開地のバスも長らく待ち、馬鹿見た。電車で長田へ。徒歩で国久氏へ急行す。有馬に疎開されてた赤ん坊が恐ろしい冷えに恐れて帰って居た。屋内のオシメも凍る由。次に豆の粉のおはぎ頂いて帰れば、内藤の末娘すみ子女が昨七日、急死した電報に義子と共に驚いたが、仕方なく再び中井の百ヶ日に詣でる。次に松野氏より山内へ電話して、内藤の事相談したが、汽車にはとても乗れず、仕方なく悔み書にするとの事。防衛等の事で各役員が集合されてた。御苦労様なり。帰り早々里芋めしのあつあつを頂く。とても美味しく頂く。平野の吉田氏も遂に死去され。藤井さんが預かっていた仏像や位牌を取りに来られたと。噫々。次に名倉湯に行き、剃髪して長浜氏と共に帰り、床に入らんとする時にサイレンが鳴り出した。緊張した気分で床に入る。九時二十五分幸いに間もなく解除になる。十二時前に再び鳴る。幸いに大阪神戸には向かわず、東へ飛び去り、解除となる。いよいよ神経戦で安眠をさせない様に出始めて来た。寒い夜空の下、困ったことなり。

九日
   午前四時二十五分に三度目のサイレンが気味の悪いウナリで鳴り渡る。報に依れば敵機は熊野灘より伊勢山田市上空より琵琶湖の空を飛び、名古屋に入り、南方へ飛び去る等で、五時前に解除となる。義子と共に内藤のすみ子女の死を弔う。先年小石川の植物園に案内され、親切にしてくれた事など、思い出のままに話す。十八、九歳なるか、真実に可哀想な事をした。噫々。
   粥座後、義子は内藤へ御悔みの手紙を書く。自分はエンドウ豆炊きながら、蓋の上で黍粉で蒸し物作る。カルカンの様な物が出来て、とても珍しく美味しかった。次に十二時前に赤根に詣で、次に中村へオーバーを頼む。丁度今日は大丸へ出るのを休んで居るとて、娘さんがお金も受け取ってくれた。百四十円預ける。衣料キップと共に百四十円といえば恐ろしい様なるも、お酒一本が百五十円の事を思えば安価なり。でも大丸にも早や一般には売らない品なりと。次に長田前より電車で公園まで行った時に突然に鳴り出したサイレン心配しながらも、平野の吉田に至るに、丁度葬儀が始まって居た。自分は袈裟掛けようとしたら、警戒は空襲警報と変り、外は急にざわつき出したが、強いて心静かに低聲で誦経す。慌ただしい思いの中に了る。噫々。真実にお気の毒に思う。式了るも解除になるまでは出られない故に、東福寺の老僧と共に休息しながら、刻々の報道を聴く。幸いに三時頃に解除となる。早々に失礼して、平野局より十円為替香料に入れて内藤へ書留出す。次に祥福寺へ。大きな寺も人少で淋しく、ガラン堂なり。老師の出られる間に樫の実を拾う。食料にならんと思う。次に老師に相見す。柚の加工品四種と山蕗の佃煮を贈呈す。義子が折り箱に入れて、とても奇麗に出来てた。老師大喜び、正法寺和尚は東京陸軍病院で養生中なるも重る方で、快方とは思われない由。噫々。困った事なり。庭の植木鉢に砂糖大根を初めて見る。葉っぱもつやつやして美味しそうなり。四時を聴いて早々失礼。次に地蔵院に至るも門が閉まり、不在故に隣家へ持参した佃煮を預けておき、電車には乗らずに山越えで帰り、名倉町松田に詣で、夕方に帰る。金谷氏へ玉子の登録の件で二度行く。エンドウ塩味炊きを呈上す。夜は祥福寺で拾うた樫の実を粉にする。タンニンは強いが後味の良いものなり。水に晒して置く。何とかナラだろしよ。
   長田前で楠田氏に逢う。相変わらず元気であった。折りを見て戦跡をめぐった者のみ集まり、座談会を催したいと申された。

十日
   早くも十日戎となる。案外暖かな天気で楽なり。先ず忠魂碑に参拝して、安沢に詣でる。干し柿二種呈上す。代わりに九州の産で亀の甲形の薄い薄い物を頂く。一昼夜水に漬けた後、熱湯に入れて、次に醤油付けて頂くとか。初めて見る珍品なり若布も頂いた。御厚意を謝して失礼。次に渕上、平松、門脇に詣で、一時前に帰り、早々昼食頂くなり元気出して、畑の馬鈴薯の残りを掘る。三、四百匁程も出て来て嬉しく思う。次に森本の裏に残る瓦の破れを今日こそと選び、運び出し、破れた分は大日寺の石柱の裏、バベ樹の根元に。満足な分は上に揚げる。次に下水に石を沢山なこと放り込んで居るのを、全部知章墓の裏へ運び集めて置く。大仕事が片付いて嬉しく思う。尚、西の厠を、次に平松、次に永井の肥も全部汲んで畑全体へ、寒肥えに入れた。夕闇せまる頃に了る。随分疲れたが大仕事が出来て大変嬉しく、談りながら薬石頂く。義子も前垣の母へ色々の物、揃えて大小二個の小包みを作り得て、大喜びなり。故信太郎霊前への御供えとして干し柿十個を始め、色々と奇麗に詰め合わせなど、小包み作るは中々の骨なり。次に自分は疲れを癒すために名倉湯へ行く。二階の中村老婆へ山蕗の佃煮に柚等々を呈上す。とても喜ばれた。次に湯に入り、非常に疲れたが、ボツボツ帰り、早々に床に入る。
   義子は是心寺の老婆と痴僧の足袋を作る。大変良く出来てる。

十一日
   粥座後早々支度して、九州の前垣に居るテルへの小包大小二個、名倉局へ。九時なるに早や六、七人列してた。二個で一円八十銭。テルへ正月の小使い三十円書留で送る。計二円七銭支払う。是でやれやれと安心す。次に山本と吉永に詣で、次に鍛冶屋町に下車して、柴氏と瓜谷に。次に浜脇へ甘酒を持参し呈上す。息子は正月よりまたまた悪いので困るとのこと。気の毒なり。次に矢倉へ蜜柑二個呈上して、次に板宿へ。次に山本へ大急行す。白波順さんは病気で遂に福知山在へ帰国され、次いで嫁さんも遠からず帰国される由で、姪御になる方が来て居られた。
   戦局も敵が遂にフィリッピンの一部に昨日より上陸を始めるなど、とても心配な情報なれば、盲目の病人などは不安で田舎に帰られるに限る。次に大急行で二時過ぎに帰る。早々に昼食了ったら三時となる。義子は忙しく働いた為に、寒気と共に調子悪く、晩まで床に入る。自分は六時まで次から次へと目の廻るほど忙しく働いた為に、色々の事が片付いた。薬石後は宮本の塵箱より拾い得て帰った大根葉を整理して、鶏の餌と自分等が頂く分に切り分ける。次に里芋と馬鈴薯のくず全部大整理す。次に洗うて大方付け。安心して床に入る。冷える、冷える。戦局の好転せんことを祈る。

十二日 
   水仙の花三本づつ三束作り、米田と白崎に詣でお供えする。次に田井へもお供えする。とても喜ばれた。昨今水仙も一本が二〇銭以上も出さねば買えない高価となる。田井の娘は香住の長伝寺とかいう寺へ疎開学童の寮母となって務めて居ると。正月休みで一寸帰家されてた。あちらは青空も見られず、従って太陽の光にも恵まれず、毎日、毎日ドンヨリとした雪空で、冷えも強い故に、子供も多く痔病で困ると。でも食べ物だけは充分で、一人三合三勺の上に色々施接がある由。雪が深くて一番閉口すると。靴無き故に。次に長田薬局で昨夕頼んで置いた代用燃料アルコールを求む。五十四銭で、是が闇となれば何十円にも売買される故に、何処の薬局も無い無いで売らない筈なり。是で義子もこの寒が安心して過ごせるならん。次に池田に詣で、柚の乾物を呈上す。次に神田に詣で。帰り再び出て浜口より奥の村田に詣で、暮れには餅米を頂いたお礼に柚の加工品色々呈上す。子供が重病で困ったが、昨今やっと安心出来るようになったと。茶菓頂いて次に時本に詣で帰寺す。次に早々境内の畑の馬鈴薯を掘るも、早く冷えたために、実入りが悪い。何ほどもなし。次に地ならしの為に全部篩にかけて奇麗にする。時に米田の栄子と子供来る。巻き寿司を義子へ持ち来る。早速に自分も頂戴す。次に尚も暗くなるまで仕事を続ける。お陰で目鼻が付いて来た。我慢が過ぎたか、薬石頂きながらも、ぞくぞくと寒くて不快なり。でもわらのモミを取りながら、義子が是心寺の痴僧へ送る一貫目の小包を作るを手伝う。葛藤で縛る。時に長福寺様こられた。去る五日、西本の葬式のお礼に二十円布施、十円供養を頂く。大助かりなり。御足労を深謝す。テルより速達来る。皆無事なるも末の子供二人には困っていると。二月二日が四十九日故に、その後 一度帰神する由。

十三日
   凡そ三時頃なるか地震あり。一寸心配したが一分少々で止んだ。震源地は何処なるや。無事ならん事を祈る。痴僧への小包出す。九時十分なるに早や超過したとて受け取らないのを明日は日曜故に是非頼む頼むでやっと受け取ってくれてやれやれと思った。一円十銭なり。葉書は一枚もなく糊も入手困難の為にサービス出来ず、貯金も敵のフィリッピン上陸に対する皇軍の悪戦苦闘を偲び、引き出しを止めましょ、と随分と窮屈になって来た。痴僧への小包無事に入手出来るようにと念ず。テルへ初めて葉書出す。次に前田へ詣で、一カ年分十一円お布施頂く、次に平尾に詣でる。初めて長男と応答す。二月十日に山形へ入隊される由。御苦労様なり。次に十五改め帝国銀行へ川崎の配当受け取り、通帳より引き出し、四百円の定期にす。二十分以上もかかるとのことに、此の間にと大丸へ。大窓に見る銀造品の供出、色々の中に川嶋武之助男爵より供出の軍艦榛名と伊勢の模型の立派なるには多くの人眼を引いて居た。
   かかる美術品をつぶすとは残念に思われたが戦いに勝つためには是非もなき事か。今催し中の陸軍省大東亜戦記録画の展観を拝見す。入口に佐野部隊長が還らざる大野挺身隊三名と訣別すの画を拝しては何となく身の引き締まる思いで、知らず知らず感謝心が起こる。十六年十二月二十五日、大正天皇祭と鬼畜米英の正月ともいうべきクリスマス当日に白旗をかかげ皇軍軍門に降伏したヤング総督の所謂敗軍の将が我が酒井司令官と会見。生と死程の相違ある場面を見ては何としても戦いに負けられない。
   藤田嗣治筆の血戦ガダルカナルの戦いに敵陣に突入せる壮烈な場面は真実に物凄い真想なり。拝見者の中には脱帽の注意を受けてる人もあるが、真実に身の寒く震えるのをどうする事も出来ぬ真に迫る画面力作揃いであった。山東省馬鞍山廟陣地攻撃の画面も人目を引いて居た。攻めるに難き天嶮も十七年十一月某日遂に此の大トーチカ陣地も攻略した等々、いずれも再び拝見できぬ出品揃いなり。戦いにはどんな事があっても負けられない。各自職域に挺身せねばならぬ事を如実に示されてある。大いに頑張らなくてはならん。次に帝国銀行で受け取り、大急行で三菱銀行へ定期の書類と国債の利札頼む。町会長松野又市氏の娘さんより挨拶されて初めて知る。出征された三人の兄よりは近頃変わりなしと。御苦労様なり。武運の長久ならん事を念ず。
  書類の出来るまでには一時間程かかるとの事に此の間に電車で上沢四丁目まで、次に東槇を訪れる。持ち回っていた水仙花と朝日柑二個をお供えして回向す。干し柿と勝ち栗でお茶を頂き、尚年玉まで頂戴して失礼。大急ぎで住友への途中でサイレンが物凄く鳴り出した。道行く人は一斉に走り出した。自分も大急ぎで住友銀行に入る。情報を聴き乍ら退避してたが空襲警報にはならぬ様なるに、不安ながらも徒歩で三菱まで大急行す。丁度書類は出来てた。次に電話借用して福厳寺へ無沙汰の挨拶す。皆元気なる由。次に平野へ吉田の初七日に詣でる。幸いに解除となり安心したが、去る九日葬式されたのに未だお骨が揚がらず、心配したり大困りと。藤井親子が来て居られ、色々話されてたが淋しい事なり。回向了わって一寸御供養頂き暫く慰めの話して失礼。
   次に先年八月三十日に死去された由の橋本の妻君に悔みを兼ねて回向す。皆留守で娘が一人切りなり。当家も若人は皆々出征され淋しい家庭となった。でも幸いに皆御無事の模様なるを喜び失礼す。昨夕より風邪の気味は一入り悪くなり、水洟が盛んに出るのと、寒気の為か鼻の痛みを初めて感じる。山越えで帰り、藤田に詣で、次に高山に至るも今朝都合あって老女が断りに行ったとの事。次に中村を見るに、戸が開いていたので至る。昨晩に詣でたらだめ。長らく田舎に行ってて、今の先帰った所なりと。好都合であった。四時頃に帰る。早速と床に入りたい気分なるも、雨でも降ってはと、昨夕篩うた土と馬糞の粉を境内畑のホウレン草の根元へ配給する。薄暗くなる頃に了る。時に山本医来られた。義子も注射を絶えず打つ為に案外元気で、ボツボツ乍ら仕事を続けてくれるので、大助かりなり。自分も今晩は頭が痛く、早く床に入る。十時半頃、尚も痛む故に、義子の薦めに応じ、日本丸を三個呑む。その効果なるか
午前二時には痛みが止んで嬉しかった。

十四日
  起き得られるかと心配したが、幸いに気分良くなり、毎朝と変りなく次から次へと忙しく働けるので、義子も共に喜んでくれた。義子も御陰で調子良く、洗濯するからとの事に、自分はゴモクを集め、湯を沸かしてやる。次に柿の皮、梨皮、玄米、麦、豆、蜜柑、南瓜種等々、ぼつぼつと貯えた物を、二、三日、炬燵で乾燥して居た物を、粉に挽く。立派な粉となり、とても味が良い。真実、廃物利用なり。時に大丸町の片山さん参詣され、手作りの大根、お米に炭とお宝まで御供え下された。回向して、御厚意を謝す。御礼に蜜柑三個と只今炊いて居る大豆、若芽、ニシン入りを大茶碗に一杯贈呈す。大喜びで帰られた。
   時に義子は大洗濯が出来たと大喜び。次に自分は大急ぎで、丸山の石井に至る。新年の挨拶して蜜柑と早寒瓜を呈上す。とても喜ばれた。主人の命日故に回向す。床の軸、伊集院筆日の出に舞鶴が波頭の上にある図は素晴らしい立派な物なり。明石の奥様来て居られた。薄茶を手製の茶子で頂く。失礼して山口にお礼に蜜柑呈上す。次に大原に詣で、一時半頃に帰る。野登さんが来てた。鳥取は雪が深くて辛抱出来ぬ故に、子供の為に暫く帰って居ると話しながら出来たての里芋の煮込みご飯を頂きかけたら警報が鳴り出した故に、解除になるまでは出られぬ故に、裏庭を大掃除しながら、情報を取りに大阪上空で交戦中とまで来たが、やがて奈良より名古屋方面へと波状形に三回程も来たが、幸い神戸は何事もなく、庭掃除が粗方出来た頃に解除となりし為に、早々出て先ず宮本より角谷に次に森本に詣で、出たら曇天は小雨となる。次に清盛塚に下車して山田の故細君の一周忌に詣でる。次に大急行で西出町の藤田に詣で、出たら雨は降る、真の闇で徒歩するもなかなか危なく、大倉山よりの電車の混み合いには閉口した。横腹の骨が折れたのかと思うほど押し付けられた。恐ろしい事なり。長田より鼻をつままれてもわからない闇夜を充分に注意しながら、無事に七時半頃に帰る。義子が支度中に札場等大片付けす。次に薬石頂く。大空腹で大根の葉の馳走なるも美味しく頂く。宮本の塵箱より拾い得たものなり。今晩は未だ一寸調子が良くない故に、心ならずも早く床に入る。でも無事に大努力で通過し、空襲も無事なりしを喜ぶ。

十五日
   今朝六時の報道で驚いた事は昨日来襲した敵機の中の三機は遂に畏れ多くも伊勢の神宮に投弾したと、噫々。何と云う無礼ぞ。残念なり。悲しい事なり。でも幸いに御本廟には何等の障りなく御無事との事に、少しは安心したが、大変なことになり始めた故に、自分も未だ気分も本調子ではないが、飛び起き、平戸より頂いた小豆で小豆粥炊いて、義子が御供えして、戦勝を祈願して、次に正月も名残のお祝い頂く。副食物は一品もなき十五日正月は初めてなり。でもとてもとても美味しく頂くなり。
   恵林寺へ八時始まりの常会に出席す。長田まで徒歩。汗ばむ。途中道路の散水は薄氷となり、危ない危ない。定刻に遅れること三十分なるも、大した要件もなし。南禅寺門末、貯蓄報国に加入せよ、位で忠霊納骨堂建設費は八万三千九百七十五円八十銭に対して、八万五千百四十五円八十銭も収入があって、差し引き千百七十円も残金が出来たとは嬉しく思った。自分は恵林へ柚製品と蕗の薹を呈上して、九時半に散会す。次に明日の分に下村の忠霊に詣で、次に藤原に至り、持参した義子の雨具と自分のコートで今春こそは産業戦士に呼び出される故に、其れが支度用として国民服を仕立てて頂く様に頼む。蜜柑五個呈上す。老母も大変に歳寄られた。糸の配給なき為に困って居ると。何もかも仕事が出来ぬ様になって来た。でも格別に本月中に仕立てて置くと聴いて嬉しく思う。
次に福厳寺へ初訪問す。日婦の新年会合とかで馳走作りに台所は大変なり。昨年は八人で迎えた新年も今春は神田夫婦に隠居さんの三人切りという淋しさなりと。自分は務めて愉快に吹いた吹いた。柚の製品二重箱で蕗の薹も五個呈上す。次に老僧を訪れる。とてもなつかしく感じた。また迎え下され、寒年より積もる話を長々と話された。夢にさえ見たなど話された。やがて点心頂く。代わりに持参してたパン食を老僧と神田和尚へ配給して、朗らかな気分で失礼す。次に大急ぎで電車も都合好く、西代の小畑の二七日忌に、次に田井へ年賀に、不在なりしが御札と一筆投入して置く。次に故長福天禄細君今井さんを一寸訪れる。疎開もされず居られた故に、安心して早々失礼。次に西本の二七日忌に詣で、線香菊世界の空き箱六個頂いて失礼す。次に石原に詣でる。別に亡母の十七年忌の回向してくれとの事に、心静かに誦経が出来て、嬉しく思う。此の頃は回向して居ても、途中で警報のサイレンが鳴るか鳴るかと、了るまでは不安で仕様がないが、今日も先ず先ず無事なる様なり。了って甘酒とおはぎ頂いたが、義子と共にと頂いて帰る。主人は高熱で床にあり。自分より一寸先に見舞われた方は京都の方で、有名な牧師さんなりと。世界の二大宗教の僧侶が同時に訪れ、一人は病人を見舞われ、自分は故人を慰めるなど妙ならずや。次に風呂屋二階の中村に詣でる。又、おはぎ頂いた故に、弁当用パンの残りを呈上す。近頃は交換的にしなくては、頂くばかりでは申し訳なし。次に吉田の一周忌に詣でる。次に芦田に、次に三ツ井に詣でる。高福寺の坊が国民服で訪れてた。兄は中支で教育的軍務に御奉公されて居る由。三ツ井さんも今日の寒さには閉口されていた。自分は次から次からへと忙しく走る為に、大して苦にもならず通過したが、早や暗くなって来た故に、後は明日の事にして帰る。
   義子も今日の寒さに身が震えて不快で仕方無く床に付いて居た。薬石もいらんと言うて居たが、石原と中村で頂いたおはぎ焼いて共に頂く。昨日野登さんが来たと見る途端に高々指の爪をかけて物凄く切ったために一入り不快な様なり。でも薬石後は気分少々好しと。自分も悪寒を感じながらも沢山に持ちこんだ枯れ芝をコンロで焚く用に切る。ボツボツと骨は明日の事にして、枝葉のを全部片付けたら十時半。心嬉しく思いながら床に入る。
 内藤豊次氏より亡娘の死に付いて順々にタイプした手紙を頂く。可哀想な事をした。十八歳であったと。噫々。

十六日
   悪寒で調子悪く、義子は起き得ない。困った事なり。放光庵より年賀に来られた。賀儀として五円頂く。恐縮す。次に上木の老婆が死去された故に回向に行く。次に牧場八軒に大急行で正月祈祷に廻る。寒風吹きまくる。昼食に粥のアツアツ頂いて、早々宮本より中村に詣でる。大丸へ注文したオーバーも生地の入荷なき為に、何日とも解らぬ故に、一先ずお金を納めて置いてくれとのこと。受け取り帰る。次に奥野へ。十円も年玉頂いた。御礼にと早寒瓜を一週間漬物に漬けて食べ頃になった分を持参贈呈す。とてもとても喜ばれた。見たことがないと。
 次に井口に詣でる。昨年の七月二十一日とかに生まれた正一坊がクサで困っていると。一寸見たがとても性が悪い。次に岡本両家へ。次に峠を越えて、今日は珍しく神戸港に一寸船らしい船が少々停泊して居るのを心嬉しく、寒風に吹かれながら大観して、次に松本に詣でる。
 我国は今や重大時局なるに当家は太平の世の如し。謡いの聲を聴くは心好くは思わない。次に大伴タキ、今は森下を初めて訪れる。蜜柑御供えして回向す。暫く話して失礼す。山越えで帰る。夕方に義子とても不快な様なるに、大急行で平戸より頂いた若芽入り粥を炊いて、ウタル間に、思いがけなく死去された岡本へ悔みと回向に行く。十八日午前十一時で寺は千光寺なりと。次に上木に至り、入棺回向す。次に福厳寺へ。和尚と老僧を諷経に頼む。承知下された。
 帰るなり薬石頂く。義子は相変わらず悪寒に震えて居る。自分もとても悪寒がする故に、心ならずも早く床に入る。十時過ぎに突然強震あり。一寸驚いたが先ず無事でとウトウトしてたら、今度はサイレンが鳴り出した。夜半の警報はとても不快なるが、幸いに間もなく解除になる。

十七日
   自分も未だ風邪の気味なるも、あまり長髪故に茶の間で日光に浴しながら剃髪す。湯呑みに一杯程のお湯で済ます。了って水道の水で洗うに跳び上がるほど冷たかった。その筈なり。今朝は早々、水道が止まって居た。次に焚き木を叩き割る。力任せにとても危険なりしが幸いに怪我もなく、午後の一時十分までに割り終える。この間に大根や馬鈴薯のクズ等を全部煮る。尚柿、梨、蜜柑の皮に南瓜の種、キビ等々の粉をも蒸して、義子にも食べさす。とても美味しかった。廃物利用なり。次に大急行で荒木と東原に詣でる。吹く風の身に凍み震える。人は皆々走って居る。又宮本の塵箱より大根の葉拾い帰る。鶏と人間様の餌に。次に元気出して、寒肥えやる様にする。境内の畑は凍て、堅い堅い岩の様なり。時に山本医の奥様来られた。防寒頭巾で物凄い姿なり。空襲空襲の聲に薬品も危険故に、丸山の家へ疎開さす為に運んでいると。柴漬けと水仙の花を呈上す。次に自分は肥を汲んで、寒肥えに散布す。了ったら薄暗くなる。
尚庭の割木片付けもする。次に薬石の支度して頂く。食欲なき義子も十五日の残りの小豆でぜんざい作り頂く。今日は寒風に吹かれながらも意外に大仕事が出来て、真実に嬉しく。でも疲れた故に心ならずも早く床に入る。

十八日
   十時半に税金の申告書を原田へ持参せんと行くに、岡本の葬式は早や始まっているに驚いて、飛んで帰り、支度して行く。丁度、好都合であった。氏は三十三歳で遂にこの世を去られた。噫々、気の毒な事なり。了るなり原田へ。次に上木へ行き、梅屋貞紅禅定尼と位牌に書いて帰る。早々昼食の支度して頂き、待つ程に神田師来られたが老僧がなかなか来ない。心配したが一時も過ぎて来られた。早々支度して上木へ行く。式も調子良く進行す。自分は風邪で聲も変なるが先ず先ず無事に了って安心す。焼き場行きは断る。悪寒の為に。又義子も起き得ない故に。老僧と神田師接待出来ず。故に自分が先ず先ず御馳走にと火鉢を。次に自分も義子も呑まずに残しておいた甘酒を、恐ろしく熱く沸かして出す。次に昨夜作った餡入りおはぎを油焼きにして豆の粉かけて出す。次に塩湯にしそコウセン入れて、温かいのを。次にウル餅せんべいを最後に出す。此れも皆先師の初逮夜の供養の意で接待す。大喜びで神田師は先に帰る。老僧は残る。話も尽きる故に、三生軒老師の梅の十二カ月短冊を見て頂く。大喜びで見て居られた故に、楷書に書き直して頂く。此の間にと大急ぎで薬石の支度す。お粥のとても美味しいのが出来た故に、先ず義子に馬鈴薯の丸蒸しと共に食べさす。次に老僧より十二カ月の中、一枚十一月が不足して十一枚の書直しが出来たとの事で、自分へ説明しようとされるが、心ならずも忙しき故に押して粥座を奨める。添菜五種付ける。自分も共に頂く。出来たてのアツアツ故に、とても温まったと大きに喜ばれた。蕗の佃煮は持ち帰られた。先師への御供え代わりにと。好い供養が出来て自分も嬉しかった。次に明泉寺湯の上まで見送る。本年の当たり酉歳七十三歳なるも案外元気そうなり。早々気を付けてとお別れす。
 次に自分は河野という家へ満一ヶ年になる子供の死去に回向に行く。細君も重体の様なり。噫々、気の毒な事なり。六時過ぎに上木より供養持ち来る。次に山本医来られた。恐ろしく冷える故に、甘酒を熱く熱くして出す。大喜びで帰られた。次に上木より頂いた供養を頂く。純白のご飯がとても嬉しかったが、寒さに震えた。十二時前に警報のサイレンが鳴り出した。夜半のサイレンはとても不快なり。時に便所より帰った義子がウンウン唸りながら腰等をさすっているに驚き、聴いてみるに、便所へ片足落ち込み、物凄く打ったとの事に、同情すべき筈なるに、何となく腹立たしく感じた。困った事なり。真実の空襲となれば心落ち着け大いに注意せねばならん。ラジオは雑音で情報がちっとも聴かれないが空襲のサイレンは遂に鳴らなかったが、京都も遂に一昨夜、初爆撃を受けて相当に被害があった由。神戸も早晩、免れまい。昨夜、痴僧より便りあり。老僧と老婆は病が、自分は次第に元気との事に安心す。古郷の知津子さんよりも便りあり。病人だらけで大困りであったと。四月になれば主人の勤務先ハルピンへ行く由。夕方にはテルより速達来る。子供や病人で困って居る由。尚自分も左の指が痛み、閉口して居る由。ひょうそうにならねば良いがと心配す。今日は終日氷が解けず、恐ろしく冷えた冷えた。

十九日
 四時半頃に警報が鳴る。間もなく解除になる。長らく雨なく風吹く故に砂埃で大変なり。大掃除終えたら十時。次に畑の手入れしたが、凍り付いてカンカンなり。次に正龍寺の関師、配給の足袋を三足持参下されたが十文と九七で自分に使用できない。足袋ばかりは文が合わぬと仕様がない。でも御苦労様でした。次に腐敗し始めた南瓜を又馬鈴薯のクズ等、全部整理して乾す。次に昼食の支度して置いて、坂頭の河野へ子供の葬式に行く。父親一人限りの淋しい弔いに涙が。噫々。了って帰り、入口に入るなり警報が鳴りだした。好都合であった事を喜びながら、雑炊の熱々を頂く。情報は刻々に悪くなる故に、外に出て見るに、思い掛けなくも飛行雲が青空に有るは有るは。尚蚊のような敵機が白煙を吹きつつ登るあり。双眼鏡で見るに、とても高く登る。初めて高射砲は物凄く大振動を起こす。病床の義子も避退避退の警鐘に出て来る。時に初めて見る。青空に太陽の光まばゆき直下を四筋の白線を引きながら、西に向かっていく敵機十二、三を望見してたら、頭上からも尚、本堂の上空からも三方より凡そ三十機が西の空遠き上空で合流せし時に綿をちぎって投げる様な落下傘の様な形で、およそ十五、六も投弾するを見て、頭上にも来るのでないかとさえ思われた。
 義子も是がどうにもならず敵機のなすがままにさして置くとは実に残念なりと皆ジダンダ踏む。是を最後に高射砲の音も次第に止んだが、二、三の敵機はヒツコク自由に白線を書いて、飛び去らない。自分はそれを見ながら、畑の手入れす。寒肥をかけた所を耕すも、午後二時半頃なるに尚凍ってカンカンなり。やがて解除となるも、今日は出る事を中止にする。一時はドーナル事かと思ったが、先ず先ず今日も無事で好かった。義子は高射砲の響きが身体にこたえて一入り悪いというて居る。重病人には悪い事なるも仕方が無い。でも夜半で無くて良かった良かった。次に廣次君来る。牛乳の温かいのを三人で呑む。時に永井さん来る。曰く先刻の投弾、明石市で全滅なりと。噫々。何卒デマで有ればよいがと思う。廣次君は近く九州の前垣へ行く由。米と煙草等持って何となくそわそわと大阪へ。次に自分は倒れかけてる小庭の門柱を直す等々で暗くなる。六時前に落ち着いた気分で炊き立ての粥とカボチャ、じゃが芋の親の馳走で頂く。じゃが芋の親は薄く切って炊けば大根の様で食べられる。何でも棄てる事は出来ない。次に鶏と自分の為に、宮本より拾って来た大根葉を整理す。次に愛久澤で頂いた藁より粕を取り、大片付けをした。十時頃に床に入る。

二十日
 夜半に又もや警報が鳴る。心配したが空襲にはならず、何時しか解除になる。いよいよ敵機が神戸の頭上にも迫って来た。昼夜の別なく、大いに頑張り、注意専一なり。午前十時頃、日本の四発飛行機の頭上を西へ進行するを見る。残念ながら此の形は我が方に量が少なし。
 今日は義子も少々調子も気分も良いとの事に安心して早く出て片付けて、午後は畑の手入れをと支度中に、河野より十一時に葬式出すからとの事に、妙な事となり、色々交渉に帰ったきり、返事無き故に、出るにも出られず。自分に出かけ十一時に来るからと伝えたるに、早や焼き場へ行ったとの事に、相済まぬ事と思った。噫々。次に廣沢に詣でんと石段を下る時に、情報を聴くに敵機が来る様子なるに引き返さんと思いしが、未だサイレンが鳴らぬ故に、思い直して詣でる。当家でも落ち着かぬそわそわしたことなり。
 先刻明石へ再び爆弾を落としたと思うに、自分が厠に這入って居た時に、恐ろしい高射砲の音がして、義子と共に変な事と思ったのが真実の敵機であったのだが、十八日より一機や二機の来襲にはサイレンを鳴らさなくなったと初めて聴く。中々容易ならぬ事になった。
 次に大橋に、次に山関に詣でて帰り、早々残粥で早飯頂く。次に長らくの天気の続きで、畑が大乾燥して居る故に、下の畑のえんど豆等に全部水かけする。丁度一時前後なれば好都合なり。次に河野より三時にお骨が揚がる故に四時に詣ってくれとのことに、五時を約して置いて、一時二〇分より大急行で走り、先ず佐野へ十八日の分に詣でる。明石へ投弾した被害のとても大変なる事を初めて聴く。
 山陽電車も西新町へ行くには警察の証明がなくては乗車出来ず、親類を見舞いに行った主人も行かれず、青ざめた顔色で帰り、色々と大被害の模様を内密で話された。噫々。何と思っても残念な事なり。敵機を無事に帰したことは口惜しく思うが、我が方の飛行機の不足を知るべし。次に阪本に詣でる。主人も急に荷物の疎開で大多忙なり。皆、落ち着かぬ気分となる。次に東京の内藤へ御供養の糀を頼みに行く。二枚分、二十七日に出来ると。次に恵比寿薬局へ代用燃料の件で至るも、新春早々、危険物は皆一定の場所に限られ、各自に売買出来ぬ様になった由。さもあるべし。仕方なく一路瓜谷の四七日忌に詣でる。花と柚製品を御供えする。次に大故障と車不足と超満員の電車で、気もイライラしながら、やっとの事で平野に着く。吉田の二七日忌に高木も詣でられてた。
 昨日、紀州の故郷で敵の大編隊を見て恐ろしく思いながら、大阪に帰れば西行きの乗客は一切乗車禁止の為、電車はとてもとても大変なりしが、やっとのことで帰って来たが、明石の大空襲の為なりと。被害はやはり真実にひどい事になって居る由。噫々。軍の工場等故に生産が鈍る事が残念でたまらなく思う。身も心も一入り寒くなったが、塩茶の熱いのを何杯も頂き、温まった勢いで失礼。丁度電車も居たけれども、時計は四時二〇分なるに歩け歩けと大いに頑張り、峠まで来たら汗した。
 丁度五時十分前に帰る。義子はボツボツ乍ら用事をしてくれる故に、早々出て、小岩井の老婆へ柚製品と大西で頂いた昆布を呈上す。水仙花も。次に約束の時刻に河野に詣でる。焼き場には尚六、七個も積まれあるに、どんな都合なりしにや、早や骨揚げが出来てた。色々と裏表の手がある様なり。地獄の沙汰もなんとやら。
 帰る早々畑の手入れから出て来た百合根に山芋、わけぎの味噌汁で炊き立てのお粥さんを頂く。先刻来の汗の後に一入り寒かりしが、お陰で温かくなった。義子も大喜び。今日は拙寺で出来た大根漬けを初めて揚げて見たが、歯の悪い自分には困りものなり。早寒瓜はとても味が良く、歯ざわりも良く嬉し。
 次に何ぞ仕事をと思う時にサイレンが鳴りだした。何となく不安と消灯の為に早く床に入り、次に音を待ったが、幸いに解除となる。十一時前後に又もや鳴り出した。今度は空襲かと思ったが、幸いに何時となく解除になりたり。噫々。毎日毎日不安な事なり。

二十一日
 三時より久しぶりに前垣に居るてるへ手紙を書く。書き終えて義子に聴かせる。途中でサイレンが鳴り出した。昨夜七時二十分より三回目なり。田辺の海上に投弾して、南方へ飛びしと。六時になるも解除にならず。此の為に産業上大きな損害なり。夜の避退はとてもとても冷える、冷える。
 是心寺へ和尚に案内されて初めて訪問した夢を見て、義子に話し、とても風景の良い寺であったなど。妙な事もあるもの。是は夢でなく真実に小包が来た。自分は忙しく動く故に、義子はボツボツと解くに、中より出たわ、出たわ。イワシの生乾が沢山な事。尚小餅も出て来たので大喜び。荷造りは痴僧が途中で抜き盗まれない様に、厳重に戸子形にしてあった故に、無事に来たものなり。品物は是心寺様よりの心配物なり。御厚意を深謝す。時に訓練空襲警報となり、役に付く人々は大変なり。丸山頂上では警鐘が鳴る等々で。でも自分は退避する代わりに、次々と恐ろしく忙しく働く。
 昨日、珍しく配給受けた炭を整理したが、水浸かりのボタボタの上に、掃き合わせのような炭故に大困り。大きな分だけ選り別け、後は太陽に乾す。次に初めてえんどの御飯を炊く。赤飯の様で、それ以上に美味であった。是心寺の送り物も頂く。良い味なり。
 次に下の畑の作物全部へ灰を水溶きして施肥す。昨今は氷も解け始め、外は少々暖かなるも、内はゾクゾクと悪寒で、義子も自分も震える様なり。未だ風邪が治らない故ならん。次に名倉町の藤田へ旧本堂内陣に張ってあった肥松の板を記念に残す為に持参して、削って頂く様に頼む。三度目に持参して、夏ミカン五個呈上す。次に奥の庄へも蜜柑二個呈上して小菊の株二種頂く。次に日曜故に渡辺に詣でる。何時も夜なるが是で大助かりなり。次に白崎に至る。栄子へ是心寺よりのイワシ二十匹呈上す。大喜びでかき餅と豆を少々に、軍隊へ送る飴を一個頂く。とても珍しい事なり。嬉しく思いながら大急ぎで帰る。山内の和子さん来てた。義子の見舞いを兼ねて、衣類の疎開で預けに来たと。上等の蜜柑と粉のだし頂く。
 時に山本医来て下さる。自分は上木の初七日忌に詣で、帰途宮本の塵箱に見ておいた甘藷の皮をつかんで帰り、鶏の夜食にやる。珍しく大喜びで食べる食べる。次に大急ぎで大根菜を油で煎り、味噌汁を作り、エンドの赤飯で和子さんに薬石を食べさす。尚是心寺よりの頂き物と柴漬けとトマトの乾物を土産として贈呈す。七八日頃の月明かりで、六時頃に帰る。
 次にとても冷えるけれども、炭のクズを整理する。火箸で一つ一つ選り別ける故に、とても大変なり。是でも一俵の割で三円五十五銭なり。でも闇値となれば四、五十円で売買されている由。燃料の不足には皆々大困りなるも、自分は落ち葉やその他、何でも集めて焚き、昨今でも火鉢を廃して居る故に、炭はまだまだ蓄えてある故に安心なり。でも毎日毎日裏で寒風に吹かれながら、物凄い煙にくすぼる故か、又々右の眼が昨今、特に悪くなり、此の日記を書くにも左の眼の力に依る。
 やがて炭の整理は了るも幸いに警報が出ない故に、次に藁の整理す。暮れに愛久澤の藁を大坪さんの御厚意で沢山頂いたのを、毎夜毎夜の手入れで、昨日非常用として保存して、悪いクシャクシャの分を全部一分位に切る。米ぬか無き昨今、漬物用にせんと思う。おがくずの事を思えば、藁は上等で味も好し。次に古縄のクズをも全部切る。足は畑の作物の肥にせんと思う。十時過ぎに了る。大仕事の出来た事を満足に思いながら床に入る。山本医は十九日、明石を大空襲され、大変な怪我人が出た為に、応援隊として手伝いに行かれた由なるが、とてもとても酷い所があると、内密に話された。噫々。
 
二十二日
 農家の成功者某が白うさぎ黒牛を産むという七時の放送を聴きながら、朝の支度する時に、珍しや。義子も起きて来て曰く。今のお話しの方の労苦はお父さんの苦労された事によく似ていると、未だ不快ながらも精神の緊張で起きて来たものと思わる。うぬぼれながらも個人的には自分も成功者のはしくれならんなど話しながら、珍しく照る寒中の朝日を障子越しに浴しながら、茶の間でえんど豆入りのお粥を頂く。
 東亜戦も愈々決戦となり、内外共に悪戦苦闘の昨今とも思われぬ長閑な天気なり。米田の長男が鳥取県の疎開地より新春の挨拶と畜生め敵米英を撃滅さすまではと、毎日毎日大雪の中で頑張って居ると、便りが来た。次に自分は眼の廻る程忙しく働く。お賽銭箱を開けて義子にお宝を勘定さす。決戦下で総ての金属が不足して来た故に、十銭の札が沢山に出始めた。電車の運転手が乗客より受け取り、車掌が集めに来るまで、風に吹き飛ばされるには困って居たが、是も戦いに勝つまでは辛抱せねばならない。
 自分は是心寺より昨日頂いた海産物で義子が押しずしを作りたいとの事に、是も病人を慰める事と思い、古木で枠を作る。次に特に正月に配給受けた白米で御飯を炊き、昼食に頂き、残りで押しずし作る等々、義子に留守仕事さし、自分は一路、長田の西本へ三七日忌の回向に行き、水仙花を御供えする。一本が三十銭前後もする昨今、とても喜ばれた。代わりに小餅とみかん頂く。此の餅は先日有馬温泉へ疎開して居た家を片付けに行き、探し求めた餅米で、一升が三十円であったと。でも二升と売ってくれず四十九日・傘の餅用に今一升だけでも、どないぞ求めたいと申されて居た。何と恐ろしい戦時下ならずや。
 次に西代の小畑へ急行す。女の子は風邪と中耳炎で未だ床にあり、可哀想に思い、持って居た朝日柑を一個、お見舞に進ぜる。とても喜んで居た。薄暗い間で一人寝床を留守している。今日は父親の三七日忌なり。早く快くなれと念ず。
 次に白波瀬に至るも、山本の老婆も共に不在。隣家に頼み置いて、横の入口より這入りたるも、先月の今日、北海道の旭川より、無言の凱旋された英霊の遺骨は早や故郷へ持ち帰られたものなるか、見当たらない故に、山本の仏壇で回向して失礼す。一ヶ月間の間の変化は驚くばかりなり。噫々。
 山陽電車で須磨に下車。林に詣で、朝日蜜柑上二個を贈呈して、先月頂いた油のお礼を申す。先月の今日、帰る途中、敵機の来襲で二回も壕に這入ったが、今日は先ず先ず無事の様なるも、去る十九日、明石の空襲の大被害に付いて、行く先々で驚異的の話をされるに対し、自分は力強くたしなめるが、今朝、明石の新浜より参詣された方の話を聴いたが、とても恐ろしかったと。
 次に大橋に下車して奥田に詣でるに、土佐の高知の芋を焼いて下された。頂きながら、暮れに四男が出征され、間もなく徳島の陸軍病院で急性肺炎で入院したのを、見舞いや世話に、尚食べ物の不自由な事を話された。失礼して徒歩で急ぎ、角谷に。次に田中に、次に寶積に、次に岡本の初七日に詣で、薄闇い頃に帰る。
 義子が皆仕舞してくれてたので大助かり。早々薬石の支度して頂く。先刻、西本で頂いた小餅なれば一個が一円五十銭位の割になる。それに比すれば昨日是心寺より送って頂いた餅は大した高値なり、など話す。不在中に是心寺より頂いたイワシで押しずし作ったが、明日の楽しみとする。東京の内藤への小包も出来たと。故すみ子霊前へと甘酒の素糀と水仙の花、球根付きに南瓜の乾物等々入れてお供えす。暮れから午後の六時となれば雑音が這入り、夜のラジオは情報だに聴けず困って居たが、先刻寶積で聴いた様に、一寸手を入れたら急に雑音も無く、静かな調子で聴けるようになったので、義子と共に大喜び。

二十三日
 四時三十五分に警報が出て、五時半に解除となる。朝の支度する。家庭では燈火の為に大変に困られる事を思う。八時半過ぎに東京の内藤への小包出しに至るも、未だ故に中村に詣で、暫く話して再び至る。七十銭で送る。此の頃は書留が普通となる。次に白崎に至り、昨日、義子が作ったすしを呈上す。とても美味しく出来てた。節男氏帰家してたが、明日また行くと。福知山近くへ疎開児童の世話に行って居られる模様を聴く。雪が積もり一寸困る様なり。次に河野の初七日忌に詣で、色々と話す。病かりし細君も起きて話された。次に上木に野々上は不在。濱口に詣で、帰寺早々是心寺よりの海産物で作ったすしと残粥頂いてたら、又警報が出た。敵機は先頭が十六機に、後へ続くありとの事に、大いに緊張す。退避の鐘も再び鳴るも、自分は次から次へと仕事は止めずに働く。幸いに大阪上空より京都を過ぎ、名古屋方面に飛び去り、三時過ぎには解除となる。一時はとても心配したが、先ず神戸は無事で好かったが、他には投弾した様なり。義子は疲れて又床に入る。自分は雪模様なるに色々と片付けする。六時頃に山本医来て下さる。次に薬石頂く。炊き立てのお粥の美味しかった事。美味しかった事。了って七時前後に三回目サイレンが鳴る。でも今度は只の一機との事に安心して、報道を聴きながら、切り藁を粉に挽く。中々の骨に閉口して途中で中止する。でも出来た粉はとても美味なり。ヌカ以上と思わる。次に剃髪する。警報下故に暗い所で震え乍らすます。水の冷たさには頭も洗えない。次に大根葉を食用と鶏用とに切る。次に牛蒡をもキンピラ用に切り、十時に了る。大空襲下の今日も幸いに無事で色々の仕事が出来た事を喜びながら休む。妙法寺の中谷氏、参詣、お供え頂く。

二十四日
 長田のブリキ屋小林の細君が東植さんより言付かりなりとて、寒中、供養祭の御供えを御持参下された。米麦一升程に、上等の蜜柑七個に赤飯の御握り一包みに御寶弐円も頂戴す。御厚意を謝して朝日柑二個とトマト三個を呈上す。尚知章様へとて水仙花頂く。有難い事なり。次に身を切る様な寒風を押し進み、丸山の京春と田村に詣でる。子供を始め、皆病人だらけで大騒ぎであった。世話に来てた人は京都の方なり。暫く話して失礼す。往復とも訪れたが野々山は不在。次に大根葉の菜めしの炊き立てを頂く。
 外は風と共に雪がちらちらして居る。次に一時より出て途中金沢へ。新年の御礼に蜜柑を呈上す。お宝と誉一個頂く。恐縮す。次に香月への途中、電車の故障に閉口す。故に先に小林に詣で、次に水野に至るも不在乍ら回向も終え、尚暫く居たけれども帰らず。故に出て徒歩で香月に急行。幸いに陽光はあるのに吹く風の冷たく首筋がぞくぞくする故に、防火頭巾かむる。香月でも乳飲み子が病(わる)くて困って居た。時に医者が来た。咽喉を見て注射して帰る。ビール二本贈呈されてた。この頃病(わる)くなると仲々物が這入る。次に瓜谷の初月忌に詣で、次に藤原に至る。去る十五日に持参して頼んで置いた服上下は幸い出来てたが、仕立料二十五円には一寸驚いたが、丁度持っていた故に、その労を謝して支払い、早々福厳寺に至り、去る十八日に上木の葬式に来て頂いたお礼に。話して居る中に是非にと細君の勧めに薬石頂く。珍しくかぶらの熱々に玉葱等々で、皆熱々で嬉しかった。老僧は入浴中で早や一時間近くになるとの事に失礼す。十年程昔ならば、今日は初地蔵講で賑おうたものなるに淋しい事なり。新開地に急行してバスを待つ間の長かりしに閉口したが、幸いに無事帰る。不在中に山本医の奥様が来られ、正月より産み始めたとて、玉子三個頂いて居た。昨今はとても貴重品となる。義子は食べ方に付いて色々研究して楽しんで居る。自分は消し炭を整理す。時に警報が出た。敵機は只の一機で南方より御前崎に入り、名古屋より大阪近くで投弾して熊野灘へと飛び去り、解除となる。でも昨日、名古屋へ来た七十機の中、九割まで大損害を与え、今までに無き大戦果であった由なるに、敵も仲々懲りずに来るものなり。困った事なり。次に布施紙等を大整理して十時過ぎ床に入る。

二十五日
 夜半一時過ぎに又々サイレンが鳴る。四国一帯への警報であったが、間もなく解除となる。今日は故児島源吉氏が吉岡温泉の糀屋で死去されてより、満六周年になる故に、八時過ぎに出て、一路十三まで途中阪急故障で急行停止等で森脇氏に至るは十時も過ぎてた。主人在宅中で六年前の事、色々話す。持参した水仙花とホーズキ御供えして回向す。失礼して一路神戸に。次に今日こそと音羽屋こと島崎氏が有馬へ疎開されて初めて詣でんと行く。湊川より七十銭となって居る。恐ろしい乗客なり。有馬に着すれば急に冷える事、恐ろしい様なり。でも大空腹故に淋しい空っぽの駅で、持参してたパンと昨日東植さんより頂いた赤飯のお握りを震え乍ら頂く。花やかなりし有馬の駅も自分以外に一人の人も居らず。温泉街は全部戸閉めて、旅館まで入口を閉めて、死の町の様な静けさなり。御殿町へ急行。幸いに只一人青年に逢うて教えられ、何の苦も無く至り得た。島崎博造氏の宅というのは、先年山口登君を紅葉の頃、案内して行き、空屋であった立派な家と紅葉の美しさに驚き、生涯、忘れ得ぬ印象の境地の家なり。登君は今やヒリッピンで天王山とも称すべき、連日連夜の苦戦悪闘中なり。その頃に来た神戸の音羽花壇とて全国的の料理屋なりしに、昨年の三月二日より此の地に来る運びとなり、中頃には全部移り住むようになりしと。坪は全部で八千坪内外なる由。大した景勝の境地なるも、恐ろしく冷えるのには閉口して居るとの事。細君は風邪で床にあり。主人は元気で話された。あベ川頂く。身もシンシンと冷える。電気炬燵で足や膝、手火鉢にかざし乍らも震えを感ず。失礼して渓谷のツララ瀧の美観等々は大寒中の有馬なればこそ見られる美しさなり。未だ風邪の気味なるも折角ここまで来たのにと、義子が注意を充分に覚悟し乍らも、寒さに負けて遂に温泉に入浴す。脱衣して我が身の着物の恐ろしく重いのには感心した。所謂「我が物と思えば軽し傘の雪」の意が知られる。入浴水槽には温かい豊富なお湯。案外に静かなり。久し振りの有馬温泉なり。入浴なりで、とても好い心地なり。松傘の様に荒れて居る自分の両手の甲を心静かにこする。此の湯に含む塩分の多量なるは驚くばかりなり。貴重なる軍需品軽金属が産出されつつ有るも不思議ならず。天下の三名湯と云われて居るだけに湯の効力は確かにあると思う。充分に温まり。四時に出て、急ぎ駅に至るも発車後で待つ事久し。高取道まで五十銭なり。櫃戸(からと)で又もや待つ。やがて三田より来る車に幸いに乗れたが、残された方々は、又四十五分待たねばならず、雪さえチラつく今日の雪日和、真実に気の毒なり。でも車内の人も死にもの狂いの苦しさ、呼吸も出来ぬ思いなりしが、幸いに鵯越も高取も止まらず、長田にやっと下車す。大急ぎで帰り、再び春日と野々山に詣でて帰るに、寒月は物凄く照って居る。義子が雑炊を作り、熱熱を頂くに、とてもとても美味しかった。有馬の湯冷めが身を刺す様なるに、風邪引き添えては大変と、早く床に入るに九時半頃に又もサイレンが鳴る。困った事なり。てるより手紙が来て曰く。喜乃と美奈子が又もや風邪で、てるも共に泣いて居る時もある由。近き将来には姫路に移り来る由。

二十六日
 今日こそと早く下の畑に入り、わけぎに土寄せしてやる。凍て付いていて恐ろしく堅い故に、防衛団の鶴はし借りて、掘り起こす。岩の様なり。マサカリで叩き割るなど大努力で帽子も首巻も綿入れも脱いで、一生懸命なり。ワケギ、エンド等々に荒々乍ら土寄せ了ったら十二時半。次に義子は是心寺よりの海産物で押しずし作ってくれてた。出来立てを頂いて、とても美味しかった。働いたお陰で一入りなり。了る早々、一時半より大急行で大坪へ。次に岡久へ。十五日が百ヶ日忌であったのを失念してたが故に、一寸御断りして詣でる。先生は風邪で床に、若夫婦は有馬の寒気は赤ん坊のムツキまで凍る為に、暖かくなるまでと帰って居られた。
新温泉の湯より産出するリチュウムに付いて聴き、参考の為に少量頂きたいがと話したるに、仲々、眼薬の壜に一杯程が五万円もすると聴いて真実に驚いた。ラジウムに次ぐ高価な物なり。一寸茶色を帯びた液体の物なりと。用途は飛行機製造等に無くてはならぬ接続薬品なりと。それを作らんが為に、百五、六十人の人が働いて居る由。有馬の温泉も化学界の花形となりつつあり。多量に製産されん事を、大東亜決戦に是が非でも勝たんが為にと、心に祈りながら、長田に急行。山陽電の新停車場より初めて乗車す。東須磨に下車、高井に詣で。帰りは板宿より鍛冶屋町に下車。瓜谷の三十五日忌に詣でる。時局柄、淋しい法事なりと。次に平野の吉田へ、明日が三七日忌なるも本日詣でる。明日は姫路へ行かんと思う故に。次に古藤に。次に楠町まで徒歩。恐ろしい電車は大倉山では黒山の様な人が成り下がる故に、仕方なく発車。遂に七、八人も引き倒された故に、急停車したが、幸いに怪我人も無かったようであった。次は断線で真実に地獄の様なり。加納町で下車。水野に詣で、珍しく紅茶を頂き、蘇生の思いがした。柚の乾燥品を呈上す。来客あり。名古屋の方なるも、岐阜に疎開して帰らんと思うも東海道線も猛吹雪で列車不通で、仕方なく留宿して居られる由。其の人の話でも敵機の来襲は昼夜の別なく、何回となく飛来する為に、軍需工場は無論のこと、民家でも五、六千軒位は爆撃により吹き飛ばされたり、火災で大変な事なりと。水道も故障で、散水が出来ても、夜の火事は散水が全部氷となる故に、見て居るより手の付け様もなしと。叩き消すの一方法あるのみとは困った事なり。尚充分に聴きたいと思ったが、他所で話すことは堅く止められてある由に、早々失礼して三の宮駅前より、脇の浜行きの物凄いので、先ず先ず無事に山内へ六時前に至る。回向了って薬石頂くなり失礼す。幸いに東尻池行きなりし為に、一路長田まで腰も掛け得ずに帰り、十三、四日頃の寒月に照らされ、寒風に吹かれながらも、昨日義子が作ってくれた防火頭巾は防寒頭巾となり、大助かり。急いだ為に汗ばんで帰る。九時も過ぎてたが、不在中に楠寺より電話との事に、福光さんより夜中乍ら、返事させて頂くに二十八日の午後一時に、鈴蘭台駅前に葬式あり。諷経頼むとの事に承知す。福光へ厚く厚く御礼申して帰る。寒中なるに汗かいた。
大阪の牛尾半次氏、廣次君の件で来られたと。富山市の林勇造君より葉書が来てた。昨今雪は三尺位積っているが、幸いに敵機の来襲は未だなく、助かって居ると。今夜は冷える冷える。身を射す様なり。 

二十七日
 御恩返しの一部にもと、空消しと堅炭に菜っ葉に上等の干柿三個を三田氏に贈呈す。近頃、疲労を感じ、炬燵にばかり居ると。顔や手を怪我して居られた。とても喜び、二円もオタメ頂き、恐縮す。次に糀屋へ行く。大変な行列なり。三枚分六十六銭で受け取り、尚一升渡し頼み置く。二月の三日出来ると。大急行で帰れば汗かいた。義子に姫路行きの支度頼み置いて、自分は大急ぎで中島へ老婆の三年忌に詣でる。幸いに福聚寺は未だであった。やがて来られたが、先頃末兄は東京へ出征入隊するし、弟の方は明石の飛行挺身隊へ。去る十九日の大爆撃に逢うたが、不思議に命拾いしたが、細君も子供も大病となり、自分が寺役も休み、世話してたら、つい又自分も病み、今日初めて出て来たとのこと。次に早々時局柄急行で観音経で了る。次に珍しや、御供養頂く。淡路の純白米の御飯はとても嬉しく頂き了り、話してたら、サイレンが鳴り出した故に、早々失礼す。敵機はとても大編隊で来る模様なるに不安なれば、姫路行きは中止にする。
 報道は名古屋に向かうとの事に、情報を聴きながら、小雪さえ風に混じり、大変に寒いけれども、先ず明日は初二十八日故に、大手洗い鉢の水を変える。古い水は下の畑に施す。雨降らぬ故に作物は枯れる。寒気と霜とで葉も黒くなって居る。
 次に十一月十七日の大暴風雨に吹き飛ばされた中段北の入口を今日こそ閉じんと、先ず開いてるうちにと平松、永井と次の三軒の厠を汲んで、唐柿(イチジク)に、柚に、柿等々に寒肥をほどこす。尚拙寺の分も汲んで畑に散肥す。
 敵機は名古屋及び東京に侵入。とてもしつこく仲々に解除にならず、不安ながらも自分は頑張り、肥汲み了り、次に古板で遂に北の入口を閉ず。その他の手入れもする。次に自然薯の実を下の畑に蒔く。次に玉葱の苗をも寒中ながら植え替えてたら、遂に震えが来た故に、早速中止にする。義子は一入りで忙しく、薬石の支度してるが、手伝うてやる事も出来ず、炬燵に入る。次に薬石頂き、了りに近き頃に山本医来て下さる。義子の元気も注射の御陰なり。次に心ならずも早々休む。でも今日は色々の大仕事が出来た。空襲も神戸は無事なりしが、東京には火災が起きた模様なり。是心寺様と痴僧より小包の御礼頂く。とても喜んで。

二十八日
 正月二十八日なるも今朝の厳寒は格別で水道も止まり、水まく事も出来ないが幸いにお照りがある故に、早朝より畑に出て、昨夜の続き、玉葱植えてたら山田氏参詣さる。暫く話して行かれた。植え了り、尚新しく掘るも凍てて岩の様で、仕事にならず。故に一畝だけかじいて十時半に中止。次に又もや警報が出た故に、情報を聴きながら、山芋の実を拾う。幸いに明石より大阪に向かい、南方に飛び去り、解除となる。碧空を自由に飛来するなど残念でたまらない。
 次に二十八日故に、平戸の小豆で赤飯炊いてお供えして頂きたり。とても美味しいので沢山に頂き了る。早々に出て高取駅へ大急坂をボツボツ乍ら登る。登り切るなり車は来た。掻き付く様にして幸いに乗れて大助かり。今日は名号石の山なり字をはっきりと拝んだ。景勝の奇岩面にとても筆太なり。次に小部に下車。楠寺檀の近藤という家なり。寺院休息とある隣家に入ったるに、思いがけなくも細君が暫くでしたと気前よく迎えてくれた。不思議に思ったら安沢さんであった。息子三人共出征され、北支と小笠原と今一人は行く先不明なりと。主人は防衛の役申しつけられて忙しく、今日の葬式の世話もされてた。
 村の寺二ヶ寺に楠に、恵林寺来られた。共にお握りの供養頂く。次に式始まる。自分は役僧をも兼ねて、都合好く了る。外は小雪さえちらつき、恐ろしく冷える。夢野の焼場への霊柩車に同乗して長田でお見送りして置いて帰る。日露の勇士で七十余りなりと。噫々。
 帰る早々再び出て、岩城と岡本と上木の二七日忌に。次に濱口に詣で、帰るなり下の畑で玉葱植え替える。暗くて手先が見えぬ頃までに玉葱植えと一畝掘り返して置いて上がる。恐ろしく冷えて疲れた故に、夜業は休み、義子が山本医より頂いた玉子で風邪薬とて玉子酒を作ってくれた故に頂き、早々床に入る。九時前後に又もやサイレンが鳴る。ヤレヤレ。

二十九日
 午前中、下の黒竹の藪を大整理して入口を直す。昼食頂き、一時頃より出て、中村に大丸で衣料券古を新に取り替えて頂く様に頼む。次に西本の四七日忌に蜜柑三個御供えして、次に妙楽寺に新春初めて行く。和尚丁度帰って居られた。南禅寺の冷えは格別で閉口して居ると。老大師は元気なる由。早寒瓜と若芽そうめんと是心寺よりの乾し魚を呈上す。四国の新浜の干柿で薄茶を頂いたが、干柿は自分の作る程の物を未だ見ず。失礼して田井に至るに大変なり。暮れに姉さんが一寸難病された上に、母さんが大久保で死去され、次に二十八日に自分が物干し台より真っ逆さまに落ちて、兵庫病院へ三日後に正気付いた様な事であったと。今も尚包帯して青白い顔をして居られた。色々慰め申して菜っ葉を呈上して失礼。次に西代の小畑の四七日忌に詣で、次に前田の祥月なるも中止にして、帰途大村と田中と藤田に詣で、帰る早々再び藪の片付けする。玉葱その他霜除けしてやる時に廣次君来る。共に薬石頂く。了って話は九州の前垣、今後の件に付き。次に父親が去る十五日、七十一歳で淋しく死去された由をも聴く。三人も子供がありながら、淋しい最後で気の毒なり。為に廣次君は後片付け等で、京都に居ると。配給品持って上京す。時に警報が出て居る。田井さん本宅も四月二十二日の大爆撃に破壊された。

三十日
 午後一時十分頃と二時二十分頃と二回警報が鳴る。義子は苦しいとて日本丸を求める。二時過ぎには一寸楽なりというてた。夜半、とても苦痛を感じた義子は、お陰で粥座を頂くまでになったが、起き得ず。為に姫路行きは中止にする。九時頃、又もや警報なり。真実に落ち着かぬ事なり。水槽の向こう側を掘り、唐柿に施肥、及び南瓜の床を作る様にする。山芋が出て来て深くて大汗なり。苦心のお陰で沢山に掘れたが、皆折れてクズ芋となる。
 十二時五分前より、落ち葉でお粥さんを炊く。次に掘り立ての山芋、昨日、米田の栄子が一個だけくれた玉子入れてとろろ作る。寒玉子だけに恐ろしく上等で、黄身の色の美しさ。義子はとても喜んで、共に頂く。残粥で甘酒入れて置く。次に後藤へ神戸市民号を。次に濱口の前の森に詣で、次に原田組長で玉子申請用紙に印を頂き、次に河野の二七日忌に詣で、次に松野町会長へ証明頼みに行く。斯くの如く苦心した玉子の証明書も現品亡き為に、二通はお流れなり。次に大橋に詣で、甘茶を頂く。砂糖なき昨今、甘茶はとても重宝なるも仲々手に入らない。次に前田へ馬糞頂きたいと頼み、次に宮本常次の細君より馬鈴薯頂く。真皮や南瓜の腐りかけ捨ててありしを鶏の飼にと頂いて帰る。大助かりなり。次に晩の仕舞を了えてから落ち葉を片付ける為に菜っ葉入りの雑炊を炊く。恐ろしい煙なりしも、塵が片付くと嬉しく思う。時に山本医来て下さる。自分は先刻、前田の馬舎より運んだ馬糞を畑にも入れる。馬糞の権利は松岡にあるのか、何日もなるが今日は特にふくれて居た。不快なるも意地から全部運ぶ。上等が沢山にあった。次に唐柿の根元手入れす。真っ暗となり、中止にする。次に薬石頂く。昨日栄子がくれた餅で阿部川を作り、次に先刻宮本で頂いた馬鈴薯を雑炊の中で煮て頂く。丸炊きはとても美味しかった。義子も大喜び。次に夜業を始む。先ず大根等を自分等と鶏の餌に切り分ける。次に南瓜を大整理す。腐った所もあるが、食べられる所が九分まであった。明日の馳走にせんと思う。九時過ぎに了る。七時半頃に出た警報は幸いに解除になった故に、久し振りに明泉寺湯に行き、剃髪す。長らく風邪で心配してたが、良い気持ちになった。十時半床に入る。

三十一日
 一月中、遂に雨降らず。今朝来、初めて牡丹雪が降りつつあって、珍しく美観なるも、夜分でなき為に、積らず消えて行く時に、早くも地蔵院様が来られた。去る九日、訪問したに対し、答礼の意で問候と大根の切乾しまで頂戴す。丁度火を起こしていたので、火鉢に充分火を入れて、次に梅湯を砂糖無き故に塩味で温かいのを。次にパンの乳ふくらまし焼きの熱々をも出し、降る雪を見ながら来意を拝聴するに、今度いよいよ思い切って家内を迎える事に決定したから万事宜しくとの事。細君は永福寺様の世話で、やはり出雲の方で、二月十九日に先方に行き、式を済まして、二十四日に帰院して、二十五日午前十時始まりで御本尊へ報告回向して、次に斎座(昼食)という順に進めたい故に。尚岐阜の瑞龍老師には二月の十三、四日頃が旧正月となる故に、初めて故郷へ迎春に行かれ、式にも来られる由。お祝い申し上げる。十一時頃には天気となる故に、落ち葉を片付ける為に御飯を炊き、是心寺より頂いた餅と昨日宮本で頂いた南瓜を入れて、共に蒸し、三つ合わせて搗くに、ドベドベとなったけれども、冷えるに従い、程好い加減となり、ナマコにつくり、残りを豆の粉付けて頂く。甘くてとても美味しく嬉しかった。
 午後、義子も気分好く起きてくれた故に、安心して出て、先ず谷口に次に山本に。次に中谷玉子屋に至り、久し振りに病人用配給を受ける。証明券三枚持参したが二枚は現品不足の為に、お流れとなり、一枚分百目頂く。金谷様の分も頂く。百目六十二銭であった。闇値は一個が二円近くも噂あるに公定は六個もあって六十二銭とは有難い事なるが、安過ぎて気の毒に思う。その代り、次の配給は何日とも知れない。割れもの故に仏壇屋に預けて置いて、諏訪山下の前田老人の祥月に詣でる。水仙花を呈上す。とても喜ばれた。せめて御祥月だけでもと思うたが、花が求められず、困って居たとの事。真実は昨日なり。
 早々失礼して、預けておいた玉子を頂いて、破らない様にと汗かいて、そろそろ帰る。電車に持って乗って居たならば、きっと破って居る。大変な押し合いへし合いなり。次に藤本に詣で、米ぬかと小豆三合程を頂く。有難く嬉しく感謝す。
 夕方に帰る早々、水槽際の南瓜床を作る作務を続ける。山芋の大なるを掘り出す。次に塵、馬糞に肥を汲んで入れて土を全部盛り、真っ暗になって片付く。大仕事の出来た事を喜び乍ら、薬石は甘酒と南瓜餅で済ます。次に夏枯れ時の御花にもと、シャガを植える様に。次に山芋を整理して十時前に了り、休むに又もや警報が出たが四国方面故に早や馴れて、大した不安を感ぜずに夢路に入る。十一時半に又もやサイレンが。敵の餓鬼め。毎夜毎夜安眠をサマタゲニキヤガル。
 金谷へ玉子渡す。奥様は四十度も熱を出し苦しまれ、娘さんが世話されてた。昨今、風邪が大流行で困った事なり。雨降らぬ為ならん。

昭和二十年二月一日
 敵機空襲下に晒されながらも神戸は先ず先ず無事に一月は過ぎたが、明石が大変な犠牲を払ってくれた事は誠に残念なり。曇天の為に少々暖かく、氷は皆解けた。
 楠寺より電話福光様にかかる。三日午前十時始まりの葬式に来てくれとのこと。次に下の畑の手入れするも何となく身体の調子が悪い上に、金谷さんより薬取りを頼まれた故に、ほどほどで中止して正午早々出て、中島に詣で、次に山本医に薬頼み置いて、次に九州の前垣のてると大怪我された田井さんへ見舞いの手紙、義子よりの分を投入す。只今は七銭なるも四月から手紙は十銭、葉書は五銭になる由。次に武内に詣で、次に西代の小畑に詣で、半病人の娘と母親に修養談を次に高井に詣でる。次に初めて山陽電に乗る。須磨までの徒歩。今日は特に疲れた。
 金谷さんへ山本医の薬渡して帰り、早々小雨降る中を色々片付ける、馬糞も全部本堂の屋根下へ運ぶ。濡らさぬために。次に昨夜整理したシャガと楓をも植える。了って長濱氏へ三度目に詣でる。親類の息子が山形へ入隊するのを見送りに行ってたと。次に仲井に詣でる。雨は降るし、真の闇となる。自分は先刻より汗かくに、義子は寒くて震えて居る。薬石の途中に山本医来て下さる。次に山芋を蒸して皮を剥く。義子と二人でとても手間物であった。九時前に了る。久し振りの雨は静かに静かに降って居る。千金に値する雨なり。降水、降水。でも朝から三回目のサイレンを耳にしながら床に入る。各地とも無事ならん事を。

二日
 四時半頃に又もやサイレンが鳴る。自分はそのまま起きる。久し振りの雨は止んで居るが、静かに降った為に、充分に浸み込んで、草木共に大助かり。氷も見られなくなった。何となく春の近づくを感ず。
 十時まで忙しく働き、次に瓜谷への焚き木持って十時半に出て、西本の初月忌に詣でる。柚の身と皮に干柿を呈上す。とても喜ばれた。代わりに白餅三つ頂く。一個壱円と見ても三円なり。一升が三十円の餅米で作ったら、その割となる。恐ろしいやら、有難いやら。次に柏倉に詣で、次に瓜谷へ満員の電車を乗り替えして、苦労してクヌギとホソの割木を、先日あまりにも悲しい話を聴いた故に、御供えの心持ちで持参。六七日忌に詣でたるも不在なり。仕方なく隣家に託して置き、一路五番町二丁目まで電車。次に松川に詣でる。当家も近く細君と子供だけ故郷の能登の国へ疎開される由。連日連夜の敵機来襲、サイレンの鳴り等で、神経を悩まされるも無理はなし。次に白崎へ明日の分に詣でる。次に大島と太田に詣で、二時前後に帰寺。早々、雑炊を温かくして頂くなり、早々、山の大原に急行す。汗流る。畑の作物は皆霜枯れで配給無き為に、民衆の困りは大変なり。次に太田に詣でる。次に帰寺。早々、義子は不快乍ら自分の羽二重衣の大修繕してくれてたが、遂に辛抱出来ず炬燵に入る故に、薬石のお粥炊き乍ら、次々と晩の仕舞いして、粥のウメル間にと、五時過ぎより下り、山本と中島で南禅寺へ出す寺財産を作る貯蓄申込書に調印を願うて、大急ぎで帰れば大汗で帽子も首巻も解いて、吹く寒風を身に受ける心持の好い事。帰れば濱口より百ヶ日忌に迎えに来たとの事に、早々四回目出て、警報の鳴らない間にと、心静かに元気に声も豊かに気持ち好く回向が出来た。
 帰る早々薬石頂く。義子も共に頂く。先刻のお粥が温かくて、とても美味しかった。次に寒いけれども明朝の支度にと大根菜の漬物をも微塵に切る等々で、十時頃に床に入る。今朝の四時半から先刻もサイレンが鳴る忙しい一日であった。

三日
 早くより支度して、八時過ぎに出て、宮本に至るも不在。次に糀屋で受け取り、品物は預けて置いて、次に故障だらけの市電で県庁裏で下車。楠寺の檀家、小林家に至る。まだまだ早い様なり。染谷という家で休息す。とても立派なり。やがて楠、次に恵林寺来る。尚住友銀行の友人連も同息す。珍しく何年ぶりかに高砂製の様なキンツバを頂く。小型なるも味も品質も変わりなかった。式は遅れて十一時半に了る。恵林寺へ本山への貯蓄申込書を託す。早々失礼す。恐ろしく寒い寒い。恵林の小僧さんより鍋枕の転宅先を聴くに須磨国民校の東門前なりと。次に平野の吉田の四七日忌に詣で、煎り豆、煎り米の薄いお粥の様な物を頂く。寒い時にはとても温かで嬉しかった。失礼して出るなり藤井と高木さん来られた。自分は一路鍛冶屋町まで。次に瓜谷に至るに今日も不在なり。子供が病くて大阪の病院へ行かれつつある様なりと。
 再び須磨車庫前まで。次に高井に向かって急行す。次に須磨寺前まで急行す。精乳舎に詣で、次に井田に詣で、初めて薄茶と焼き立ての三笠を頂く。でも皮だけで餡がない。失礼して垂水に至り、小東に詣でる。広島の弟一家の円満ぶりを写真で拝見してお喜び申す。
 失礼して明石に向かう。橋爪に詣でる。今日は息子の誕生日なりとて小豆飯を頂き乍ら、去る十九日の大空襲で近くに爆弾の落ちた恐ろしかりし時の事を聴く。でも西新町方面に比すれば助かって居られる。老婆の病気は一寸持ちなおして居る様なり。次に岩本に詣でる。細君、風邪がこじれて頭が痛み、悪寒がして起きられず困って居る。主人が会社を休んで世話して居られた。暁と誉れ、煙草呈上す。十九日には大蔵谷町内へ小爆弾の様なるも、皆で十個ほども落ちて、皆縮み上がったと。でもガラス等破れてはいなく、人の怪我も二人ほどで、死人は無かったと。
 六時にみかんと紅茶を頂き嬉しかった。温まった勢いで失礼す。電車に幸いと乗れたが大故障で、皆は一時間以上も待たされ、寒さに震えて居られた。自分は好い都合であったが欲には限りなく、塩屋を過ぎて間もなく山手に出来つつある新線路に初乗りしたは好いが、ガタンゴトンで大閉口なり。でも昼ならばとても景色が好い様なり。西代にやっと来たと思えば、故障で乗換え、又大変であったが、先ず先ず長田に着いた。糀屋に至るも早や寝て居るのか返事無く、仕方が無いと阪本に至り位牌に梅心妙香禅定尼と書いて回向して、明日の式の法衣を頂いて失礼。
 時に警報。真っ闇な夜道を大急行で帰寺す。義子は年越しというので是心寺よりの尾頭付きにお酒付けてお粥も温かいのを頂き、煎り豆も歳の数五十七個頂く。福は内、鬼は外の豆撒きはなし。長田神社の追儺式も本日は中止となる。義子は終日寒さに震えて居たと。自分は忙しく走り回り、汗かく思いしたが、摩耶、六甲は白いものを頂いて居る。

四日 
 神戸初大空襲大火災起こる。
 今朝の冷えは格別なり。厠の水樋も遂に破裂して大困りなり。下の畑の玉葱の霜除け除けてたら、井口が参詣す。仕事中止にして回向す。
 九州の前垣より小包来る。ニシンの塩漬けなり。魚の不自由な時とて一入り嬉しく思う。時に変なウナリが聞こえると思ってたら、旧天神山の上空に白雲の様な綿の様なのが七、八つあった。高射砲なり。やがて青空を遠くに十字形に見える敵機は白く光り、自分の真上をユルリ廻り、東京へ向いて飛び去る。無事に帰すは残念なり。本年は四日が節分で長田神社では悪魔退散の鬼追い行事が始まらんとする時刻に来る。
 次に上木と岡本に。次に宮本へ、昨日の代わりに詣でる。登志夫君が休んで居て、芋を焼いてくれた。焼芋を頂き乍ら戦局についてお互いに心配す。十二時半頃に大変な事、大満腹になるまで頂き、尚義子にも頂いて帰る。次に再び出て上山に詣で、次に山本医へ義子と金谷さんの玉子の証明頼み置いて、出るなり警報が出た。阪本の葬式は三時始まりなるも報道は大編隊とのことに、早く式を始める。不安な中にも心静かに無事に式了り、二階で法衣を片付けてたら高射砲が鳴り出した。またたく間に敵機は頭上に明石方面へ。この間三分間程なりしが、初めての事とてどうなる事かと思った。幸いに静かになったと安心してたら二回目が来た。爆弾が落ち来る音は何とも云えぬ身の縮まる思いがする。自分も一寸身の置き所に困ったが、幸いに押入れに入り、ふとんを頭から冠って耳や眼を押さえて居たが、それでも身体にこたえる物あり。近くに敵弾が多量に落ちた様なり。三回も繰り返したが幸いに自分は無事なるが、外は仲々大変な騒ぎなり。やがて空敵は南方に去り、解除のサイレンが鳴り出したと同時に、義子の事も心配故に。でも昨日預けて置いた糀を取りに電車道まで出たら、大変なり。金光寺の本堂はすでに早や焼け落ち、鐘楼堂が今や物凄い火を吹いて居る。噫々、恐ろしい事なり。下の方は川西通りの宝満寺より遠くの方では天を覆う黒煙なり。右往左往する人は蟻の様なり。でも幸い昼間の事とて怪我人も少なく。規律も守られあり。自分は大急行で帰る。男女共に勤める会社へと走る人の多量なるに驚いた。明星橋には丸山の捕虜が炭や柴を運ぶあり。先刻来の有様を心密かにほくそ笑んで居た事ならん。
 帰れば幸いに義子は元気にしてた故に親子共に心から無事を喜ぶ。でも今の間にと、奥の薬師寺に詣でる。不在なりしが入り、回向中に帰られた。二人の娘は三菱と阪神に挺身。主人も、でも今に何の便りも無く、聴くに両方とも火の海の様に聴かれ、子を思う親心として泣いて居られた。何卒何卒無事を祈りて失礼す。
 橋まで来て下界を見るに恐ろしい猛火は煙と共に大空に登り、神戸全市が焼けのが原になりつつあるのでないかと思われる程で、身が震えたが大汗で帰れば、やはり先刻来の焼け残りなり。それにしても大変な事なり。早々薬石済ませ。市内より退避して来られる方があるやも知れずと、心構えて休む。平松のふさのさんは信やんが無事に帰った事を喜び、知らせに来られた。敵は十二時まで三回も来た。しつこく空襲し来たる。

五日
 不快なりし夜は無事に開けた。粥座後、義子は姫路へ自分が九日に前垣の家の件で頼みに行く心積りなりしが、連日の空襲でとても行けない故にと、葉書で牛尾両家と大阪の高津へ前垣の家の件、心配して頂きたいと。次に是心寺の痴僧へは空襲無事安心されたしと葉書書いてくれた。今朝の新聞には敵機百機の中、八十五機が神戸市を空襲すと、大きく書いてあった故に、皆心配してくれてるならん。 
 早々に出て大急行で白崎に詣でる。直ぐ下の方の風呂屋の近くに焼夷弾が落ち、火災が起こりしと。その焼けた家は下の永井氏が務める会社の社長兄弟両家に限られて居たとは妙な事。でも気の毒な事なり。珍しく紅茶を一杯呑ませてくれて温まる。次に杉本に。次に山崎に詣で、お餅を頂く。かき餅切った耳なりと。御厚意を謝して失礼。次に山本医で金谷さんの分と共に玉子の証明頂いて。次に走りながら西本の五七日忌に詣でる。次に西代の小畑の三十五日忌に回向中に警報が鳴る。了る早々、出て長田まで急ぐ途中で、幸いと解除になる。市電より金楽寺の焼跡を見る。全焼なり。畳が百八十枚敷ける神戸一の阿弥陀堂なりしに残念な事をした。次に北野へ登る。高木は不在なりしが幸い城本も共に帰られて大助かり。藤井は風邪で床にあり。故に断り、城本に詣で、次に諏訪山づたいに平野へ徒歩す。二時前後なるに淋しい事なり。やがて石井の大伴へ地下足袋が頂けるかと思い、至るもダメ・・・。鉱山も近頃は地下足袋もわらじ一日に二足に変わり、皆困っている由で、とても手には入らぬ様なり。馬鹿見たが仕方が無い。次に松本に詣でる。当家は神戸全市が大観出来る高所なるが故に、昨日はとても恐ろしかったと。失礼して山越えで夢野の峠より吹く風に汗の身体をなぶらせながら、全市を大観したが、昨日の大空襲も大局的には真実に若干の損害で何等変わった所も見られない。只一ヶ所だけ煙の噴く所ありたり。先ず好かったと思い、喜びながら急ぎ帰れば、廣次君が見舞いに来てくれてた。近頃は父浅吉氏が先月十五日に死後、京都より会社に務めて自炊して居る故に義子は昨日前垣より送り来たるニシン等々呈してた。自分は川重に詣で、次に松本氏を見舞うたに、三菱で自転車は出す事が出来ず、焼けて仕舞うたが、身体は無事で帰りましたとの事。噫々、好かった好かった。自転車も此の頃は千円出しても買えなく困った事なりと。次に神田氏を訪れたが幸いに川崎は無事。一番の大損害は鐘紡の全焼なる由。綿布の不自由なる時に残念な事なり。次に美術商の西氏を訪れたが無事。次に原田を訪れたが幸いに怪我なく喜んでいると。
 次に正月に中村さんより頂いたスルメと大西さんで頂いた昆布と柚の皮を持って奥の薬師寺を見舞うたに、是も幸いに娘二人共無事に帰って来たとて大喜びで、昨夕は皆声上げて泣いて居られたに、怪我も無く好かった好かったと共に喜び、喜び心を表す意で、持参の品呈上す。とても喜ばれた。大汗で帰るなり、出来たてのお粥さんに前垣のニシン焼いて頂く。大空腹で嬉しかった。次に今日の忙しさでも無事で働けた事を喜びながら、鶏の餌に大根の拾うたのを切る等々。次に本日徒歩中に拾い集めた軍需資源、ゴムだけでも二十八個を始め、金属等々百数十点を整理して、十時床に入る。十二時前に西の方より飛来した敵機、気味の悪い爆音を耳にするなり、ドドッーと、二回に七、八個も爆弾が丸山の奥と思われる所に落ちた。かなり震えた。それは須磨方面とラジオは報じた。次に来た分は六甲の山中に投下したと。次は二時頃に来た。又もや丸山上空と思われる所を不快なウナリをたてて通過した。一寸胸がドキ付いたが上筒井と思われるあたりで投弾した音を聴く。何卒、何卒無事なる様にと祈る。真実に連日連夜、不断に空襲し来たる様になり、今夜も十一時半頃より三時頃まで市内では退避退避で、寒い夜中に困ったことなり。

六日
 五時前と十時頃に又々多数飛来の模様なるに、出る事は中止にする。壕にも入ったが、幸いに無事通過した。昼食後、早々に出て宮本より藤田の娘の七年忌に、次にバスで新開地に出て、大橋に詣で、次に大西へと向かうに急行は芦屋に停まらず、深江に停車して、次は西宮となる。仕方なく西宮より国道を走り、西宮駅に至る。疎開の人なるか、大変な乗車券求める人に気もイライラとした。やがて立花に下車。吉田に詣で、再び西宮に引き返し、十銭儲けようと札の辻まで走る。電車と同時着。胸もドキドキしたが、早くて十銭儲けて、芦屋に下車。大西へと急行す。全身汗ばむ。干柿五個御供えする。故主人の遺品、紬を防火頭巾用に頂いて失礼す。再び国道で岩屋より市電で都合好く電車に。先ず先ず七時半頃に帰る。今日ほど警報が今か今かと心配した事は無かった。遠くに出て居る時には帰られなくなる故に。
 三越の前不動銀行となりと大丸前に昨夜投下された。硝子が大変な事なり。三和銀行入口の石がひどく欠けていた。

七日
 午前二時半頃より警報となり、三時頃に敵機は明石の方より通過した。遠くに投弾聴く。直後の報道は神戸港海中との事に安心す。
 吉田が十日に三十五日忌を務める故に、供養箱借りたいとの事に十個包み、南瓜半分と藷のつる水に漬けたのと金網を呈上せんと、山越えで平野まで急行す。折角なるに大空襲の夜、再び来た敵一機は増田製粉に投弾して大火災を起こし、為に都合してた品物が手に入らなくなり、供養は出来なくなったと。それよりも各学校に配給されてるパンにまで、一寸差し支えて居る噂さえある。困った事なり。初月忌の回向了って小豆粥一杯頂いて失礼す。外は小雪が振り出した。楠町で乗り換えて、青年会館前に至るに、五日夜十二時半頃に感じた投弾なるか税務省に憲兵分隊裏には友軍機が墜落した模様で、随分広い間、硝子が破れて、恐ろしさの為に転宅されて空家が多く出来てた。障子硝子が無き為に板や紙で応急手入れがしてあり、憐れな事なり。噫々、困った事なり。五日の夜には此処と三越前と大丸前に、丸山の萩の荘に。でも大丸前が被害大なり。熊内に下車。雪が降る中を香月に詣でる。先月二十四日に病かった子供は幸いに快くなって居て、嬉しく思う。非常用堅パン、サナギで甘味を付けた物を頂く。製品にして仕舞えば何でも食べられるものなり。
 大雪となる。長田の阪本の初月忌に詣で、主人の故郷、紀州の二本津とか鬼ケ城の先の小港が十二月七日の地震と直後の津波の為に、村なり海岸の家も畑も全部洗い去られた大悲劇を聴く。地震や津波の被害は空襲以上に恐るべし。此の上に天災地震無き様にと祈る。帰りは下駄に雪が喰い付いて歩けなく、閉口した。早や銀世界となる。でも警報も出ず、無事に帰れば境内寒枯の樹々の美しさ、近年にない大雪なり。
    寒ぼけの一輪あかし雪の下
    ぼけの根に寄り添ふて咲く水仙花
    大雪に穢土も浄土と早や変わり
 全身大汗なりしが足は冷える冷える。暫らく炬燵で暖める。義子も震え乍ら、自分のモンペ作ってくれてたが、暫く共に休む。
    親と子が炬燵を中に雪静か
 次に元気出して盛んになる雪を除け乍ら、ゴモクでお粥を炊く。物凄い煙なり。尚次から次へと用事す。早く薬石頂く。次に棕櫚ホーキに竹の柄を付ける。何十年も打ち捨ててあったものなり。今少しで仕上がる時に、サイレンが鳴りだした。七時半頃なるか。でも四国に入り、室戸岬へ飛び、間もなく解除となる。雪の夜は静かに深み行く。

八日
 大雪に明ける。東の空の色の美観は何に例え様も無い。境内の樹木は皆重たげに綿頭巾。平和なら申し分なき日本晴れの今朝なるも、何日、何時、ブーが鳴るやら。でも外の仕事は出来ず。午前中は箒の修繕、仕立て上げる。次に落ち葉等でお粥炊いて頂き温まる。午後は松田に次に宮阪に詣でる。雑炊の御供養頂く。南洋の猿、本年の寒さに辛抱ならず、先日死んだと。噫々。主人は御用船九隻で南方に向かう途中、台湾までに二隻敵に沈められたが、台湾を離れてからは未だ何の便りも無しと。真実に危険な海上、ご苦労様なり。今度、少佐に進級された由。海上安全を祈り乍ら失礼して、田中に詣でる。次に岡久に詣でる。先生在宅。息子は空襲を恐れ、再び寒い有馬に帰ったと。次に財家に詣で、夕方に帰る。大道路の雪は消えたが雪は未だ未だ二、三日消えそうにない。仲々冷える冷える。夜は義子は支那の白綸子でモンペ作り始めてくれる。昨日作ってくれた浅黄のモンペ、今日初めて使用。とても暖かく嬉しかった。
 自分は明日の馳走にと藷の尻、大根の葉、最後に南瓜等々、それぞれに応じて切る。今日は珍しく敵機も休みなるか。
東京の内藤より工員三百名が少しずつ持ち寄って、故スミ子への御供えにと作ってくれた菓子白製粉(白雪糕(はくせんこう))を送って下された。白椿の花形なり。十個、とても甘くて嬉しく思った。

九日
 午前二時十分頃に遂に敵機は真実に頭上かと思う空を案外低く西より東へ飛ぶ。ウナリは流石に気持ち悪しと思う間に、変な音は焼夷弾なるか。遠くに去り、無事と思ったに、間もなく地上で五、六発も爆弾の炸裂を聴く。何卒無事であれよと祈る。ニックイ敵機め。何とか捕らえる事がならんものかなあ~。
 山口友之助様より小包が来た。義子は気分病い乍ら大喜びで開く。蕎麦の実が主で、アラメととても美しい胡麻。いずれも沢山に頂く。皆貴重な品ばかりで大助かり。義子は辛抱がならぬか、右の品々片付け半ばにして床に入る。自分は幸いに今日は休みなる故に、藷のつる、蜜柑の皮入れて佃煮を。次に南瓜をも炊いて、非常用の副食物を作り、次に先日藤本で頂いた小豆をも煮ながら、次から次へと忙しく働く。外は雪解けでバタバタ音がしてる。
 昨日、内藤より頂いた白製粉の菓子で甘味を付けてゼンザイ作り、昼食に頂く。一時過ぎより、寒いけれども今日こそと義子が心配するのを押して、大松の葉刈り始む。空は日本晴れなるも風あり。雪は白のザラメ糖が堅くなった様に、又綿の様に葉上にあり。危険なれば充分に注意し乍ら、一生懸命に次々と下る。随分と荒い鋏刈りなるも、今にも敵機が来るか来るかと思い乍らの決戦下なれば、心静かな仕事はして居られない。又太陽のお照りの有る中でないと、とても仕事にならぬ。大汗でドンドン下る。下の永井の娘は食パン持って来てくれた。雪を踏む音がいかにも寒国の子供と思わせる。義子病い故に、松の根元に置いて頂く。
 薬石の時に聴いたに、此の頃即ち三時頃がとても苦しかったと。胸が痛む由。地上より出来る様にまで進み、やれやれと思い乍らも、一生懸命。時に山本医義子を見舞うて下さる。氏の娘も毎日、鐘紡に挺身隊で務めて居られたるに、四日の大空襲で早やこの世の者でないと悲しんで居たら、遅くに助かって帰ったと。その後鐘紡は全焼で働く工場無き為に、再び女学校に登校して居るとの事。危ない事、危ない事。
 次に薬石の支度。今朝来、太陽の光に温めてあった煮込みの御飯を炊き乍ら、何遍となく出入りし乍ら、火の用心に注意して蒸し炊きにす。大松は本堂の前の横になる最後の一枝となる時に、平松より乳二本も頂く。昨日、大雪で配達が出来なかった為なるか。乳も一本十五銭なるが、闇値は五、六十銭との噂なり。ふさのさんも毎夜の空襲と残雪の冷え込みとで、丸くなり震えて話される。時に早く帰る様来られた。去る四日の大空襲に二人の娘は死んだと思ったに、五日に見舞うたらお陰で助かったとて、お祝いの心持ちで頂戴物する。
 義子が病故に皆内に入る事を止めて頂き、自分は全身粉雪を浴び乍ら、今を最後と大馬力で進める。義子はとても苦しいのか、暗くなるも起き得ず。次に切った松葉を全部大松の根元へ集める。雪に刺さった枝は早や凍り付いて、植えたようになって居る。「雪後初めて見る松柏の操など言うては居られない。暗くなる故に。 
 時に参詣者あり。綺麗になりますね。お寒い事と、ご挨拶して下されたが、自分は大雪なるに大汗なり。幸いにも意外に早く全部了り、真実に嬉しく思う。次に薬石頂く。義子も不快乍らも薬師寺より頂いた物は純白米で作ったおすしでとても美味しく、共に頂く。一生懸命に働いた為に、右の手には豆が出来、腕は痛む。又敵機来襲の無き中にと心ならずも早く床に入りしに、はたして九時前に来た来た。不安な事なり。

十日

 午前二時前後にサイレン鳴る。心配したが南方より東に飛び、名古屋を過ぎてサイパンへとの事に、安心したが、四時六分に再び神戸へ。四時半頃に来るとの報道あり。市民は今や敵の神経戦術に悩まされざるを得ない。困った事なり。
 今朝、小豆粥を炊く。義子大喜びで少し頂いたが、起きる事は仲々で、相変わらず胸が非常に痛むと。残雪は仲々消えないが、幸いに好天気故に入口の小松をも葉刈り始む。頂上には純白の雪を頂き、とても美しく、先ず食べる。昨日来、近頃にない雪を沢山に食べた。激しい仕事の為に、青い大空の何処やらに友軍機のウナリを聴くが、姿が見えない。と思えば東地区方面には敵機の侵入をラジオは報道してる。
 一生懸命で十二時前に無事に了り、次に松葉を束にする。五束も出来た。雪解けと大汗とで閉口したが、大片付けがした。次に昼食支度始めてたら、敵機数機が来襲中とのことに一寸心配したが、敵機は静岡方面に侵入して、阪神には来なかったので安心す。でもかなりの投弾と若干の損害があった様なり。毎日毎夜、実に残念な事なり。
 義子は苦痛なるも留守させて置いて、先ず薬師寺に至り、昨夕頂いた重箱に、自分が作った棕櫚の切り藁とツバメマッチ二個と水仙花を呈上す。とても喜ばれた。次にとても危険と思ったが、近道の為に、雪の急坂裏山を安沢へと登る。恐ろしい積雪で下駄に喰いついて歩けなく、大汗で遂に至る。
 今日は故安沢氏の祥月命日なり。水仙花と柴漬けを呈上す。疎開児童より昨晩、今日の父の命日を偲ぶ葉書が来たと話された。
 鳥取地方は定めし大雪ならん。本年の寒気は二十何年ぶりの冷えで、鬼畜米英の国都の寒気は非常な事で、石造建築に燃料なく、冷え込みは一入りで、皆震えて居ると。次に忠魂碑に参拝す。何卒何卒、皇土を護らせ玉えと祈念す。降る石段の雪はみぞれとなり、危ない危ない。
 一度帰り、再び出て門脇と平松と渕上に詣で、次に平野の吉田の三十五日忌に詣でる。藤井と高木来て居られた。回向了って御供養頂いて早々、大急ぎで汗して帰ったが、薄暗くなり、為に義子は苦痛乍ら戸を閉めなどしてた。その為か今晩は一入り苦しく、薬石も頂かずに困った事なり。自分は義子の咳を受ける為に、古新聞を沢山に切ってやる。次に布施物を開封す。凡そ二百円少々ありたり。十二月以来とても忙しかった代わりに収入も大きく、暫く助かるが戦力増強の為に国債をきばらねばならん。九時半頃、又々敵機の侵入あり。

十一日
 皇紀二千六百五年の紀元節、残雪でとても冷えるが、好天気なり。義子は苦痛乍ら留守してくれ、自分は警報の出ない中にと、大急行で下り、山本に詣でる。吉永は荷物の疎開で。故に山本に至る。大汗で白波瀬は故郷丹波へ。妹さんは世話する者もなく、遂に大開通りの天理教へ一千円納金して、生涯世話になりに行かれたと。噫々、お気の毒な事なり。でも按摩をされる故に、幾月でも心の慰めは得られるが、淋しい事ならん。先月二十二日に不在中に詣でしに対して、二円頂く。気の毒にと深謝す。次に瓜谷に至るに荷物だけ疎開さすとて大変な事なり。荷造りは出来たが、運んでくれないので困っていると。至る所闇々で、何でもかでも恐ろしい高値なるは思うだに怖い怖い。
 遺品に絹縮緬の羽織の様な物を頂く。去る二日、六七日忌に割木を御供えしたに対して答礼の意等々ならん。次に柴氏に詣でる。主人の話も空襲の恐ろしさで、今日も今にもと思うと気も落ち着かず、早々に失礼。
 大倉山で乗り換え宇治川で故障。やっと動き始めたと思えば、能楽堂近くで又故障。とても駄目とのことに下車。急行す。去る四日、大空襲の夜、再び来た敵機が落とした二十五キロ爆弾炸裂の跡を見る。何個も落ちた故に広い範囲に硝子等は破れているが思ったよりも被害は無いが、硝子のカケラで危ない危ない。大汗で木村氏に至る。幸いに在宅。昭和十八年の三月八日に故細君に死去され、今日が葬式当日であった故に詣でる。専売局はお休みになったがお願い申したら、薬用の塩小包下された。富士食塩と書いてあった。共に大いに笑う。尚岩塩でも都合して下さる様なり。お願い申して失礼。雪解け道はドロドロなり。曇天不快な天気となる。吉永に詣で、大汗で帰る。心配したが義子は先ず先ずに安心して、再び出て上木と岡本の四七日忌に。次に白石の老婆八十四歳で五日に死去された。今日は初七日忌と思い、お悔みがてら詣でる。空襲や大雪や、騒がしい世に遂に往かれたが未だ仲々白骨にはならずと、困った事なり。帰る早々、大急行で甘酒沸かし、昼食代わりに義子と共に頂き、次に大急行で大松の葉を片付け始む。山本医、義子をお見舞い下さる。松葉は大した事なり。真っ暗になるまで、探りながら束にする。九分まで片付けて中止にする。全身汗ばむ。最後の雪を食べた食べた。次に薬石には朝の残粥を頂く。先刻、鶏の餌用に宮本より藷の皮頂く。塵と共に。
長田警察署前に敵の焼夷弾のカラが沢山に積んであった中から飴の様な物が流れ出して居るのもあった。皆火災の素となる故に恐ろしいものなり。

十二日
 痴僧より葉書が来た。先日、前垣の忌中回向に行き、四日、神戸大空襲を聴き、心配して居ると、でも早速無事を報じてある故に安心しているならんが、是心寺様には老婆と共に床に付かれ、お困りの由。真実に気の毒な事なり。痴僧も疲れ無き様にと祈る。
 奥の村田に詣で、水仙花を進ぜる。病人は皆々巣立ちされてた。嬉しく思う。次に時本に詣でる。村田では四日友軍機の黒煙を吐きながら垂直に墜落する有様を見て、胸迫り、何とも云えぬ悲しみを感じたと。
 時本では其の夜、再び来襲、有馬電車の通過と同時に敵弾投下、直ぐ上の畑に、京春裏の紅橋付近に。次は丸山等々に焼夷弾と爆弾が落ちて、恐ろしかったと云われた。
 夕方に長田警察署員の調べに依れば、五十七本も拾い集められた由。仲々油断がならぬ。次に黒川へ、六日の分に詣で、次に濱口に。道は雪解けで危ない危ない。
 昼食頂き、早々、警報を気にしながら大急行で、西本の六七日忌に水仙花を進ぜる。電車券二冊お供養に頂き、十九日は四十九日故に、二時に詣でくれよとのこと。次に久保に八日の分に詣で、水仙花進ぜる。数の子の乾かしたのを頂く。普通では手に入らぬ高級な物なり。御厚意を謝す。次に西代の小畑に詣でる。故人の生涯に付いて話を聴く。仲々博覧強記な方であった様なり。里芋少々頂く。これも貴重品なり。大きに助かる。次に油屋の田井を見舞うに先日に比して顔の色も好く、元気になり、今日初めて包帯を取りましたと。でも向かって右側にかなり大きな切れ口を身受けたが、毛の中故に未だ助かった方なり。蜜柑三個と藷づると若芽を呈上して失礼。次に再び長田警察前に積んである敵の焼夷弾等残骸を見る。次に田井に詣でる。四日、番町の寺の火災の恐ろしかった事を話された。蜜柑の粉袋入りを頂く。でも砂糖が入る様なり。砂糖は十一月頃にあった切りで、今度はお盆に少々とは甘党は困った事なり。故に闇値は百円以上なりと。次に白崎に詣でる。子供は三人共疎開して、弘子のみの淋しさなり。カレー汁の馳走になり温まる。尚雪印のバター、玉葱一個、切り乾し藷、カレー粉、サケの頭、ヨード昆布を頂いて帰る。大きに助かる。次に池田に詣で、帰れば義子は病い乍ら、戸仕舞していた。自分は炊きこみのご飯炊き、ウメル間にと神田に詣で、次に仲井に至るも不在。早や真っ暗となる。本堂の屋根より裏の道も、陰は雪解けず。危ない危ない。薬石後は色々片付けして、次に漬けものを明日の分にと微塵に刻み、次に蜜柑の皮をも全部切りなどして、十時まで。今日は不思議に警報が出なかった。
 新在家の阿弥陀寺、先に失火で丸焼け。その後苦心して建てた本堂等も四日の空襲で真実の丸焼けになったと、噫々。

十三日
 午前五時頃、敵機は海岸上空と思われるあたりを、ぐるりと一回りして、大阪方面に飛び去りたり。静かな夜空に聴くウナリは気持ちの悪いものなり。でも投弾はしなかった様なり。
 早く片付けんと高山に次に前田に至る。近頃は牛乳も配達はせず、此方より取りに行く。それも時刻に至らねば渡さないという権式ぶりで、残雪の寒い通りに行列する人、皆震えている。戦時下とはいえ、変わった事なり。次に魚谷まで急行す。漬物を、昨夜微塵に切った大根葉に柴漬けを土産に呈上す。此の頃は漬物も配給日でなくては手に入らず。恐ろしく大切なものとなった。心配して訪れたがお二人とも丈夫なるも、近年稀な本年の寒さに燃料無き為に、茶の湯の稽古も出来ず、全休で仕方なく町会長の家で古材を焚かれる故に、毎日のように遊ばして頂いて居られる由。先年亡くなられた溝口さんの細君、その後宇治の黄檗山山内の緑樹院内の妹さんの所に世話になりに行かれた。
 次に市電故障なりしが、長らく待ち、幸いに腰掛け得られ、元町一丁目まで楽に行きしが、他の人は大変な苦痛なり。次に平尾に詣で、藷づると昆布を呈上す。近頃は何処も副食物無き為に大困り故に、大喜びなり。息子は去る十日に雪の国山形の航空隊とかへ入隊された由。御苦労様なり。武運の長久ならん事を祈る。
 次に長田より徒歩で帰るに、連日の疲労を感じてか、何となく調子悪く、不快なり。帰れば明石の橋爪の老婆死去の電報来たとの事に、先ず大急行でお雑炊を炊き、昼食の支度中に、珍しや、法皇寺の直山元珠師が来られた。丸山の石井へ来たからと。次に福厳寺へ行きたいとの事。共に昼食頂く。義子も不快乍ら、出て来て話す。昼食了るなり、早々共に長田まで下る。
 福厳寺訪問の要件は老大師が若狭の円照寺が福海寺へ転住さして下さるまいかと、内意を聴きに行く由。福海寺も早や三年近くも無住故に、早く片付けねば決戦下の今日、申し訳あるまい。何卒、都合好く進行する様にと祈る。
 尚、山内天授庵へは虎渓山の続芳院の虎山師が転住される事となり、藤田老師も大安心。付いては三月四日に妙心の林恵鏡老師始め、十名程法皇寺で接待するから来てくれとの事に、心嬉しく行く事に返事す。
やがて直山師は福厳寺へ、自分は明石へと向かう。葬式も未だ日が決まらぬ故に、明日、今一度来て見る事を約して失礼す。電車内で自分は角にへばり付いて居て、案外楽なりしが、他の人は死にもの狂いの苦しみなり。恐ろしい事なり。
自然界の海原は静かな事なり。旧正月元旦故に、魚捕る舟も全休で、敵機の飛来さえなくば、世は太平の波静かなるにと思われた。帰途、仲井に至るも留守。辻まで帰れば只ならぬ人だかり。何事かと思ったら、上から恐ろしい勢いで自転車が岡本寮の上の電柱にぶつかり即死したとの事。噫々、気の毒な事なり。先年も荷物を山と積んだトラックがデングリ返った事あり。又つい先日も大楠の樹の根方へ飛び込んだ等々、危ない事なり。でも即死は初めてなり。
帰れば義子晩の仕舞してくれてた故に、早く大松の葉を片付ける。大汗で暗く手元も見えぬ頃に粗方片付いて嬉しく思い、次に雑炊を温め置いて、仲井へ三度目至るも留守。帰りて薬石の支度中に早くも警報が鳴り出したが、強いて心を落ち着け、玄関の間で頂き、了るなり疲れても居るし、電灯は付けられない故に、休ませて頂く。
本年は正月元旦に東京空襲、旧正月元旦の今日も、早朝と只今と二回襲来あり。不安で油断のならぬ事なり。旧正月は半島人と田舎の人々により祝われて、他は知らぬ人の方が九分九厘なり。

十四日
 昨日、配給になった松の割木をコンロ用に叩き切ったり、鋸で切る。恐ろしく危なく、身体もこたえた故に中止にして、次に剃髪す。恐ろしく冷えたが気持ち好くなる。次に義子は未だ起きられないが、留守してくれる故に、早々大急ぎで宮本常治の方に詣で、次に角谷に、次に阪本の二七日忌に、次に一路明石へ二時前に橋爪に詣でる。葬式は明朝十時との事なり。法衣を預けて置いて失礼。どんよりと曇る海原に静かに浮かぶ淡路島は絵の様な眺めなり。大東亜決戦下なるも舟不足の為か、出入りの船も少なく、広々とした淋しい海原なり。
 須磨に下車す。市電は大変な人なり。尻池乗換所の山側、煙草屋等四、五軒、去る四日の空襲で、丸焼けとなって居る。次に増田製粉の焼跡を見る。大変な事なり。広い工場のここかしこに製品のパン粉なるか、石灰の様な白い物が積んだなり、ぐるりが焼けて、雨ざらし、日ざらしになり、原料の麦粉なるか、山の様に盛ってあるのに、付いた火は未だ消えず、噴火山の様に五、六ヶ所から煙が見られた。人手不足の為に、急には片付かぬ様なり。何と思っても残念な事なり。一合のうどん粉も自由にならぬ昨今なるに国家の大損害、いや神戸市民即今の大問題なり。隣の某軍需工場の焼跡には甘い物に蟻がたかった様に、女や子供が焼跡の何物かを拾い集めて居る。皆資源ならざるはなき故に、自由に拾わせて買上げてやれば、大助かりなり。今日、半島人でも一日十円以上も出さねば働かぬ折からなれば、女や子供の手に合う金クズ等は、自由に拾い集めさせる事なり。
 次に山田に詣でる。主人は鳴尾の普請場に行かれて不在なり。朝九時過ぎて仕事にかかり、昼食に一時間。三時半になれば仕舞うて帰る。大工と左官が三十五円で、手伝い二十五円で、毎晩勘定で支払うて行くので、困り切って居られるが、飛行場に切り取られた跡始末なれば是非なく真実に気の毒なり。息子と初めて話す。  
 次ぎに再び大橋まで。次に森本に詣でる。主人も神経痛で永く苦しみ、閉口して居られる。息子は皆戦場に。気の毒で慰め様も無し。昨今の様に市内でも未だ残雪を見る冷えには痛みは一入りならん。次に高松回りが案外楽に乗れて腰掛けられて大助かりで、西出町の藤田に向かう途中、焼跡を見るに尻池の大広場の東角を始め、台湾製糖まで飛び火的に焼けて居るが、驚きは鐘紡に至り、更に大きく、付近一帯火の海と化した焼跡の悲惨な事、筆にも口にも述べられない。煉瓦造りの鐘紡の後片付けは一入り始末が悪い。日本一の鐘紡王国も真実の全焼と化し、何とも手の付け様もない。人手不足の為にどうにもなるまい。各工場交代時刻故に男女挺身隊等の人々は蟻の巣をつぶした如くに電車道へと流れ来る有様は物凄く、為に電車内は無茶苦茶なり。築島よりとてもとても乗れぬ故に徒歩で藤田に詣でる。帰りも仕方なく新開地まで徒歩。バスに乗らんと思いしに故障で中止。仕方なく神有電鉄に至る。これまた超超超の満員なりしが、やっと乗ったと思えば小部まで急行との事に、驚いて死にもの狂いで飛びだし、次の車に又もや無理して、無理して、車掌入口に真実に押し潰される様なり。人いきれで暑苦しく、半島婦人はアイゴーと泣くやらわめくやらで、生き地獄そのものなり。でも無事に長田駅に下車した時はボケの様になった。早や薄暗いが疲れて急げない。仲井は今日も留守なり。
 不在中に米田の栄子が来て、小豆と砂糖持参でぜんざい炊いたり、よもぎ団子等々で慰めてくれた由。珍しく頂く甘い物は久し振りなり。次は出来たてのお粥を頂く。空腹でとても嬉しく満腹に頂き、了るなり朝の続きに焚き木を切り始めたら、警報が鳴りだした故に、中止にして休息中に疲れが出て、敵機は大阪に投弾して、尚各地を回りながら飛び去り、解除にはなったが心ならずも休む。義子も又疲れて居る。

十五日
 涅槃忌なり。八十歳の高齢でクシナガラの沙羅双樹の下で永き眠りに就かれたが、永久不変なものは星の光と月影くらいなもので、丸三年前のシンガポール即ち海南島を陥れた頃の我が国民は昨今の様に昼夜不断に敵機が空襲爆撃と我が物顔で自由に飛来するがままにしておかねばならん様な事になるなど夢にも思わなかった事ならんに、噫々、世は無常なるが真理なり。でも今日はとても忙しき故に、五時半より支度。大急行で拭き掃除まで済ませて置いて、大急行で長田に至れば、九時十五分、山陽電車は窓より後ろより乗り込むという有様なり。次の車を待ち、少々楽に明石まで時間に遅れずに至る。
 大蔵院も誦経に来て居られた。早々式にかかる。急ぎ乍らも落ち着いて、順序良くドンドンと進め、好都合に無事に了る。
 大蔵院の新命も虎渓山で只一人きりで困る中に、疎開学童と日本赤十字も疎開して居る世話等で閉口、とても今暫くは帰れないと。故に老大師も近頃は、南禅院にのみお住まいなり。痴僧も居ない故に、世話する者もなく、真実に気の毒なるが、山口様が一緒に居て下さるので、大助かりなり。
 自分はお握りで点心頂き、早々帰りは楽に腰掛けられて大助かり。外は風なく、近頃にない暖かさなるも、海原は灰色に曇る中に、海中の明石灯台が只一つ。広い海原は淋しく静かなり。
 長田に十二時十五分に着。無事なりしを喜びながら、石原に詣で、ハッタイ湯を頂く。帰り、石段を登り始めたら不快なサイレンが物凄く鳴り出した。帰って来た故に安心す。廣次君来てた。義子は病い中に昼食の支度して食べさしてた。
 情報は敵機来襲と悪い故に、大急行で心構えを急ぎ、義子も退避壕に平松と共に入らし置いて、自分は充分に身構えしてから、サイレンは空襲となり、なんとなく四日を思わせるが、自分は焚き木を切って居たが、幸いに他に向かい、次第に好調となった。
 四国より解除となり始めた故に、早々支度して、再び出て、仲井に五回目でやっと詣でる。次に山口、次に馬場で鶏の玉子産むのと取り替えて頂きたいと頼むに、幸いに承知して下された。明朝九時頃に来てくれと。
 四日の大空襲の当夜、再び来た敵機の為に、増田製粉は全焼。製品だけでも三十万袋も。焼け残る品は煙が浸み込んで、どーにも食べられぬ由。尚、麦の空俵の配給で各牧場の乳牛は生きて居たのに、今後は困った事と思う時に、折悪しく昨夜、新川の日本製粉が又もや全焼とのこと。噫々、なんでこの様に悪い事が続くものやら。火の用心、火の用心。
 次に井口に、次に岡本に至るも留守。次に吉田、次に中村に詣でる。大西で頂いた昆布一切れとかき餅一枚お供えす。葛餅を馳走になる。故郷佐賀の田舎で買われた由なるが、一貫目が百五十円で升目にすれば四升五合なりと。それでも食物不足で困るからと、白米も水晶の様に綺麗ではあるが、一升が二十円で、時折り求めるとお腹が空いて困るからと二十円は未だ安く、二十八円もする所ありと。恐ろしい事なり。餅米の三十円は驚くでない。尚、粉を少々頂いて失礼す。
 三ツ井と芦田に詣でる。モンペ仕立てるに付き、見せてくれとの事に、脱いで参考に見せる。この間に片栗粉を頂き温まる。今日は色々と供養になる。空襲下には只々食べる事のみに誰もが気を取られている。困った事なり。
 帰る早々義子が心配するのを押し切って、床に山と積まれた物を片付け始む。何卒警報の出ぬ迄にと、一昨夜来の松の割木をコンロ用に、二寸位に全部切る。次に枯れ木をも大汗で。次に一寸中止にして、七時半頃に薬石頂く。
 廣次君は姫路に行き、二、三日したら又来ると。次に又もや仕事始め、古縄も畑の肥にと全部切り、九時半頃に大仕事は綺麗に片付いた。次に明朝の鶏の餌の菜っ葉等を切り、次に先刻掴んできた嫁菜菊を整理す。植える分としたしにする分に。次に机場を片付けて、十一時に床に入ったが、あまり疲れた故か眠れない。時に来た来た敵機が串本に投弾してその他は不明の中に解除となる。油断はならぬ、ならぬ。名古屋大空襲さる。凡そ六十機と。

十六日
 午前二時前後に空襲。頭上をグルグルと舞うていたが、又もや奥の方にドッドッと投弾を耳にする。その後いよいよ近く頭上を舞い乍ら飛び去る。一寸胸がドキ付いた。敵機も次第に慣れて野太くなる。
 九時頃に鶏を取り替えて頂く為に馬場に至るに、主人は急に増田製粉へ焼け残り品配給の件で行かれた故にダメダメ。次に庭の大松付近を掃除す。とても忙しく働く。畑に嫁菜菊植えたが、凍り付いてカンカンで大閉口なり。
 痴僧と、珍しや、岩手県の及川氏より手紙来る。両方とも敵機神戸を連日連夜の空襲と聴いて、安否を気遣いての見舞いなり。及川氏の御親切な文面には義子も感泣して居た。
 痴僧も是心寺山内、凡そ皆病人で世話したり寺役で忙しく、為に帰神もならず、只心配しているが、昨今空襲被害等は一切伝えられず、厳重に取り締まられて居る故に、只々無事とのみ、知らせるより仕方なし。次に中村に詣でる。主人と暫く話す。次に宮川町の前田という家の子供の葬式に行く。杉田の細君の弟で豆腐屋の嫁の家なり。式了るなり一路、平野の吉田の六七日忌に明日の代わりに詣でる。去る十日、御供養に頂いた御飯は二十五円で傘の餅は三十円で、京都の田舎より心配して頂いたものなりと。恐ろしい高価なるに驚いた。次に地下足袋欲しさに大伴に至るも、ダメダメ。次に山田に詣で、山越えで峠まで急いだら大汗した。
 海岸通りに珍しく白い大きな油船を見る。決戦下、目標形なるにと心配した。何処の船なるや。次に岡本に詣でる。次に嫁菜を掴まんと思いたるに、二人の婦人が一生懸命に掴んで居た故に、他所であるだけ掴んで帰る。
 義子幸いに警報も出ず、共に喜びくれた。空腹と大汗故に冷え切った。カレー汁を頂いたら、急に寒く震えて、気分さえ悪くなり、七日の大雪が未だ消えないくらいなれば、温度は低い低い。次に上木と岡本の初月忌に。次に宮本に詣で、腐った南瓜四個、鶏の餌にと頂いて帰る。早々お粥を炊き乍ら、前の石段や、馬場先大掃除す。山本医義子をお見舞下さる。久し振りに豆腐の配給あり。故に寒葱と共に煮ながら頂く。次に嫁菜の整理す。次に南瓜の大整理す。鶏の分と人間様の分と種とに分けて、明朝の為にと皆洗う。十時頃の夜寒は恐ろしく冷えて、手先が疼く。でも大仕事が出来て嬉しく思う。今朝来今に至るまで警報が珍しく出なかったと思ったら、東京は午前七時半より夕方まで、およそ九時間に延べ千機から、初めて艦載機で大空襲が続いた由に驚いたり。心配になって来た。神戸にも早晩来るか。

十七日
 今日こそと鶏を持参して馬場さんを訪れる。幸いに主人が居られて、白鳥と取り替えて下された。昨今一貫目が百二十円は普通で、お客さん次第で百五、六十円に売れると聴かされては、ずる替えでは相済まぬ様に思われて気が引けたが案外快く替えて下されたので真実に嬉しかったが、何卒玉子を産めば良いがなあ。連れて行った鳥も無事で玉子を産むようになれよと念じてやるが、どうも産まぬ白鳥は恐ろしくハシカイ故に、鶏舎を充分に手入れする。次に義子は背骨の所が何とも云えぬ苦しいとのことに、色々手術してやる。少々楽になったとの事に、廣次君より頼まれている貯金引き出しの時刻に、土曜なれば遅れては大変と、大急行で至る。窓口にはレイテ島の皇軍苦戦を偲び、貯金の引き出しは止めましょと書いてあるのに二百円も引き出す故に、一寸心配したが、無事に引き出す。最中二時十五分前にサイレンが鳴りだした。真実に好都合であった。次に心ならずも小東と荒木に詣で、下まで帰ったら、西より来た来た。敵機の爆音が大きく、早速と池本の家の壁にヤモリの様に寄り添い乍ら、見上げるけれど、綿の様な雲深く姿は見えずに飛び去る。先ず先ず危険は去った、去った。
 午後も色々と忙しく働く。薬石は白粥炊いて一ヶ月ぶりに小魚の配給頂いて、馳走作り、嫁菜のしたし初めて作る。先年十二月八日に東京上野駅ガード下で求めた胡桃の実で和える。とても美味しかった。次に夜業を始める。
 警報が鳴るまでと一生懸命で馬舎の寝屋藁を畑の肥用にと切る。大籠に二杯あった。次に防空の心構えに付いてのラジオを聴きながら、配給の小かぶらに、畑に昨年五月に痴僧が蒔いてくれた人参の枯葉を、良い分は自分等が、悪い分は鶏にと整理す。次に霜と寒気に悩む水仙花を切り集めたのを十一把作る。各家へ配らんが為に。次にトウキビ、台湾豆等々よりトマトの蔓に至るまで、下の納屋で枯らしてあったのを切る。焚きもの用に大仕事が片付いて、嬉しく思い乍ら、十時半に床に入る。でも昨日に続き、今日も五百機以上で東京と静岡を波状に終日襲い来たとの事。いよいよ大変な事になって来た。

十八日
 今朝の霜は大変であった故に、後刻は終日暖かであった。
 五時に起きて先師の命日故に、お供えをも兼ねてと初めてよもぎ団子を作る。昨日、茹でて置いたよもぎを微塵に切り、次に昨日より漬けて置いた米を夜半に水を切って置いた物を製粉機で引いて見るに、案外上手く出来た故に、大助かり。それによもぎを混ぜて御飯蒸し器で二回に蒸し、義子に水取りさして大いに搗いたら、立派な団子が出来た。柿の皮の粉と豆の粉付ける。先ず大日如来始め先師等々に。義子は大喜びでお供えする。とても高尚なよもぎ団子となる。餅米でなくとも立派に力ある。そしてあまり堅くなく、とても色まで上品なり。故に明石の西と岩本への土産にと、小重箱に詰める。次に大急ぎで下り、超満員の山陽電車で、今日は大蔵谷に下車して、心地良い国道を歩む。疎開も色々で神戸市内からは、毎日毎夜引きも切らずに山の様な荷物を思い思いに、安全と思う地に運び出して居る中に、明石からは又東を向いて運んでいる人もあり。人の思いの色々なるには微笑まざるを得ない。
 橋爪に着早々回向す。了って御供養頂く。又警報の出ぬ中にと早々失礼する。橋爪氏は五十八歳なるに中風性でヨイヨイなり。又入口に住まれる伊藤明瑞先生も五十八歳なるにお見受け申すに、両方ともかなりの歳寄りの様なるに、自分より一つ兄さんとは驚いた。自分は御陰でまだまだ元気で、決戦下の近頃は頑張り続けで、走歩すれば汗ばむ位なり。敵機頭上にせまる昨今、特に健康でなくてはならん。
 明瑞先生の書は一枚十円が相場の様に申されてた。次に岩本の細君、去る三日に至る時、風邪で床にあった故に、今日は団子と水仙花を持って、お見舞申したるに、早や健康となり、全快の早かりしを共に喜んだが、今度は大変なり。主人曰く。名倉町の大島夫婦が帰国の途中、豊川より飯田に向かう鳳来寺近くの川谷駅で列車が川へ転落、五、六十人の死傷者の中に入り、即死された由。噫々。故に主人と息子で現場へ。今夜中の列車で行く支度最中であった。大変な事になったものなり。
 細君は団子と花を御供えされた故に、回向す。やはり霊の引く所と大変に喜ばれた。次に珍しく小豆の甘いのを頂く。真実に嬉しく大満足した上に御布施と高価な油を三合五勺程も頂く。恐縮した故に昼食用にと持っていた食パンを呈上す。旅する者は食べ物が大切なり。
 失礼して大蔵院の前をも大急ぎで通過、明石公会堂前より明石海岸公園に入る。波は春光を受けて、銀色にまばゆく光る。海原に墨絵の如くに淡路島。今日の風は身を射す程になく、何となく早や渚遊びも近づく様に思われた。やがて西氏訪れる。主人伊三郎氏は入口で箱を洗うておられた。心配してたお婆さんも案外元気で顔色も好きに安心す。団子と花を呈上す。とても喜ばれた。煮魚を頂いて、早々失礼す。明石駅よりの乗客も恐ろしい様なるも幸いに腰掛けられて大助かり、長田で佐野に詣でて帰る。大汗で帰るなり厠に入り、寒くなり、岡本に詣でたら、小間にカンテキと火鉢に炭火熾して、五、六人も煙草呑む為、毒瓦斯が満ち、咽喉に障り、閉口した。早々に飛び出し、上木の三十五日忌に詣でる。今度は冷蔵庫の様な寒さに、何となく変な調子となる。故に西で頂いた煮魚コチの切り身は素晴らしい物であった上に、畑の菜っ葉とお粥さんの熱々を頂いて、心ならずも早く床に入るに、十二時までに二度もサイレンが鳴る不快な事なり。去る七日に降った雪の残る夜半の退避壕入りは大変なり・磯馴町の池田の弟が先月二十三日に死去され、今日は四七日忌故に、初めて悔みを兼ねて詣でる。
 上木より福厳寺へ電話で安否を尋ねたるに、神田氏が出て、皆無事と。隠居さんは相変わらずで、早や暗い時刻なるに外出不在の由。
 
十九日
 宵から三回目は三時前後に真実に頭上をブーンブーンと長らく気味の悪いウナリ。幸い投弾を耳にしなかったが、後刻、ラジオはに大阪に投弾して南方に飛び去ったと。これでは睡眠不足にならざるを得ない。
 前田牧場の搾りの子供が死去、枕経に行く。残る子供が尚七人という子福者で賑やかなり。でも遅れて咲くは尚あわれなり、噫々。上木へ花を呈上す。
 義子は幸いに起きて、ボツボツやって居るので安心す。正午早々出て阪本の親族で下川氏死去と今朝、阪本が頼みに来た故に、尋ねて行き、回向す。八十近い老人が元気で、只一人の息子が子供を四人遺して、死去された由、噫々。葬式は二十一日の午前十一時との事。一昨十七日より資材不足に付き。霊柩車と棺は葬式屋で取り扱わぬ事となり、各自に作り心配せよとの事なりと。故に阪本氏が疎開用に求めて居た六分板で棺を作って居られた。いかに決戦下とはいえ困ったことになったものなり。焼き賃の外に、心付けの百円前後は大して喜びも驚きもせぬ時代となったが、最近少々眼を光らす事になった由。
 次に西本の四十九日に詣でる。次に長福寺来る。二時前なるも無事なうちにと回向始め、終わりに近き時に、遂に鳴り出した。丁度好かったが一同は何となく不安の色なり。情報は敵機数編隊との事に、去る四日と、先月の今日は明石を大爆撃した日なれば、一同云わず語らず不安を感じ、情報を聴きながら、御供養を頂く中に、敵機は東部に三つに分かれて這入ったが、京阪神には飛来せず、間もなく解除となった故に、一同やれやれと安心して、早々に失礼す。
 次に西代の小畑の四十九日に詣でる。四日の大空襲に全焼になった増田製粉の粉麦が各家庭に特配となったのを、隣防の細君が集まり饂飩粉に挽いて居られたが、煙が浸み込んで変なりと。
 徒歩で汗かき、疲れ気味で帰れば、不在中に古川氏と高井の長男が死去の知らせありたりと、噫々。どちらも大変なりと。早々、先ず高井へと大急行で大汗で至る。早や暗し。堺久も来て居られた。主人の幸次郎氏はとても悲しんで居られた。二十一歳になっていたと、噫々。回向了って式は明二十日午後一時との事に、失礼す。下駄が変り、歩みにくくて閉口した。大汗で帰途古川にも悔みに行く。来迎寺が来てた。式は明朝十一時なりと。十七日に長田神社横で先方より挨拶して下され、暫く話したのが最後となった。大島夫婦と云い、真に無常を感じ、恐ろしく思う。八時過ぎに、帰る早々薬石頂く。義子は自分の為に初めて白足袋を仕立ててくれてた。大変に形も良く、温かで真実に嬉しく大助かりなり。今日は恐ろしく疲れて十時前に床に入る。今日初めて白鳥が玉子を産む。義子大喜び。

二十日
 午前三時前後に四国より淡路上空に飛来した敵機に対し、丸山では早くも退避の鐘が鳴り、今か今かと耳を澄ます中に、敵機は進路を急転して、南方に飛び去り、間もなく解除となる。こんな事は初めてなり。
 九時半に前田牧場の搾りの子供の葬式に行く。そうめん箱に納めてあった。葬儀屋に相談したら四百円で、大人ならば千円との事。何と恐ろしい事ならずや。その上百円くらい袖の下のまじないをしなくては焼いてくれないと。なにしろ三百体近くも積んである由。噫々。帰る早々十一時式始めの古川氏の葬式に行く。雪が降って来て冷える冷える。来迎寺着。阿弥陀寺より役僧が小僧と老人が来てたが、去る四日の大空襲に寺には老婆が一人切りなりし為に、真実の全焼で、今着てる衣も京都より取り寄せた物なりと。金楽寺と共に気の毒な事なり。故古川氏は四十八歳であった由、噫々。
 震えながら飛んで帰り、昼食頂くなり、未だ納まらないがそろそろと下り行く。高井へ十二時四十分頃に到着が出来た。まぜめしの御供養頂く。雪は盛んに降って居る。永福寺の代わりに極楽寺が来て、共に式始む。不安な時代故に淋しい葬式なり。噫々。
 早々に失礼して池田の下川に至る。葬式は明午前十一時と約して帰り、前田の初七日忌に詣で、暫く空襲下の覚悟に付いて話す。お互いに不安な一刻先が心配な時代となった。が気分は明るく暮さねばならんと。次に藤田の百ヶ日に。次に廣澤で珍しや、砂糖頂く。舐めずに頂いて帰る。砂糖は盆にならねば配給なく、それも一人前五銭か十銭位ならん。それも真実の程が解らない由。貴重な物となった。次に大橋に詣でる。ナンバ汁とか云う物を頂く。雪降る今日は温まり、嬉しく思った。
 五時前に帰る。義子は幸いに元気で薬石の支度してくれてた。自分は下より落ち葉や肥の乾物を運び上げて、堆肥作らんと働く。時に白崎来たる。丁度沸かして居た牛乳を三人に分けて頂き温まる。
 意外、須磨の白崎の婆さんが死んで、明二十一日午前十一時より葬式故に、諷経に行ってくれんかとの事に、下川と同時刻なるに困ったが、何とか都合するからと帰し、早々薬石に。お粥の炊き立てを頂き、温まった勢いで下り、池田の下川に至り、相談の末、十時前より式始めることにして、安心してその由を伝えんが為に、米田に至るに、丁度あいさんが須磨の白崎へお通夜に出かけ、坂を下る後姿を見つけ、呼び止めて返事す。真実に一足違いの所であった。道を替えて話しながら、共に下る。是で何もかも安心した。今朝来、葬式三つに、又白崎、真実は枕経に行かねばならぬが、疲れて居る故に、失礼して帰れば、九時前、衣を片付けてたら、敵機飛来の警報が鳴り出した。四国に入り、岡山より鳥取に入り、滋賀方面に飛び去るを聴いて、安心して床に入る。今日は恐ろしく冷えるので、義子も終日震えていたが、足袋など作って居た。
 敵は遂に硫黄島に上陸した様なり。嗚呼、困った事なり。十七年の本日より大東亜戦争国債と戦時債券、三月二十日まで売り出さる。

二十一日
 今朝は又恐ろしい氷で冷える、冷える。でも元気出して九時過ぎに出て、池田の下川に急行す。休息中に点心頂く。次に式始める。警報も出ず、無事に済む。早々失礼して、山陽電車に至る。恐ろしい人なりしに、幸いに自分は乗れたが大勢遺された。月見山に下車、白崎に至る。禅昌寺様も来て居られた。間もなく式は始まり、幸いに警報を聴かずして無事に相済む。次に自分は点心を頼むに一寸本膳で頂く。二階で静かに一人で頂く。応永八年、東福寺兆殿司筆の涅槃像軸を拝す。
 頂き了って失礼して、林に向かう。松任の奥様に逢う。主人は艦を降りて北海道に居られるが、時々刻々に危険で、心配していると。今や全国安全な地は無くなったが、大いに頑張らねばならぬ。次に武岡の老女に逢う。坐骨神経痛で困っていると。次に林に明日の代わりに詣でる。次に大橋に下車、奥田に詣でる。疎開する支度で大変なり。何処の家も落ち付かぬ事なり。次に徒歩で阪本の三七日に詣でる。次に角谷。次に白崎に詣でる。未だ須磨の葬式より帰って居らず。栄子が居てかずの子頂いて帰る。次に宮本に寄り、下の納屋のふとん入れを上の壕の西脇に揚げて頂きたいと頼む。帰るなり、その布団入れを出す様にするに、とてもとても大変なるが、大馬力で片付ける。真っ暗になるも手探りで焚き木を移す。去る秋に片づけたばかりなるに、賽の河原なるも、鬼畜米英の為にえらい目する。
 時に警報が出たが、尚も続ける。敵機は凡そ一時間程、ぐるぐる舞うて飛び去る。次第にグスグスして人民を嫌がらせる目的ならん。薬石には義子が珍しく巻きずし作って居たのを、昨夕、白崎より頂いた豆腐にわけぎ入りのお汁で頂く。
 次に今日は明泉寺湯が沸いて居る故に、剃髪を兼ねて行く。途中名倉湯の二階の中村の老女に巻きずしと乾燥野菜を呈上す。とてもとても喜ばれた。次に明泉寺湯に至るに、恐ろしい人なり。女の方は着物を解く場所もなく。順番を待つ人で大変なり。自分は都合好く剃髪が出来て、気持ち好くなって帰る。早々床に入る。とても朝は心配したが、無事に通過して安心して夢路に入る。
 硫黄島始め、皇軍の労苦が思われ、安眠も出来ない、噫々。

二十二日
 聖徳太子入滅御祥月なれば、恐ろしく冷える冷える。太子様には蘇我馬子の我儘をどうする事も出来ない中に、推古天皇の即位二十九年御不満の中に御歳四十九歳にして斑鳩宮にて御入滅遊ばさる。何事も思う様にならないのが浮世なり。でも大東亜戦のみは是が非でも勝って、勝って、勝ち抜いて、明るい光明平和の日を一日も早く迎えたく、太子様に祈念す。勝って仕舞えば馬鹿げた事ながら、それまでは仕方なく、またもや壕の模様替えとなり、今度はとても大きな思い付きなるも、長期に亘る決戦なればと、断行する事となり、仕事を始める。
 先ず付近の掃除と片付けからと厠の付近より植木棚等々、全部片付ける。金谷の細君、黍と豆の粉挽きに来る。人の為に臼も磨滅して駄目となる。時に高井幸次郎氏葬式の御礼に来られた。本堂等案内す。次に甘酒を沸かして干柿上等と牛蒡とソーセージ、三つ葉を呈上す。大喜びで帰られた。布施三十円、志付け二十円頂戴す。御厚意を深謝す。
 尚仕事続けるも進まない。次に新川の植田氏来たる。疎開で荷物預って欲しいとの事なるも、箪笥長持ち等々故に断る。神有線山の町に地所や家を持って居るが、先日爆弾を投下され、畑や池の真ん中に落ちた分は、水も泥も大空に吹き飛び、一滴の水も泥もなく、深く空池になって居ると現場を見ては山の町も安心ならず。疎開疎開で大変なり。増田製粉では麦を、日本精米では米を大変なこと焼いたと。
 五時過ぎて大急行で出て、先ず宮本へ、昨日頼んだ布団入れの件、後日に頼むと伝え、次に小岩井へ水仙花呈上して、海苔十枚頂く。仲々手に入らぬ品なり。次に広沢と三ツ井へも水仙花呈上して、次に田中に、次に寶積に至るも不在。次に渡辺に至る。夜勤で今から出勤というところであった。薄暗くなりて帰り。早々警報を気にしながら、雑炊作る。義子は又もや風邪で終日床にあって震えて居る。薬石後、恐ろしく冷えるが、米の粉挽く。次に大根葉を切り、次に宮本で頂いた馬鈴薯の皮を整理す。次に野蒜を整理す。恐ろしく葱臭いが物の不自由な時なり。次に全部洗うて床に入れば十一時、手先も氷の様なり。でも大仕事が出来た、出来た。
 今日は午前九時半頃なるか、敵機が頭上をゆるゆると不快な音と共に東へ飛び去った切り、今に未だ来たらず。市民よ安眠されよ。

二十三日
 五時前に奥より頭上を海の方へ、敵機はゆるゆると飛び去る。投弾を聴かず。各会社へ出勤の家庭では朝食の支度時刻なれば、非常に苦痛を感ず。六時前に起きて、模様替えした壕、二回目上地を運び去る時に、前田牧場の矢島の子供来たる。今日初七日忌の案内に鶏の餅を頂く。嬉しく思い、夏ミカン三個御供えに呈上す。尚も土除けしてたら、下川の老婆来たる。二十一日葬式の御礼に、又富山から来て居られる親類の方は富山警察の上官であった故に、早速焼かれ、昨日にお骨が揚がったと。未だ百二、三十体も積んであって、昨年のがやっと片付いたくらいなるに、金ぴかのききめは富山の薬も及ばない。故に本堂で回向す。大満足して帰られた。 
 次に朝飯の支度して頂く。昨夜整理した野蒜、韮、野のネブカともいう物を、色々の残り汁に入れて、初めて頂く。義子も大喜びで頂く。非常に温まる様なり。次によもぎ団子作らんと支度す。宮本で頂いた馬鈴薯の皮、鶏にと頂いたが食べない故に、義子に無理から手伝いさせて製粉機で挽き、澱粉を取り、カスで粉を練りて蒸す。先の分によもぎ入れて、充分に搗く。立派な団子になった。月見団子の様に作り、本堂全部へ御供えする。次にジャガ芋入りの分も心配したが、案外良く出来た。
 義子に後片付け頼んでおいて、自分は早々に前田牧場に詣でる。丁度岩ケ谷の法華の和尚詣で、御供養頂いて居られた。細君がとても信者の様なり。回向了って主人と大いに話す。牛乳と団子頂く。次に馬場を訪れ、去る十七日に換えて頂いた白鳥が玉子を産み始めた御礼を申し、義子が下駄を娘さんに呈上してくれた。十円以上の物なり。昨今は何十円出しても、配給品以外に製造禁止なれば、手に入らない。
 中食をお粥さん頂いて、早々先ず池田の田井を訪れ、今日作った団子と乾燥野菜と水仙花を呈上す。今日は油の登録日で不在。子供が床に居た。次に高井まで徒歩す。初めて主人と話す。去る十七日より霊柩車も廃止となった故に、客車で両方の戸から棺の前後はみ出して焼場に行くだけが百十円であったと。尚色々まじないした御陰で、昨日骨揚げが出来た由。市営の火葬場なるに困った事なり。次に白崎と米田に詣でて、二十一日、須磨の白崎の葬式諷経料二十円頂く。次に中村に詣で、帰るなり、寒風吹きまくる裏で、落ち葉を片付ける為に、煽ぎ倒してお粥を炊く。ウメル間にと野々山に詣で、煎り麦を頂く。次に濱口と古川の初七日忌に詣で、回向了らんとする時に、警報が鳴り出した。早々失礼して、未だ鳴り了らぬ中に、心ならずも上木に詣でる。消灯で真っ暗なり。是で今日の務めも無事に了る。空腹警報下に粥座頂く。情報の通り、又今朝の様に、奥から頭上を通過して、南へブーンブーンと唸りながら飛び去る。不快な事なり。次に色々片付けして床に入る。

二十四日
 大馬力で丸山の京春と村田に詣でる。細君の病気見舞いとして、先日頂いた生菓子十個入り一個が五円で五十円で、又先日売りに来た餡入りで今まで二銭くらいであった餅が二円五十銭と聴いて呆れて買わなかったと。闇値は止まりがない。恐ろしい事なり。早々失礼して帰るなり、池田の下川の初七日忌に向かう。回向了って点心頂く。次に須磨の白崎の初七日に詣でる。次に兵庫に出て、下村に詣でる。次に総井かね老婆死去と聴いた故に詣でしが、早や楠寺へ全部引き取った跡で、知らぬ人が這入って居た。永らく御世話になった老婆であったに、噫々。
 次に瓜谷に詣で、先日遺品頂いた御礼にと、よもぎ団子と乾燥野菜を御供えする。次に濱脇へも同じく呈上す。とても喜ばれた。又しても闇の話で、干柿一個が一円であいさに求めて、次に西新開地の映画館内には八十五銭で売ると聴いてより、柿欲しさに再び参るも、昨今は早や売り切れ、との事に、先刻村田で頂いた干柿一個をも呈上したるに、是なら一円三十銭位の値打ちあると聴いて驚いた。乾燥玉子と生玉子二個頂いて失礼。次に一路春日野まで。次に香月に詣でる。先月の今日は生死の境で苦しんで居た子供は元気になって居る故に、濱脇で頂いた卵一個呈上す。昨今は二円が相場なりとは恐ろしい事なり。次に大急行で中山手の小林に詣で、次に平野の吉田の四十九日忌に詣でたるに不在。次に古藤へ二十六日の代わりに詣でて、山越えで最大急行で帰るに、五時二十分。平野より二十五分程で帰ってた。
 次に義子が支度してた故に、お粥を炊き乍ら、長らく氷でカンカンであった水道付近の大掃除と片付けす。次に外の庭を全部大馬力で掃き、月明りで塵取るなど、眼も廻る程の大努力で六時半頃に了る。気持ち好くなった。次に薬石頂く。珍しく切り乾しとコンニャクの白和えにうの花にとろろ汁で熱熱のお粥頂く。第一線の皇軍勇士の御苦労を偲びながら、義子と共に話し乍ら頂く。了る早々、後片付けは義子にまかせ置いて、山と積まれた庭の枯柴をコンロで焚く様に切り始む。警報が今か今かと思い乍ら、最大馬力で切る。二束切り了り、ヤレヤレと思う。次に外の厠の前の大蘇芳樹の枯れたのを、全部コンロで焚く様に切り、次に植木棚の腐った物まで大汗で切る。次に割る。でも早や十時も過ぎた故に、隣家に気を兼ねて、音のする仕事は中止にする。次に後片付け、月の光の御陰で全部裏へ運び出す。次に古縄をも全部畑の肥にと切り、次に大掃除して床には水を充分撒いて、気持ち好くする。次に机場の整理して、床に入れば十一時過ぎ。近頃になく疲れた、疲れた。戦場の事を思えば何でもない。安心して出来る仕事なら、どんな事でも喜んで頑張らなくては申し訳なし。今日は珍しく警報が鳴らなかった。

二十五日
 艦上機六百、関東に来襲。別に四発も百三十機、帝都に来襲。畏れ多くも大宮御所の一部にも投弾被害ありと。折悪しくも早朝より降り出した大雪は九時頃には三、四寸も積もって大変なり。でも元気出して上木に詣で、滑りこけて右掌より血を見た故に、引き返して運動靴履いて、平野の吉田に至るも今日も不在故に、地蔵院へ定刻の十時に着す。門前の雪は五、六寸も積んで、その美観は絵も及ばぬが、徒歩に大変なり。楠は早や着して居られた。瑞龍の老師に久しぶりに逢うて、大いに話す。十一時頃に本尊前で結婚披露奉告と云った回向す。自分は維那す。了って瑞龍老師より新夫婦、いや新妻に代わって御挨拶下された。了って祝い膳頂く。決戦下なるに、色々苦心された御馳走を頂く。赤飯は真に嬉しかった。来客は老師と楠と自分の外は総代三人に嫁さんの父親に、和尚の兄さんなり。外の雪は愈々猛烈なり。心嬉しく大満腹に頂き了り、そろそろ下山と思った時に、警報が鳴り出した・情報は数編隊との事に、出られなくなり、間もなく空襲のサイレン、気味悪く鳴る。皆散会す。自分も身支度して玄関の間で老師と楠と自分、話しもなく、情報にのみ聴き入るに、愈々悪い。二時半頃なるか遂に頭上よりやや南方に、B二十九特別のウナリが大きく聴こえて来た。気味悪く思った時にどーーーーと投弾と同時に間髪を入れずに大倉山の高射砲なるか、応戦を始めた。胸がドキンとしたと同時に早や東へ飛び去る。でも此の頃、東京の空は大変であった事を後刻知りて、真実に恐懼。なんとも申し訳なき事なり。
 本土の中心全体を飛び、三時半頃なるか、やっと解除となると同時に下山す。十円御祝いしたが、菓子料として、五円と老師より菓儀頂く。あまりにも大雪なるに、大阪行きも中止。明石へと思ったが、早や四時も過ぎた故に、中止にして帰る。足は冷えてズキズキしてたが、大急行で帰れば汗ばんだ。此の元気でと本堂床下の楠木を大方付けして、次に大松の葉を運び込んで、後日の燃料にと、床下に都合よく陰干しにする。八時頃に了る。次に薬石頂いて休む。疲れたけれども、大片付きがした。

二十六日
 下の西の養子、高屋鐡太郎氏は軍属で戦死された。御遺骨が今朝六時半に兵庫に着との事に、四時頃より支度して出て行くに、大雪後の朝とて坂道は滑り、恐ろしくて、恐ろしくて、徒歩に大汗なり。でも無事に兵庫駅まで徒歩大汗す。明石より西伊三郎氏が来て居られた切り、誰も見えず。大雪の為に列車は故障で遅れるとの事に、魚谷で八時過ぎまで話す。再び至るもダメダメ。十時までホームで待ったがあかん故に西は明泉寺へ、自分は大阪へと向かう途中、三ノ宮の小阪部と山内に詣で、点心頂き、次に大阪の森脇の百ヶ日忌に詣でる。道は雪解けで大閉口なり。一路三ノ宮に。次に市電で須磨へ。次に明石の橋爪に詣で、次に東須磨に帰り、高井に、次に大坪に詣でて帰れば丁度西の御遺骨は帰り、式最中なるに、早々飛んで帰り、各宗袈裟着して式に臨む。福聚寺と共に了って町会長の松野氏と共に御供養頂く。大空腹であった為に、とても嬉しく有難く頂戴す。早朝より十時まで馬鹿待ちしたことは悲しかったが、都合好くご英霊は帰られ、自分も都合好く式に間に逢うて、よかった、よかった。
 昨夜より電灯故障故に、早々、心ならずも床に入る。本月七日の大雪よりも今度の積雪の方が多量なるも、早や温度高きが故に、ドンドンと消えて行く。今日も自分ながら驚くほど活動が出来た。

二十七日
 雪後、日本晴れなりしが、九時半頃より、春がすみとなる。時に南方の上空で早くも二十九が心地の悪いウナリでぐるぐる舞うて居たが、投弾は聴かず。大阪では高射砲を今からと報じている。不安な事なり。時に珍しや、須磨の松任の細君来られた。長田の松本市蔵氏死去され、明二十八日諷経に立ってくれとの事、承知する。次に本堂の縁側を大掃除する。次に手洗い鉢の水替え、次に鶏舎の手入れす。卵四個産んだきり、又産まなくなった。次に昼食頂く。大雪の後とてとても暖かなり。次に廣澤と奥の庄に乾燥菜っ葉を呈上す。次に有馬に詣でる。次に松本へ悔みと諷経に行く。八十三歳になって居られた由。次に前田に詣で、主人と大いに話す。台湾製なるか、飴玉の様な菓子頂く。百匁が七、八十円の品ならん。甘い物は仲々手に、いや、口に入らない。
 次に中島と春日に詣で、帰り早々、地蔵院で頂いた祝餅で阿部川を作り頂く。義子はとても喜んで頂く。薬石後はえんど豆炊きながら、改造せんと思う壕の上土を除ける。十四、五夜の月明かりで、八時頃まで働く。大いに広くなった。次に剃髪す。次に甘酒美味作りて床に入る。

二十八日
 山田氏早朝に参詣された。暫らく話して帰られた。寒い故にはったい茶を呈上す。義子は今日は元気出して座敷等大掃除してくれてる故に、自分は早々森と濱口に。次に谷口と田中に。次に山阿さんの老婆、先日死去された故に回向に行く。黒住教徒なり。線香と菓子頂く。老婆の遺体を焼くのに白米四升とビール二本に百円付けてが闇の心付けで、普通の心付けが三十円に三輪車のリアカー代が三十五円に焼き賃が十六円とか申された。恐ろしい事なり。仲々近頃は死んでも焼いてもらえない。
 次に大橋に詣で、帰れば小岩井の老婆、参詣されてた。話しながら支度して、次にえんど御飯の出来たてを頂き、早々飛び出して山本に詣で、松任の葬儀に行く。導師は福海寺の代で神田師に、老僧に、矢阪師に、真浄寺で、式中警報も鳴らずに済む。次に松任さんより、今日の御礼頂く。
次に東垂水に初めて下車。上木の二歳になる子供が死んだ。枕経に至るに、春光院が詣でてた。土葬にする。福古で自分が導師したいからと申された。快く承知す。共に出て失礼。一路長田へ、次に阪本の五七日に詣でる。次に藤本にて塩昆布頂く。次に藤田に。次に大村に。次に岩城に詣で、夕方に帰る。早々下の古井戸のぐるり掃除す。次に壕の土除けする。次に薬石を頂く。畑の菜っ葉はとても美味しかった。次に机場色々片付けて十時過ぎ休む。四晩に電灯が付いたのと警報が出なかった故に大助かり。でも何となく大空襲が近くある様に思われてならん。

昭和二十年二月一日
 午前一時頃、義子はとても苦しむ。背骨の上下を押したり、さすったりしてやり、やっと納まった様なり。昨日の支度が過ぎたものならん。四時過ぎに敵機は来た。報道は、今、瀬戸内より東に向かって進行中というた頃には、早や投弾した。地震かと思うような音がしたが、多分、海中ならんか。
 夜明けと共に義子次第に治まってくるも、起き得ず。早朝より壕を掘り始む。上土は植木の根元に入れてやる。次に朝食頂くなり、早々、昨日義子が心づくしの小包を母の為に作ったのを名倉局に持参す。早や超過したとグズグズいうのに無理から頼み、やっと受け取ってくれて安心す。次に小遣い五十円為替組んで手紙に入れて、書留二十七銭で頼む。次にお盆以来初めて二百円入金す。貯蓄貯蓄でやかましい昨今なれば、別口にも二十円づつ三冊に入金す。早稲田の生命保険にも三十八円八十四銭払い込む。全部相済み、やれやれと思うて帰る。
 平松の一番末の男の子が壕掘り手伝いに来てくれた。大助かりなり。午後にも来てくれて、薬研掘り乍ら、随分掘れているに嬉しく思った。昼食頂くに義子も共に頂く。次に大急行で下り、長濱に。一路、東垂水の上木に至る。春光院は早や先着されてた。二時過ぎより共に葬式始む。幸いに警報もなく、無事相済む。早々失礼す。
 今日は特に暖かく、地震でも来るのでないかと思うくらい静かで暖かく、春霞に包まれて、淡路の島さえ定かならぬ眺めなり。次に東須磨に下車。高井に明日三七日の分も回向して、次に西代の小畑に。次に武内に。次に愛久澤中の中島に。次に裏の仲井にと、全部徒歩で疲れた、疲れた。次にえんど豆入りの残粥を温かくして頂く。時に又もや敵機来襲す。琉球等へ本日は艦載機が千機から、朝の七時頃より、午後の一時過ぎまで、波状爆撃したと。困ったことなり。
 次に昨日、上木で切れた念珠をつなぐ。次に机場の整理。次に二十八日の献膳名簿作る。次によもぎ手入れす。仲々切れないものに驚いた。次にみかんの皮をも切り了り、十時過ぎに床に入る。不在中に米田栄子来て、色々持参して、義子を慰めてくれたと。廣次君も来たと。白米や煙草取りに。本日よりまたまた高価となる。光は九十銭。

二日
 雨降りなる故に、少々暖かなる為に、義子も気分好く、共に台所で戦局を心配しながら、粥座頂き、尚引き続き、色々と心構えに付いて話し乍ら、配給の小豆整理す。時に早や十一時半。大急ぎで前田牧場内の矢島の二七日忌に詣でる。生まれてやっと一年なるに、焼くに袖の下を百二十円出して、白骨になし得たとは恐ろしい事なり。警察の声がかりなるに。噫々、愈々、世は闇となる。次に丸山の太田の一周忌に詣で、おはぎ頂く。昨今は砂糖無く、塩味なるも、塩も又不自由になって来た。次に大泉に詣で、二十八日の御供え三円も頂く。次に雨は止んでいる故に、よもぎを掴む。とてもよく肥えた上等があった。四日、京都へ行く土産を作ろうと思う。次に四日の代わりに薬師寺に詣でる。代用食の黒パン頂く。ヒドイ物なり。決戦下故に是でも一個二十銭位もするのかも知れない。三個も頂き、御厚意を謝して、一路急ぎ帰り、古川の二七日忌に詣で、四時過ぎに帰り、大急ぎで昼食頂く。早々雨中を飛び出して、太田に。次に米田に至るも不在。松川も細君が石川県の輪島近くへ疎開して、主人のみ残るも、働く故に不在であった。
 雨は盛んに降る。降る中を坂本の初月忌に詣でる。昆布頂く。大助かりなり。次に柏磨に詣で、一路大汗で夕方に帰る。終日雨の中ながら、よく活動が出来た事を喜び、薬石の支度しようと思う時に、警報が鳴り出し、中止にする。敵機は名古屋に入りたる模様なり。毎日毎日の飛来に真実に神経を悩まされる。次に古い白紙の大整理する。十時半まで。でも大片付けが出来て嬉しく思う。義子近頃は背中の左背筋が凝りつけて閉口して居る故に、時折り押してやる。

三日
 隣組の御世話も出来ず、戦局も愈々容易ならぬ昨今故に、本月分も今日、国貨を百円献金と思い、求める。永井さんもお喜び下さる。普通の割当は四十円なり。次に十時過ぎに出て、上山より白崎に詣で、次に長田駅より明石へ橋爪の三七日忌に。次に岩本に詣でる。列車事故の為に死去された大島時一、みよ夫婦の件について悲しい話を聴く。氏乗の老人より頂かれたそば粉で、かき餅を頂戴す。久し振りに珍しく頂く田舎の純そば粉故に、とても美味しく頂いた上に、二十八日の御供え五円頂いて失礼。垂水の小東でも五円頂き、次に東垂水まで急行。上木の初七日忌に詣でる。又子供二人、はしかと肺炎で困っていると。早く全快を祈る。次に須磨の井田さんでも五円頂いて、寒コロ、又は東山とて藷の乾したのと焼いたのを頂く。とても上等なり。御厚意を謝して次に精乳舎に詣で、五円頂き、主人よりお茶頂く。とても美味しかった、美味しかった。次に白崎の二七日忌に詣でる。暫らく話し、次に高井へ大急行で詣でる。次に長田より下川に至れば、早や七時前。次に故松本市蔵老人の初七日に詣でる。次に大島に初めて悔みを兼ねて回向す。時一氏の弟さんが後片付けに来て居られた。飯田市外松尾で出来た藷を頂きながら、色々故人の事や、田舎の話を聴く。九時前に帰る。義子はとても心配してくれてた。共に薬石頂く。次に自分は明朝作らんと思う団子の支度、色々する。十二時前に床に入る。今日は恐ろしく歩き回った、歩き回った。

四日
 午前十二時、真夜中前後に敵機は東より西に向かう途中、二回爆弾を投下した。一寸胸を射した。山手の向こうならん。無事なりしを喜ぶ。午前四時頃に起きて支度して、六時半頃には団子蒸せた故に、義子に手水。仙花を搗く。弄花を最々後楽を見る、で立派なよむぎ団子が出来た。本尊様と渡辺の老婆の祥月が五日故に、御供えして、次に直山師と老大師と山口さんと森さんへ折り詰めにする。故に全部出切る。次に雨中を九時前に出て、宮本に詣で、次に名倉町よりバスと市電に。次に阪急で京都へ。大雨最中に電車は少数で、その上仁王門よりの電車は廃線となり、故に徒歩す。途中で警報が鳴り出した。先月の今日は大空襲のあった日なり。一時前に法皇寺に歓迎されて座に着く。
 先ず今日の主客天授の老僧に後住の出来た喜びの挨拶す。次に南陽の八十老僧に。次に九州の夏秋師に。金地院に、総代の高橋幸三氏に。次に自分も座に着くなり頂く。空腹に近頃珍しい京都料理を頂く。次に本日、大徳山内の某老僧の津送を済ませて、菊仙老大師と妙心山内恵鏡老師が来られた。再び賑わう。次に福厳閑栖来られた。今日はとても悪い顔色で、死相なるかとさえ思われたが、三番坐故に大急ぎで頂かれた故か、最後にお茶頂くにむせて大変に苦しまれた。元貞君が床を延べてくれた故に、休息させてあげる。初めから宿泊の心積り故に、安心して失礼す。大満腹で御厚意を深謝して、南禅院に老大師を訪れて、空襲下の昨今なるも、元気な様子を拝して、嬉しく思う。山口様へも別に団子呈上す。雨霧煙る中の亀山法皇霊廟は一入り尊く拝す。やがて失礼して、一路森さんを訪れる。不在なりしが、幸いに帰られた。昨年義子が病院で使用してた黒のコンロ頂いて失礼す。空襲下の省線電車は大阪までしか売らず。故に大阪より阪急で西宮で乗り換えて、神戸市電内では恐ろしい満員故にコンロに大困りした。名倉町より真の闇なり。八時半頃に無事帰る。法皇寺の馳走を義子と共に頂く。先ず無事に大役が済んだ様に思われたが、本日、東京は百五十機からなる敵機の来襲あった由、噫々。

五日
 午前八時開催の恵林寺での常会に急行す。途中、矢倉の若主人出征される由を聴く。今夕方に御苦労様なり。恵林寺では去る四日、大空襲で全焼となった阿弥陀寺と金楽寺等の様になった場合の応急処置について、等々より、一般にも食と住は市で何とか心配してくれるが、衣類は一切どうにもならぬ故に、各自に守るべし等、昨日の京都、何回目かの大空襲より受けた大被害が神戸にも必ず早晩来るに違いないからと、範国寺様からも注意ありて散会。(四円八十銭、派内掛金) 自分は早々失礼して、鍛冶屋町より神戸駅前に至れば、電車大故障故に、神戸駅より立花に至る。一年程前より頼んで居た鉄カブト、やっと入荷したからとて、本日頂き、真実に嬉しく思った。昨今、東京では百円以上の闇値なるも品物が無くて、皆困っていると。でも原価の十五円で受ける。本日十円だけ納めて帰る。次に西宮の山田へ本月二十日の分に詣でる。庄次郎君にも先月子供が安産したと。男の子で未だ田舎に居ると。
  国難の最中に生まれ来る子よ ただしくのびて国を守れよ。
 勝彦と命名したらと思いしが、早や勇と名付けて居るとか。次に芦屋の大西に詣でる。乾燥野菜を呈上す。とても喜ばれた。自分にも上等の昆布頂く。次に国道より脇の浜で乗り換えて、平野まで今日は楽々と心身共に休めながら至る。次に松本に詣でる。回向中に敵機来襲投弾の様な物凄い音がした。曇天と共に一入り不快なり。
 次に松田で御供え頂いて、峠を越えて白崎に、次に松本に、次に山崎に詣でる。当家も西脇へ疎開する由。淋しくなる。大急行で帰る早々、再び丸山の京春へ。昨日が老婆の小祥忌なりしに詣でる。御供え五円頂く。次に黒川に。次に川重に詣で。七時過ぎに帰る早々薬石頂く。大空腹なりし為に、とても美味しく頂く。義子は米の粉と甘酒で練って焼いて居た。お菓子の様で嬉しかった。次に又もや来た敵機故に、疲れても居るしする故に、早々床に入る。十一時半頃に、又々二、三機来襲あったが、頭上には来たらず、安心して夢路に入る。平松の若人、二回目壕掘りに来てくれた。大助かりなり。

六日
 夜を通して降った雨も、幸いに止んでいる。義子も幸いに元気なる故に、安心して出かける。上木は二度目に至るも留守。やはり東垂水の方の子供の病の為ならん。次に鵯越の一乗院に至る。方丈は柴田ゴムへ勤労奉仕に御苦労様なり。あづさ姫は可愛くなって居る。足かけ三歳位なり。先ず里芋の種少々頂きたいと頼み、次に法衣を少々疎開の意味で預かって頂きたいと頼む。快く承知して下された故に、若布そうめんと自然薯芋の種、呈上。先刻より降った雨は話中に晴れた。高原の雨後は一入りの美観なり。電車待つ間に、よむぎ掴む。やがて箕谷まで二十五銭で、宮崎様を訪れる。話し中に点心を下された。御厚意を謝して頂く。自作の純白米御飯で真実に嬉しかった故に、昼食用にと持って居た、牛乳ふくました焼パンを呈上す。田舎故にパンは絶対に無く、とても喜ばれた。米の粉頂いて失礼す。谷上駅に至り、有馬まで二十五銭。電車待つ間に、よむぎにゲンノショウコ掴む。やがて来る車で有馬へ。先月、即ち一月二十五日に比すれば楽なるも流石に有馬は冷える冷える。去る二十五日の雪が残っている。音羽の主人はお墓詣りで細君が迎えて下さる。松梅柄で、人をそらさぬ歓待ぶりには感心した。回向了ってまぜ寿司の御供養頂く。時に主人帰られて、共に話す。二十八日(大日尊会式)の御供えも例年一円のが五円も頂く。
 失礼して路辺で盆栽用のシダ類を採集す。大空襲下なるも心の慰めにもと。次に温泉に浴したいと思ったが、時刻も五時頃なるし、随分と冷える故に、残念乍ら中止にす。剃髪せんと髭そりまで用意してたに。
 湊川まで七十銭で、唐櫃より恐ろしい満員なりしが、幸いに無事湊川に。次に大橋に詣でて、御供え三円ときびだんご頂いて出たら、真の闇なり。でも新開地よりバスに乗れた故に大助かりで、八時頃に帰寺。義子は温かいお粥を炊いて待って居てくれてた。有難く頂戴。硫黄島その他の苦戦場の事を思えば、真実にもったいない事なり。次に色々と本日の収集品の整理と日記帳をも作り、十一時半、夢路に入る。

七日
 午前一時前後に海岸より頭上を29独特のウナリを立てて、北へ飛び去る。次に西より東へ向かう敵機あって、大きなのを一個投弾。胸にドキンと来たが、其れ切りで、その後に警報が鳴り出した故に、初めは友軍機かと思った。油断は出来ぬ、出来ぬ。六時前より平松君が掘り出してくれた壕の土を、下の井戸へと上より落とす。凡そ一時間半程で大片付けがした。今日も掘りに来てくれた。大助かりなり。
 今朝、驚いたことは白鶏が首根より血を出して大変なり。思うに昨夕、イタチに噛まれたものならん。でも死ぬような事もあるまい。
 次に東垂水の上木の子供が又死んだとの事、噫々。
正午早々に出て、宮本へ昨日の代わりに。次に前田にも詣で、坂本の三十五日と満中陰取り越しに詣で、御供養頂き、次に久保に詣で、久し振りに老婆に逢う。永年二十八日に献花をお願い申してたが、本年は料で五円頂く。昨今は六割の税金故に大変な事なり。
 次に蓮池大運動場の柵内によむぎの大群落を見付けた故に入り、虎の尾を踏む思いで掴む。幸いに全部を掴んで、西代駅に至り、一寸整理した所へ入車。幸いに乗れて東垂水の上木に至る。先日の子の姉娘なり。随分と手を尽くされた由なるも、駄目であったと。四時過ぎて和尚来たる。久正寺病気の為に、代で明石に行ってたと。早々式始む。了る早々野送りは失礼して帰る。高井の姉の嫁入先はこの辺りなるか、駅で逢うた。須磨に下車して電車待つ間にと足立で三円頂く。次に上沢廻りで山手に向かう。次第にどうにもならぬ満員を県庁裏より支度して、山甚の前で中央より降りようとしたに、左手には傘と防火頭巾と帽子、首には大きな法衣を入れた頭陀袋を懸けて居た故に、一入り自由ならず、右手で乗車券を左側に居る車掌に渡した瞬間に、押し出され、恐ろしい勢いで落ちて頭を打った故に眼が舞い、立ち上がらんとするも二、三度も倒れた故に、電車も暫らく止まったが、場所柄故に大いに我慢して北野に向かうも、変な調子でとても不快なり。でも頑張り頑張りして登る。防火頭巾や帽子を冠って居たなら、大きに助かっていたのにと悔やんでみたが、仕方なく。でも辛抱して池上に至る。二十八日の牛を頼む。此の間に頭に手を触れて見るに、左頭上が大きく腫れてベトベトして居る故に、血かと思ったが、黄汁の様なり。打ち傷よりも、突き落とされた勢いで、打ちつけた痛みの方が大なり。なんとなくボケ見た様なるも、心静かに高木と藤井と城本に詣で、早々再び山甚前より乗車。バスと両方で八時頃に帰れば、又もや義子が床にある故に、可哀想とは思えども、不快は一入り乍ら、先刻の出来事は心配する故に話さずに、薬石の支度して頂き、次に不快ながらも掴んで来たよむぎの整理する。十時半までかかる。噫々。今日はヒドイ目に逢うたが、先ず先ず大怪我でなくて良かった、良かった。

八日
 大変に心配したが、大した痛みもなく起きられたが、矢張りふらふらする。今や必勝総進軍の時、飛行機材料補給の為に回収される各家庭のアルミ品供出の朝なれば、湯沸かし大小七個と鍋三個、その他長年の間に集めて居たコマゴマのアルミを全部供出す。永井さんも喜んで下さる。他からの供出は淋しいものであった。
 次に鉄と銅と真鍮と、尚アルミの残りを大整理して、組長の原氏へ重いのを我慢して運んだが、早や回収場へ持参された後となり、残念乍ら次回を待つことにす。
 次に朝食頂く。山口牧場も疎開されるのか、トラックに山と荷物を積んでられた。次に廣次君が大阪へ転出するに付き、町会へ調印を願いに行くに、土産として下の畑の可愛い大根と柚の皮の乾物を呈上す。松野氏も若人三人共出征されて、非常に困って居られる。でも最後に行かれた兄様は岩国で畜産の主任となり、馴れた仕事とて、とても好都合なりと。時に警報が鳴り出した。敵機は西より海上を大阪方面へと聴いて、尚一機なる由に安心したが、早く帰る。
 次に大急行で昼食、義子と共に頂いて、早々飛び出し、先ず下の米屋へ廣次君の転出届けする。本日は配給日なれば、好都合であった。次に宮阪に詣で、御供養頂く。二十八日の分も三円。次に田中に詣で、同じく二円頂く。明日は子供の七回忌故に詣でくれとて五円頂く。老婆は東京に行かれた由。次に大島の三七日忌に詣でる。早や荷造り最中で大変なり。近く長野の松尾村へ送られる由。次に岡久に詣でて柚の皮呈上す。次に財家で御供え二円頂き、次に食パン十一銭で求め、次に松田に詣でる。鳥取へ学童疎開して居た子供は、久し振りに我が家へ帰り、親子共に大喜びなり。次に永井さんに逢うた故に、パンと廣次君の転出認可書を寺へ届けて下さる様に頼む。義子、今日はとても苦痛の様なるも、仕方なく自分も夢野へ越えて、楽氏で二円頂き、次に平野の吉田に詣でる。去る二十五日、大雪の日至るに不在と思ったに在宅であった由。馬鹿見た、馬鹿見た。葬式より本日までの御礼に十円頂く。当家としては気の毒なるも御厚意深謝す。次に高田で一円頂いて、次に春日野まで電車。楽に行く。次に香月に詣で、大根五本呈上す。五円御供え頂く。次に平尾に至るも不在。早や夕方故に帰る。長田で真っ暗となり、バス待つも故障故に柴田の細君と共に話しながら帰る。
 義子とても苦しかったと。早々雑炊の熱いのを頂く。早や九時となる。次に明朝の支度して置いて床に入る。十時半。

九日
 午前中、色々忙しく働き、午後早々に出て、古川の三七日忌に。次に矢島の三七日忌に。次に名倉町の床屋で随分と久しぶりに顔を剃る。一昨七日、電車より落ちて打った痛みの為に、暫く剃髪は出来ぬ。床屋も決戦下とて女に代わり、荒っぽく粗末になったが、早いのが嬉しく思った。値金の五十五銭なるは安い。次に田中の七年忌に。次に市電で須磨車庫まで。次に高井の三七日忌に詣で、御供え五円頂き、次に瓜谷で頂き、次に板宿の踏切で偶然、菊仙老大師に、先刻明泉寺を訪れ、今から禅昌寺へと。自分不在で失礼。義子不快故にした事と恐縮する。七十四歳とは思えぬ元気なるも、電車には閉口したと申されてた。次に一路布引まで。次に高井に至る。最早転宅。次に池長は不在。次に平尾に至るも今日は不在。細君は疎開された由。次に日下部で頂き、次に長谷川へ初めてお願い申し、五円頂く。次に山村でも同じく奥様は地下足袋姿で畑作り最中。次に再び池長に至るに主人に歓迎されて、二階に昇る。床軸には秋田の佐竹候の紅梅と水仙画は二月の空模様まで現わして、実に見事なり。池長孟氏自画像の立派なのが懸って居た。小磯良平画伯の筆なりと。画伯は北野出身で神戸の生んだ洋画の大家なり。日本画の大家、橋本関雪は逝かれ、惜しいことしたと申されてた。先刻女の子が病院で安産したと。御自分の子なるや、孫なるや。長男は十九歳で只今旭川に入隊して居ると。大雪の本年、一入り苦痛ならん。珍しく紅茶を。尚五円と満州北陸の黄瓜頂いて失礼す。
 真暗夜道を山内へ。凄いほど淋しい夜道なり。小雨さえ降る。山内も家内中が風邪引きで困って居た。故達子女の七年忌なり。大根、セリ、蕗の薹、トマト、柚を呈上す。御供養頂き、早々帰る。菊仙老大師、御光来下されたに対し、甘酒で作った焼物はとても上手に美味しく出来てた。老大師も大変お喜び下された由。菓儀二十円も頂戴。真に恐縮す。

十日
 日露の戦いあって四十回目、大東亜戦争となって四回目の陸軍記念日なり。昨今の戦いは愈々重苦しいものが頭上に迫る思いで、今までの様に明朗な気分ではお祝い気分にはなれない。十時頃より忠魂碑に詣で、御英霊に皇国加護を心からお願い申す。次に安沢に詣で、芋づると柚と蕗の花を呈上す。時に雪降り出す。帰途、葛藤を切り集め、尚猫柳をも切って帰る。大収穫なり。西出町の藤田は主人が出征された故に、故郷の淡路へ疎開するとて、挨拶に来る。墓回向す。
 久しく便りなく心配してた前垣より喜野とてるとより手紙来る。近く廣次君が迎えに行くとて、昨日来たり。今日は姫路に居る様なり。てるも大勢の子供の世話等で閉口して居る様なり。近々姫路へ引揚げて来る由。痴僧も色々心配してくれると喜び居る由。故信太郎苦心研究中の機械が最近運転を始めたので、会社でも大喜び、否、国の為に嬉しく思う。
 昼食も大急行で頂くなり出て、一路林田区役所へ至る。先日聴いた代書は休んで居るので困ったが、戸籍課に至るに案の定、不通なり。仕方なく後日の事にして、須磨に向かう。雪と風とて寒い、寒い。先ず坪井に至る。主人は昭南島より昨日、無事の手紙が来たと。共にお喜び申す。五円も頂く。次に前田でニュースを聴いて驚いた。昨夕より敵機は百数十機で帝都を始め、東北各地を大爆撃して大火災を起こしたが、今朝八時に至り、鎮火した由、噫々。次に杉本に至る。前田と同じく三円頂く。次に植田に至る。ふさ様幸いに居られたが病気で見るも痛々しい様で、気の毒なり。子供なく、只一人の兄様が良く世話してくれる由、噫々。昨今の様に戦場化した折り、病人は一入り悲しく思う。次に丹波に至る。急坂故に一寸苦しいが急行す。次に出井に。次に武岡より東川崎より転宅した鍋加に至る。次に松任で回向して、次に白崎の三七日忌に詣でる。あいさん詣でてた。先に失礼して早速と発車間際の電車にやっとの事で押し乗り得たり。長田より橋本棟梁の明石より帰ると一緒になる。酒の粕にボラ魚など相変わらずの話されてた。自分は松本の二七日忌に詣で二円頂き、次に渕上でも三円。次に平松と門脇に詣で、六時半頃に帰る。不在中に義子は非常な咳で大変に苦しんだ由故に、薬石も食べず。自分は残粥で済ます。時に警報が出た故に、解除になるまで休息す。幸いに無事通過した故に、夜業始む。雑魚の骨等を粉に挽く。次に昨日より老大師が来られたらと漬けて居た米を粉に挽く。去る四日に呈上したよむぎ団子、今朝まであったとお喜び下された由なるに、昨日御尊来なりし為に残念なり。次に去る七日掴んだよむぎをも挽く。大変な嵩なりしに、ほんのちっとになる。でも明朝団子にと思う。次に蜜柑の皮沢山ありしを全部切る。次に今朝切って来た柳の大整理等をなし、十一時半に床に入る。未だ頭がチクチク痛む。

十一日
 午前一時半頃に警報なるも一機とて安心したが、不安で困った事なり。
 旧正月二十八日との事に、よむぎ団子作り、御供えして頂く。義子は未だ起き得ず。でも昨日に比べれば楽なりと。十時過ぎより大手の山本に至り、三年忌の回向す。頭がまだまだズキズキと痛む故に心配してたが、金剛経全読も苦にならず、声量も豊かに静読が出来て喜ぶ。団子、御供えす。とても喜ばれた。次に小豆飯と巻きずしの御供養になり、又頂戴して、なお白波瀬の老婆も先日より天理教会に世話になって居られるが、今日は迎えられて来て居られた。又十七日に英霊の慰霊祭に出頭する事を約して帰る。時に永年大切にしてた神例氏より頂いた星月菩提樹の念珠を、昨夕平松より門脇間位で落とした事を知り、残念で堪らないが、自分の失策故に仕方なし。次に徒歩で全増に至る。時に情報が這入って居たが、空襲にはならなかった。次に山田で五円も頂く。次に上の新宅を久しぶりに訪れる。次に長田まで急行して、湊町まで。この辺も疎開地区とて倒された家の跡等々、片付かず、大変な事なり。柴田でも皆淡路に疎開されて、若人のみ残る。中谷も再び移宅されつつあり。小河通りへ。次に柴に。次に瓜谷に詣でて長田に帰り、中西と上の中西で五円頂く。御厚意を謝す。昨年、痴僧と同日、再出征された主人は只今中支へ向かいつつありと。御苦労様なり。次に妙楽寺へ痴僧結婚届書に証人としての調印を願いに行く。待つ間に下川へ大急行で詣で、再び至るに和尚帰られてた。明朝本山へ登山される由。子供へ山本で頂いた食パン呈す。公定十一銭のパンも闇となれば、五十銭以上の由。恐ろし、恐ろし。次に吉永不在。山本に詣で、又五円も御供え下さる。有難く謝して失礼す。田辺の老人の先月の本日が一周忌なるも、夜に入りし為に行かずに帰る。義子は先ず先ずで安心し、共に山本で頂いて来た御供養と雑炊頂く。又もや右の眼が恐ろしく痛む故に、早く床に入る。

十二日
 夜中十二時過ぎ、平松のヒサノ女より呼ばれて、義子は吃驚す。先刻より友軍機の旋回しきりなりしに、いよいよ次々と編隊が来襲とのことに壕に入れてくれと。新しく掘った方に落ち込み、閉口されたが、幸いに怪我はなかった。自分は情報に聴き入る。幸いに東の方が主で、神戸は大助かり。二時頃に解除になったが、東部には未だ敵機が居る由。午前八時半頃に又々警報が鳴る。解除になるなり、先ず神田の三年忌に。次に池田に。次に白崎へ。次に田井は不在。次に明石の橋爪の四七日忌に詣で、点心頂き、次に垂水の上木に。次に須磨より林田区役所へ戸籍の件で至るに、今日もゴテゴテして最後は駄目で、あほらしいやら悲しいやら。再び書類を痴僧の元へ送らねばならん。次に再び田井に至り、藷づる呈上したら、饂飩粉と御供え五円も頂く。次に吉永に詣でて、帰る早々、再び出て丸山の村田に藷づるとカジメと漬物を呈上す。次に時本に。次に濱口に。次に仲井に詣でる。
 薬石頂きながら、義子より、今日は山内平吉氏が荷物を疎開に一車で来ると。次に鍋加も来たと。困った事なり。廣次君も来たと。皆食事付き故に一入り困る。眼が一入り悪いが、十一時まで働く。

十三日
 敵機、毎日毎夜、各地に来襲し、昨夜来、京都、名古屋に百三十機、大損害故に今日は少しでも増産と防空に専念せんと、外出を中止にして、早朝より馬鈴薯を上の境内畑に。次に下の畑へと沢山に植え付けて、尚霜除け等取り去り、手入れする。
 午後は配給の練炭、永井氏が杉田から運んで来て下されたのを、再び運び込み、地蔵堂内に疎開さして頂く。等々より鶏舎の大掃除してやる時に、玉子を産んで居た。嬉しく思う。近頃イタチが出入りする為か、首筋噛まれて出血多量、困ったことなり。
 次に西と平松と永井の厠より肥を汲む。凡そ十荷、大汗で畑へ運び。南瓜の下肥等に入れる。暗くなって了る。薬石後疲れを休め、剃髪をもせんと、久し振りに明泉寺湯に行く。警報の情勢悪い為か、珍しく楽に入れて、剃髪も出来た。今日は大した用事が出来たが、疲れた、疲れた。

十四日
 真夜中にサイレンに警報は空襲となる。義子は珍しく呑薬した為か、安眠していたが、共に支度す。平松からは早や壕に入りに来る。敵機は波状形大編隊とのことに、今までにない大支度する。正十二時頃には早や大阪に来襲、激戦始まると。神戸上空にも物凄いウナリを耳に。直に三、四回落弾の音を近くに聴いたが、主として大阪なり。大火災も起きて居る由なるに、三時四十分頃になって、やっと解除となり、やれやれと安心して、暫く休んだが、大阪はなかなか大変な様なり。故に今日も休んで壕を増設せんと思いしが、雨降りなる故に、内に空蔵を作らんと、火床の脇に穴掘り始め、土は本堂の西に運ぶ。秀子の乳母車で大助かりなり。義子も今日は元気で、巻きずし作ってくれた。昼食も食べながら働いて、午後二時に中止にして、幸いに雨も上がった故に、先ず高山に当家も伊勢の津へ疎開する由。次に前田の四七日忌に詣で、新高キャラメル頂く。次に乳屋の前田にも。疎開、疎開で大変なり。宮の下で舟引氏に逢う。一円御供え頂く。次に長田署の前は消防隊の炊き出し等で大変なり。昨夜より今朝にかけての火災の為ならん。逮夜詣でも何となく気が引ける様に思われた。坂本の六七日忌に詣でる。次に平尾で五円頂いて、主人と暫く話す。次に松本で頂き、大丸前より清盛塚まで、案外楽に乗れて山田に詣で、中岩の転宅して来た小河通一丁目二十五を尋ね回り、幸いに知れたが、早や暗い故に後日の事にして、清盛塚で七、八車待ち、やっとのことで無事に七時頃に帰る。義子が安眠薬を作ってくれてた故に、心ならずも早々床に入る。

十五日
 三時半頃、変な音に又空襲かと支度始めたが、でもなく安心す。雨は静かに降って居る。早朝より昨日に続き、台所の庭に壕掘りに専念す。珍しく義子が朝食の支度してくれた故に、大きに仕事が進む。小雨となり、止んだ故に本堂の脇へ車でドンドン運ぶ。昨日に比して馬力かける。
 明石の西伊三郎氏、京子さんより義子へ手紙を持参下された故に、義子は自分の壕掘りも手伝えぬからと、巻きずし作り、慰めてくれた中の二本を呈上す。自分は食べながら仕事を続け、二時頃に中止にして、山口、馬場、松野、八木、菊池は三円づつ。岸本で一円頂き、井口にも詣で、二円頂き、橋本で一円。岡本不在。下の岡本で一円頂き、小谷も一円。細見倫一郎で三円。芦田一円。三ツ井に詣で、太田で五円。隣家は疎開。藤田で五円。上山不在。奥の庄では十円も付けて下さる。本年の最高なり。吉田に詣で、二円頂き、中島に詣で、甘茶頂く。次に前田の初月忌に詣で、次に暗くなって石原に詣でる。主人より五円頂く。次に長講を弁じて居たら、今晩の情報はとても悪いとの事に、大急ぎで帰り、早々薬石頂くなり、再び義子も自分も疎開さす荷物をまとめる。次に自分はまたも壕を掘る。九時過ぎにまたまた警報を聴きながら、壕掘りに専念す。幸いに一機で、投弾もなく飛び去る。でも頭上をブンブン唸りながら東へ向かうB29の奴め。
 午前1時まで掘り続ける。大仕事が出来たが、左の胸が痛む。1時三十分に床に入る。噫々、疲れた、疲れた。
 神田の美智恵女がサツマイモ二個下された。嬉しく思った。一貫三十円もする由。

十六日
 午前一時半に床に入り、全身苦痛を感じながらも、敵機頭上に迫る昨今、グズグズはしておられぬ故に、五時半に起きて、昨夜に掘り出した壕の土を、本堂の脇に秀幸の乳母車で一二、三回運ぶ。大汗す。次に鶏糞土を馬鈴薯の畑に三荷入れてやる。次に大手洗い鉢も暫らく色々の資材保存場となるようにする。昼食頂いて早々に宮本に詣でる。登志夫君の方は昨日に細君と子供は疎開したと。
 次に牧場の矢島の四七日忌に詣でる。時に敵機頭上に来る故に、岡本へ向かう途中、情報が転ずるまで路傍で嫁菜を掴む。次に岡本で三円頂き、次に松本に詣で、次に橋本に至る。当家も近く分散疎開される由。お名残に三円頂いて、次に川村に。次に元明泉寺湯でも一円頂く。細君、大阪より只今帰ったばかりなりと。大阪は野田阪神より上六まで焼け野が原になり、天王寺の五重塔も全焼、市電はなく、大変なことなりと。噫々。次に林に、次に東槇に至るに、明晩、故郷の津山在へ帰村される由。淋しくなる。次に岡田より順々に青木の五十年忌に。瀬川を最後に帰途に付く。室内と二中には軍隊が宿泊されて、戦場気分も物凄く、ぐずぐずしては居られないが、残りに中村に詣でる。皆疎開さして、主人一人切りとなられる由。今晩は非常に疲れ、義子が言葉に応じて壕掘りも止めて、早く床に入る。全身が痛む。

十七日
 神戸全市大空襲さる。兵庫は全滅に近し。噫々、大変な事になる。
 午前一時半頃なるか、警報は大編隊の敵機が来襲との事に、心静かに支度して、大いに頑張る用意して待ちしに、来た、来た。頭上に真っ白な29の奴め、アッと思う間に天地も引き裂ける様な音と共に丸山は大火となる。恐ろしい猛火となる。敵機が集注する故に、早く消火すればよいがと思うが、なかなか大変になる。自分も我慢できず、遂に壕に入り、一心に本堂と庫裏に注意す。真昼の様な明るさとなる。下界の方は大猛火となる。頭上で鳴るわ、鳴るわ。百雷の一時に落ちた位でなく、寺も今にダメダメと、何度思ったか知れなんだが、自分は市民全体の為に大日如来に祈念しながら、勇敢に見守る。裏の山へ落ちた松油弾(焼夷弾)は一入り物凄かったが、風無き為に自然に消えたが、身が震えた。でも壕内に居れば、何となく気は落ち付いて居た。平松一家と義子と自分。三時頃になり、次第に静かになったが、又々大爆弾の炸裂の音は地響きが何度したか知れなかった。近くの人家は大変なことならん。
 雪が降り出した。近くは名倉小学校に愛久澤の御殿が。その他市内より長田は火の海の中に、夜は明けた。不安な中にも安心す。早くも警官の命により、死体が運び込まれ、本堂に安置す。長田は宮を残し、他は全焼とのこと。長福寺、光堂寺も。楠寺に恵林寺等も。真光寺、大佛能福寺まで。噫々、恐ろしい事なり。でも頑張る、頑張る。幸いに義子も元気で、痴僧とテルへ無事の葉書出す。
 午後、涙ながらに頼みに来られて、宮川町まで回向に行く。道は大変なり。250キロ弾が四、五本も不発故に、四、五日、立ち退けとのことに、一入り大変なり。
 藤田愛之助氏は荷物と共に避難して来られた。大歓迎して共に喜ぶ。自分も何をしてよいやら、うろうろして夜に入る。でも今後の事についての準備に壕等々、大いに働く。
 警官も二人、泊まり込まれた。死体は退去された。残りなお五体あり。今夜は大疲れで、皆早く床に入る。電気もラジオも無し。神戸全市で少なく見ても、家を焼き、寝るに所無き、気の毒な人々は十万に近からん。噫々。夜は冷える、冷える。

十八日
 恐ろしかった夜は明けた。お彼岸の入り故に、お預かりしている罹災者四体、病死二体へ、尚神戸市民罹災者への回向す。粥座の支度は藤田の細君がして下さる。義子は疲れて居るが食事。警官も共に頂く。了った頃、早くも警報が鳴る。でもこの辺は電燈と共に故障なれば、真実に闇の世の中になったが、今日は旧の二月五日故に次第に月夜となる故に有難し。
 正午頃に罹災死体四体は運び出され、警官出張も共に引き揚げられた。尚病死二体あり。内庭手洗前の壺には油類、醤油、酒、缶詰、蕎麦等、入口玄関脇壺にはかき餅、米、金鎚、釘抜き、ローソク、針、椀を入れる。
 時に艦載機の来襲との事に、未だ見ぬ姿ながら、大緊張する。次から次へと大馬力で働く。義子はボツボツながら働いて居る故に安心なり。今日は明石の橋爪の法事なるも、山陽電車も不通。市電も。故に中止にす。

十九日
 粥座前に早くも艦載機の飛来。初めて其の姿を見る。高射砲の猛烈なるが為に、随分と高く飛ぶを見る。凡そ二時間位も続く空中戦は焼け残りの神戸上空の様であった。又々黒煙が登る。残念な事なり。藤田氏と廣次君に下より大戸棚揚げて頂き、手洗いの上に置き、疎開荷物を入れる様にする。警報空襲解除で夕方まで続く為に出られない故に、疎開荷物に専念す。義子は納める品物の出し入れに一生懸命なり。姫路の牛尾の兄さん、岡本寮へ来たとて、見舞いに来てくれた。
 夕方までに手洗い鉢屋根に雨除け等も全部了る。是で少しは安心す。次に名倉の田中とて初めての家に回向に行く。川西へも。薬石後は藤田氏と大いに話す。今夜は空襲もあるまいと休む。疲れた、疲れた。山崎の老婆、故郷へ帰る挨拶に来て下さる。

二十日
 水道は破害故か、水無き為に市内の大火災は自然消火を待つのみで二十日に至るも夜空は真赤に。噫々、恐ろしい事なり。昨十九日早朝より波形に終日の爆撃に脇の浜の神戸製鋼所も遂に駄目となりし由。人間の呑む水もなく、明泉寺町へも朝と晩にトラックに一台来るが、バケツに一杯はあたらない。牧場の牛は水なく、飼葉無き為に、今日を限りに処置されて行く。牛の鳴き声も一入り憐れなり。名残の牛乳を頂いたが、是が最後の乳かと思えば、変な気がする。噫々。夜に入るも電気無き為に真の闇で、ローソクも不自由なれば、何も出来ぬ。ラジオも聴けず。故に遠くにサイレンが鳴るも、その後の情報が聴けず、不安な事なり。今、午前三時頃に警報が出て、かなり騒いだが、頭上には来たらず、役持つ人々はラジオ無き為に、情報に声を枯らして、霜の朝を走り回って下さる。御苦労様なり。自分も全身痛むが、我慢と頑張りで、今日も早くより、次から次へと、色々の事に専念す。本堂には尚死体二体あり。御膳供えて回向す。次に外の壕を掘り続ける。藤田さんも義子も疲れて起き得ず。霧が深く不快な空に瓦斯風船、芋虫の様な形のが浮んで居る。低く飛び来る艦載機を捕えんとするカスミ網の役をする物なりと。
 時に鶯の初音を聴く。旧は二月八日で源平の戦いも済んだ今日も古に変わらぬ自然界よ。西洋グミの根を掘り、南天樹に近づいた時に中止にして、朝食頂く。大仕事が出来た。時に東さん、大布団を預かってくれとて持ち込む。大汗なり。真向かいの谷口庄一氏宅も全焼故に、生きた心地はしなかった事ならん。次に自分は川西へ葬式に行く。大非常時故に粗末で憐れな事なり。小雨さえ降る。次に大橋に。次に広澤に一寸気兼ねしながら詣でる。宮前の博タメ屋が丸焼けで、避難して来て居られた。
 午後は名倉町の有馬と風呂屋の中村に詣でる。恐ろしかった話で持ち切りなり。大根三本呈上す。青物なり。昨今、大喜び。次に初めて見る焼跡の憐れさ。雨は降るし、右往左往する人で、大変なり。割田さんも丸焼け。行方不明なり。先へは進めず、右へ下り、前田の三十五日忌に詣でる。親の家は丸焼けで、避難して来て居られた。台湾の白柚頂いたが、未だ若かりし為に不味かった。
 八百屋に豆のモヤシが配給されるので、恐ろしい行列なり。又特配受ける米屋の前も黒山の人なり。藤田さんの一区内には250キロ大爆弾が七、八本に小形等十六本程を軍隊が来て、モグラの様に手掘りで、掘り出し最中で、家人は全部立ち退いて居る。道行く自分もビクビクなり。電燈無き故に、「有仏の処、速やかに早過す。」(趙州録)
 無事に帰り、早々中村仙太郎家の過去帳書き始めたが、夜に入り中止にす。藤田氏帰られ、共に薬石頂いて九時過ぎまで話す。

二十一日
 彼岸中日というに、夜半と五時過ぎ二回、サイレンが鳴る。ラジオ無き為に、役の方はその度に情報を大声で知らせて下さる。御苦労様なり。昨朝と同じく行事回向後、壕を掘り、今日は大南天樹を掘り上げ、次に桑樹と蘭の一部まで掘って、粥座頂く。仲々なり。次に義子は豆の粉挽いて、白米の御飯少々炊いて、自分も藤田氏と話しながら、手伝うておはぎ作り、御彼岸中日故に御供えする。次に丸山の平尾墓詣でに来る。妹娘夫婦は月見山より長田へ宿替えして来たその夜に、大空襲、丸焼けとなり、丸裸で爆撃の最中に、丸山の親里へ帰られた由、噫々。自分は気の毒な話を聴きながら、罹災死者に掛けて来たむしろを、整理する為に切り、馬鈴薯の畑に振りまく。
 次に今日こそはと中日回向を兼ねて白崎と米田に至るに、意外、丸焼けとなり、皆は無事で、伊丹の親元西川に引き揚げて行きしと。噫々、大変なり。午後には来る由を聴いた故に、是非、大日寺へ立寄る様にと頼んで置いて、山へ登る。何時も寺の台所から見る蒙古地方の様な山の頂上に初めて立ち、焼け野が原と化した下界の憐れな姿を見て悲しくなった。恐ろしい事になるものなり。焼場は何千とも知れぬ死体を処置する為に、東京の大震災の時の様に、油の力でドンドン焼く紫色の煙も憐れとも悲しく、合掌回向す。
 御彼岸中日只今の気候は、風もなく春霞に包まれ、焼け野が原の下界も柔らかく包まれて、何事も無かったような静けさの空には、友軍機が盛んに爆音高く飛来して居る。直下の家も丸焼け、散乱する血まみれの布などを見て、身が震え、引かれる様に感じた故に、早々下り、片山を見舞い、次に宮阪に詣でる。避難で聴く話も憐れなり。施行の握り飯の雑炊を頂いて帰れば、藤井の娘と高木の二男が来て昼食中なり。曰く山内平吉一家は十八日、二回目の空襲に家は丸焼けとなり、長男八郎君は背へ焼夷弾が落ちて、安静を要する怪我して、只今は清水氏の宅に同居されて居る由。噫々、困った事なり。
 時に瓜谷の娘二人来る。家は全焼、大阪の堺久も丸焼け。須磨の高井も丸焼けになったと。噫々、困った事なり。
 次に神田より御彼岸の御供えに珍しくあんこのおはぎ頂き、御供えす。次に昼食頂く。了らぬ中に残る最後の死体引き取りに来る。是で了りと荷造りして、小車に乗せて帰られるまで冥福を祈りながら合掌す。沢山の死体にお別れに来た人は、只の二人であった。
次にトタンの波板より血が流れていた本堂内を大掃除して清める。
 三時過ぎより丸山に向かい、大畑に詣でる。捕虜は大勢で下ノ谷よりリレー式で送水して居る。鬼畜米兵の一部と思えば不快なり。次に村田に詣でる。細君は子供やツンボの老婆の手を引いて、神有トンネルに避難中、溝に落ち、足をくじり、床に付いて居られ、大きに悲観して居られた故に、力強き話をして慰める。とても喜ばれた。二十円も御供え頂く。昨年は五円で最高。本年は又最高。御厚意を有難く謝して失礼す。次に平尾に。次に太田に。次に石井に至り、先に橋本に回向す。了ったら今日は取り込んで居る故に後日とのこと。次に丸焼けになられた山本医の山の家を訪れる。奥様は恐ろしかった色々の思い出を話された。荷物をボツボツと運んで置いた故に大助かりなりと。
 次に高東園に至るも不在。次に薬師寺に詣で、小豆煮を頂く。次に上の安沢に詣でる。忠魂碑付近も盛んに落ちて恐ろしかりし事を話された。帰途、道路下の家も丸焼けとなり、早や暗いのに焼跡を片付けて居られる姿も憐れで、正視は出来ぬ。左谷間に噴き出す水を只一つの命の綱と、終日水汲みで賑わっている。早く水道の出る様にと念ず。
 次に濱口に詣でる。船長であった方が死去された由に、大勇猛心で回向し了って、力強き一席を弁じて帰る。藤田氏の食事に追いついて、共に頂き、次に配給の大豆モヤシ、義子と二人で掃除す。とてもとても手間ものなり。了って九時半、床に入る。小河通の山田氏丸焼けとなられたに付き、一ヶ月ほど同居さしてくれとのこと。明二十二日に来られる由。気の毒と歓迎す。

二十二日
 夜半、正十二時頃に、サイレン鳴る間もなく、下の方より淵上の奥様の様な声で、退避、退避と。同時に敵機は頭上に来た。藤田氏が裏の障子の茣蓙を巻く時に、丸山の奥あたりに投弾。地響きがして一寸胸がドキツイタが幸いに一機なりし為に、助かったが、皆々起きて暫くは騒いで居たが、一時頃に解除となる。
 中村仙太郎家の過去帳書き了る。大非常時とて気も落ち着かず。でも先ず先ずに書けた。次に今日こそ各寺院を見舞わんと、福厳に十円、閑栖様に十円。楠、福海、恵林、範国、真浄、円通、放光へは五円づつの包みを作る。義子は山内等への慰問品にと、混ぜずし作る。次に昨日、知章墓裏に壕を掘った宮本へ頼んだ電車バス工夫が三人来て、自分が掘り続けて居る壕を、凡そ一時間半位、掘ってくれた。でも随分助かった。宮本氏は再出征して今朝行かれた。御苦労様なり。工夫三人にすし供養す。次に午後早々、初めて出?動服を着る。変な具合なるも、とても衣では出られない・義子はとても心配してくれたが、淋しく一人で留守番する。
 自分は天神町の三木秋子女、罹災初七日忌に詣でる。服着て回向したのは初めてなり。来客者の老人より戦局を聴くに仲々不安なり。でも自分等は皇軍を信じて、頑張らねばならん。次に焼場で始末に困る罹災者を野焼きする有様を見て、暫く合掌す。菩提寺も全焼なり。噫々。
 やがて見下ろす神戸の姿の憐れさ。路傍の家も皆焼けて居る。松隣寺はやっとのことに残っている。
 荒田に入り、楠寺へ向かう途中は恐ろしい事なり。どんな防空壕もダメダメ。助かって居る所は一軒も無い。見渡す限りの焼け野が原で真赤なり。県立病院のみ半焼なり。楠寺の立派で有った姿もなく。夢の跡となる。蔵のみ残って居た。安養寺に避難されてる和尚にお見舞申し上げる。皆、幸い無事との事。噫々、大変な事なり。
 次に大倉山より今朝来、東尻池まで開通した電車に、それはそれは恐ろしい危ない思いですがり付き、やっとのことで布引に至り、清水氏に避難して居られる山内を訪れる。心配した平八郎君も、幸いに今日は一人で寝起きが出来るとて、起きて居た。平吉氏は急に元気になり。今日も焼跡へ掘り出しに行って居られる由。混ぜずしと昨日作った御彼岸のおはぎ十個、油焼きにした物に二十円付けて呈上す。山内の仏壇一切を焼いて仕舞うた事は、残念で申し訳ないと云ってた。皆は暫らく姉娘の居る滋賀県の長浜へ避難される由。失礼してトンネルまで電車で。次に見通しも付かぬ程の焼跡を先ず放光庵の門だけ残る憐れさ。名札を入れて、次に恐ろしい程静かで淋しい焼跡を恵林寺に至る。幸大寺に避難して居ると。次に範国寺に至るも住所不明、跡形も無し。辻で立ち話する人より聲掛けられた。其の人は中村謙造氏と西田とて福海寺の御大なり。寺は十万円の保険に這入って居ると、一寸楽観の色を見た。福厳寺前で別れる。真浄庵は青木寺に。福厳寺も円通も行先不明なり。蒼官護国の松も今を最後とゆるやかに龍涎(りゅうぜん)の如く煙が立ち昇り、罹災死者へ焼香して居る如く思われた。広々と焼け野が原に生ける如く思われたは、只此の松根の煙のみであった。老僧が見られなば何と感じられる事ならん。大きな防火池も猛火には敵しがたく、憐れにも功をなさず、破れ布団が焼け綿を見せて、憐れ、貴賓殿の入口のみ残る。噫々。皆無事ならん事を祈りながら去る。とても疲れたが我慢して幸大寺に向かう途中、神有の乗客の大変なるに驚いた。何時になったら乗れることやら。勵行館横に敵機B29の残骨が置いてあって、黒山の様に見る人々。再度山に落ちた物とか。畜生め今に見ろ。残る奴も。
 やがて汗かきながら観見山まで登る。松本家も焼けて居るに驚いた。豪華を誇った唐木御殿も見られなくなった。幸大寺境内にも焼夷弾があちこちに落ちて居る。恵林寺和尚も案外元気なり。混ぜずしとお見舞を呈上す。とても喜ばれた故に、自分も嬉しく涙ぐまれた。
 夢野の墓まで登り、暮れ行く焼け野が原の下界を暫らく合掌して、死者の冥福と、一日も早く復興の早からん事を祈る。沖に恐ろしい波頭が立って居る。強風ならんと、早々帰る。
 途中、半島人の小屋も焼けて居た。次に町会長松野氏を訪れ、労を謝す。薄暗い頃に帰れば、嬉しや、生死不明であった福厳老僧が来て居られた。十七日の夜半、寝巻姿で飛び出したきり、うろつき、西代の山田氏より来たと。でも御無事なりしことを喜ぶ。共に薬石頂き、恐ろしかりし夜の事ども聴きながら、疲れて早く床に入る。老僧はとても安心されて、共に嬉しく思う。

二十三日
 初めて警報もなく、夜を通して降った雨も止んで、日本晴れの朝を迎え、鶯は真如を弄して、真に春らしくなって来た。
 福厳老僧と共に粥座頂き、色々と今は無き思い出話され、憐れにも悲しく思ったが、心ならずも強く慰め、頑張られる様に申す。共に出て老僧は平野方面へ、知人を順々に尋ねて行かれた。早く明泉寺へお帰りと申す。大喜びで岡久氏へ行かれた。
 自分は初めて長福寺の焼跡を見舞う。皆は福聚寺の薬師堂に避難して居ると。噫々。次に神社前一帯広々となった焼跡。恐ろしい事になったものなり。溝本の土蔵一つが無事かと思われた。谷口も憐れなり。長田橋より下は無事なり。
 超満員の電車で加納町まで。次に阪急まで徒歩。夙川に下車。高井の避難先へ。幸い姉娘に逢うて案内されて行く。細君の弟の家なりと。高井は皆無事なるも、本宅も全焼。立派な壕も物を入れる間もなく、何の役にも立て得ず、残念であったと。本町の店も新在家の旧家も皆焼けて、塩屋が残るのみと。噫々。三十五日忌の回向す。昨日の混ぜずしとパンを呈上す。とても喜ばれた。駅まで送って下さり、乗車券四十銭を求めて頂く。遺骨も預かって帰る。
 先刻、駅前で高砂のお婆さんに逢う。皆やつれている。頑張れ、頑張れ。
 神戸着。市電も無事に長田へ。先ず福聚寺に至り、長福寺を見舞う。和尚不在。細君へお見舞の挨拶して、包み五円入りを呈上す。平尾つる老婆の避難姿で粥をすすって居られる姿も木の毒であった。福聚寺の和尚も不在。弁当食べて、次に名倉町の故田中憲義氏の葬式に向かう。一時と云うに大汗で至るに、早や十一時に出したとの事。でも回向だけして次に、岡久に詣でる。先生も無事で立派な本ばかりで、防空壕を造って居られた。茶菓子に琉球の黒糖を頂く。甘い物は真実になくなった。次に中村仙太郎氏に頼まれてた過去帳を納め、尚追加の分書いて、次に回向す。了ってお供養頂いて失礼す。
 帰る早々再び出て、濱口と野々山と古川の三十五日忌に。次に上木に詣で、五円御供え頂く。次に西へ避難して来て居られる谷中氏を見舞う。丸焼けなりと。噫々。次に荒木に、次に神田に詣でて帰り、次に矢島の三十五日忌に。次に仲井に詣でる。次に夕方、木梨へ、増田製粉の焼麦、鶏の餌にと頂くに至るも九分九厘まで炭なり。鶏も食べまい。
 薄暗くなって白崎あい女入り来たる。家は丸焼け、着の身着のままの憐れさなるも、金には不自由なきも真に困って居られる様なり。米田は皆、西川へ移って居ると。義子は故三郎氏の祥月なればと、玉子一個で握りずしして御供えして、共に薬石頂く。白崎もとてもとても喜びたり。不在中に宝満寺が尋ねて下されたと。寺は無事であったと。過去帳書いたり色々したので、中村仙太郎氏は百円と別に十円も志納下された。御厚志を謝す。

二十四日
 義子は連日の非常活動に疲れて眠れず。故に早く起きて白崎の為に、御飯炊いて、共に頂き、次に巻きずしを作り、白崎、米田へと幕の内に充分詰め込んで二箱と、他に色々呈上。八時十分頃に早くも大丸へ向かって行かれた。大喜びで。
 自分は割木と芋の葉の乾燥したものを、西へ避難してる谷中氏へ慰問す。彼岸も了り故に回向す。珍しく紅茶を頂く。近頃は紅茶一杯が二円以上の割に付くと。恐ろしいことなり。
 次にポンプの事で小椋より防衛のポンプ引き出す事を頼み。宮本の登志夫君に頼みたるも、途中で断り逃げる。故に一人で裏より入れる。丁度谷中氏が御彼岸の墓詣でに来て居られた故に頼み、下の井戸まで下ろして頂き、義子の意見で水を上へ揚げる。それぞれへ分配したが、谷中氏も途中で行かれたが大きに助かった。
 時に福厳の淡路君来たる。後より神田師も来ると。歓迎す。自分は大丸町の寺垣へ枕経に行く途中、神田師の来るに逢うたが、自分は急行で寺垣に詣で、次に岩橋と片山へ芋の葉を呈上す。先日豆を入れて呈上した上等の茶碗蒸し茶碗を破っている。馬鹿見た。急ぎ帰り神田師より十七日夜半の恐ろしかりし事、今後の事に付きて色々聴く。老僧は近く宗雲寺へ疎開して頂く様にと話す。色々と困った事になる。次に共に昼食頂いて、神田、淡路は二十六日を約して帰り行く。自分は井戸水をポンプで出し、最後を義子に手伝わせて大助かり。上まで揚げる。次にポンプ揚げるに閉口したが、永井氏に助けて頂き、助かる。次に町の納庫に納め、安心す。次に疎開さす品々を義子と二人で一生懸命。時に電燈が付き、ラジオが鳴り出し、嬉しかった。次に又井戸に入り、横腹に水抜き穴を開けるに仲々なり。暗くなり中止にす。腕が痛い痛い。
 薬石了る頃に大橋氏来たる。彼岸の御供え頂く。暫らく話して帰られた故に、喜んだ電燈は再び故障。真っ暗故に、心ならずも床に入る。義子は非常に疲れ、自分で注射して居る。助けになれよと念じてやる。

二十五日
 昨夜来、何となく薄気味悪い。午前一時二十分頃、遠くで警報が鳴りだしたので、防寒を兼ねて身支度す。
 友軍機は頭上を心地悪くグルグル廻る。二時過ぎ解除となる。
 五時に起きて、行事後、壕を掘る。深くなり土を揚げるに骨が折れる。遂に南側黒竹の藪へ落とす事にして大助かり。
 今朝は手先が冷えて疼く。彼岸も過ぎたるに薄氷を見る。でも鶯は盛んに鳴いて居る。白梅も又知章墓の脇、故瓜谷たき老婆より頂いた紅梅も本年初めてとても美しく咲いた、咲いた。決戦下でなくば、申し分なき春なるに、昨今の戦局はなかなか楽観を許さず。
 本年十八日より二十一日に至る間に、敵機動部隊に対し、我が航空部隊の収めた戦果は戦巡六隻に飛行機約六百を藻屑にするという大戦果なるも、我方の尊い犠牲も百五十機以上との事。硫黄島、サイパンを敵に渡した今日、容易ならぬ事なり。各自、天職に向かって頑張れ、頑張れ。
 次に粥座頂く。次に名倉町の田中より骨揚げで詣で来たる。回向了って、次に春日に詣で、次に神田へ蕗の花と鶏の為にはこべ掴み。次に馬糞と破れ草履沢山拾うて帰り、切って馬鈴薯の肥に入れる。
 時に地蔵院様が被害見舞いに来て下された。大丈夫と思った地蔵院も向こう両脇が焼けた為に、納屋と風呂場に火が付いたが、死にもの狂いの努力で消し止めた御陰で、無事なるを得たと。共にお喜び申す。丁度、甘酒が初めて上手く出来たので呈上す。
 次に剃髪す。大非常時で長髪なりしが、とても気持ち良くなる。次に残粥頂いてたら、西宮の山田庄次郎来たる。神戸の被害の大なるに驚いてた。
 次に元長福寺の今井の細君が丸焼けとなり、憐れな姿で来られた。噫々。何とも慰め様もなし。義子は同情して下駄も新しいのを、その他を呈上す。庄次郎は水をバケツ二杯で二回汲んでくれて大助かり。水源は愛久澤内大坪の井戸なり。五、六丁もある。早く水道が出てくれなくては困る。尚下の井戸水を汲み出す事を手伝うて帰る。嬉しく大きに助かった。
 次に大丸町の寺垣の葬式に行く。川崎で軍艦作る方で、四十歳の若盛りなるに。噫々。
 次に寶積に詣で、珍しく煎茶と飴を頂く。真実に田舎で作った飴なり。真に一口なるも珍し。
 次に渡辺に詣で、御供養に純米の寿司頂く。御厚意を謝し、次に首藤さんで増味屋を尋ねたるに、全焼とのこと、噫々。
 次に大坪に詣でる。明泉寺町一帯の命の綱ともいうべき、只一つの流し井戸へ、水汲みに来る男女で大変な賑わいなり。
 次に東原に詣で、帰れば今井の老婆は、はや帰って居られた。テルが居たら、何とか無理云う心積りで来られた様なり。気の毒な方ばかりで困る。
 次に下の井戸に横穴を、昨日来、遂に開けて、水の出る様にする。
 次に薬石頂く。珍しく鯖の切り身、配給あって馳走なり。近頃は隣防で分配故に、世話して下さる方は、なかなか忙しく大変なり。電燈無く、ローソクも不自由。又、夜半の警報を思い、早く床に入る。

二十六日
 珍しく警報は出なかった故に、未だ暗いが、五時に起きて行事抜きで、下の井戸の底に水が溜まる故に、石を運び込み、床を作り、次に棚を作り、瀬戸物の類を納める事にする。
知章様の裏より車で何台か運び、厠の前より落とす。
 やがて粥座頂く。了った所へ福厳神田和尚と細君とで老僧を尋ねて来るも、今尚行方不明には困った事なり。茶菓出して慰め、次に平野の岡部氏を尋ねんとの事に、自分もと支度して、山越えで案内す。石井まで焼跡を見ながら行く。
大伴氏、森下氏は焼残って居る故に、神田師には別れて、自分は大伴の娘の家を尋ねる。
 木下は丸焼け、兄は無事との事に、早々失礼して古藤に至り、無事を喜び、次に楠町に下り、次に小林と水野に、次に香月へ急行す。皆無事を喜び合う。神田師に頂いた弁当を頂く。次に紅茶の馳走になる。重曹と調合したサッカリン百三十目八百円のを半斤求めたという。真実に封印のある品は二千五百円前後の闇相場なりと。近頃は何を聴いても恐ろしい事なり。便所行きの紙、八冊も頂いて失礼。春日野より大阪に向かう。
 十三に下車。森脇氏に詣でる。当家も店も火の海であった中に、不思議に助かったと。共に喜び、又恐ろしかりし夜を語り、失礼。大急ぎで神戸に。今日から山手線に限り、須磨まで開通して、山陽電も長田まで来る様になった故に、明石へと色々思ったが、都合悪く、故に長田に下車す。糀屋も丸焼けなれば甘酒も呑まれなくなった。今朝、甘酒入り焼々を作ったのが、名残となる。次に三田氏を尋ねたるに、十七日の夜の恐ろしさを語られ、須磨駅前の井上医姉の家へ行くとて支度最中なり。でも会式の御供えを頂く。尚立派な飾り籠を頂き、又植木鉢をも下さる由に、夕方を約して失礼。再び焼け野が原の中に光堂寺の門のみ残るを見ながら、田井を尋ねるに幸いに残って居た。お互いの無事なりしを喜ぶ。
 次に妙楽寺を訪ねる。和尚在寺。当夜の恐ろしかりし事を話す。共に無事を喜び、下川に詣でる。父親の家、丸焼けとなり、老婆悲しげに話された故に、香月で頂いて居た紙を呈上す。とても喜ばれた。大急行で無事に帰寺す。
 不在中に米田より風呂釜を運び来てた。栄子も共に田舎へ引き込む由。白崎も文豆を炊いてくれて居たのを頂く。砂糖は無くとも美味しく頂く。次に車に梶棒を作り付けて、薄暗くなって長田前の三田氏へ植木鉢頂きに走り行く。
 純白の角の水盤四、五十円の値いの物を、形見にと下さる。真実に恐縮す。獅子頭付火鉢と植木鉢を沢山に頂いて、御厚意を謝して失礼す。十三夜の春の宵月は焼け野が原を照らし、一入り淋しく恐ろしい様な静けさの道を押したり引っ張ったり大汗で、やっとの事で無事に帰り、やれやれと安心した。三田氏に頂いた鉢だけでも大した値の物なり。義子も水盤を見て大喜びなるも、明日をも知れぬ不安な昨今。花を眺める時節もどうかと思わる。イヤイヤ、是が非でも戦いに勝ち、喜びの日の近からん事を祈る。十七日以来、初めて電燈が付いて、嬉しく薬石頂き、早々乍ら、疲れた故に床に入る。時に九時なり。
 東京の内藤より無事の葉書来たので安心す。

二十七日
 早朝より知章裏の小石を全部、厠の前より下に落とし。次に下の畑の大石をも全部運び、古水貯めに入れる。とても大仕事であった。次に義子に小石のホコリを除き、古井戸内に入れさせる。是も又大仕事なり。
 時に昨日葬式の寺垣より老人が詣で来たる。鳥取の岩井温泉の奥なりと。田舎の方故に、大空襲による神戸全市の焼跡等を見て、恐ろしさに震えて居られたが、昨今は大混雑で、帰る事もならぬ由。噫々。
 自分は古井戸内に運んだ石を平らにして、物を置く様にするも、仲々思う様にならぬ。昨夜三田氏より頂いて来た植木鉢全部入れる。皆立派な品なり。次に老僧と昼食を共に頂く。ムカゴ飯に野蒜味噌和え、南瓜等々で、とても喜ばれた。
 自分は中島に詣で、次に丸焼けとなり、有馬氏へ避難中の芳太郎一家を見舞う。気の毒な事なり。
 次に前田の六七日忌に詣でる。当家も毎日の敵機飛来に恐れ、田舎へ疎開される由。次に帰り、早々、会式の御供えにお鏡を作らんと、餅米を粉に挽く。次に思い掛けなくも南禅寺山内、法皇寺の直山師が罹災見舞いに来て下さる。意外に被害の大なるに只々驚いて居られた。石井さんまで行かれ、帰る早々、薬石を共にする。義子も共に賑やかに頂く。次に尚米の粉挽きながら話し、了って又々話す。廃物利用に付いて、色々参考品をも見せ、床に入りしは十一時過ぎ。愚渓老大師の一周忌なり。

二十八日
 今日は年に一度の会式なるも、古今未曾有の大非常下故に、とてもとても法要はならぬが、せめて御供えだけでもと四時に起きて、静かにボツボツと昨夜挽いた餅米の粉を蒸しながら、色々と支度する。
 次に義子に水取りさして、搗いて、お鏡を作る。腰高のとても見事なお鏡が出来て、嬉しく思う。次に藁の粉と半々位の藁餅をも作る。時に早くも山田氏参詣された。煙草無く、求められた。十円も御供え頂く。又保険の話が出て、頼んでみたが、昨今は、新加入は絶対に断りなるも、何とか頼んでみるとて帰られた。
 次によむぎ団子をも作る。直山師も手伝うて下さる。時に早くも敵機は頭上を旋回して居る。仲々に去らない。後日再襲の為なるか。
 次に直山師は本山よりの罹災見舞いとて、幸大寺に居る恵林寺指して行かれた。本山の老大師と直山へ団子呈上す。
 次に井口さん参詣す。是も淡路の志喜へ疎開する由。
 次に庭の大掃除了る頃に、福厳の神田師は老僧と共に来られた。義子が今日が暫くの最後と、色々馳走を作り、茶の間で三人共に昼食頂く。老僧は久美浜の宗雲寺へ疎開する事になる。義子は名残のお茶を点てて、意を慰める。自分は香盒と蒼官詩集と皇貨二十円を呈上す。御丁寧なる、名残り惜しげな挨拶を何遍となくされるには、共に泣かれた。
 鬼畜米英の為に此の悲しみを見る。何でも早く勝って、再び歓び合う日の近からん事を祈り乍ら、門送す。去り行く老僧の淋しきお姿を見送り、たまらなく悲しくなり、義子も万感こもごも去来して泣いて居た。噫々。元気で暮らされよ。四十年の努力も一夜の中に、水泡と消えた老僧の思いも、只々悲しみに胸痛む夢の跡なきが如き戦いの恐ろしさ、噫々。
 次に思い直して、濱口と岩城に詣で、次に北野の故高木亀太郎氏の一周忌に詣でる。よむぎ団子を藤井、城本へも呈上す。色々御供養頂いて失礼。次に木村氏を訪れて、お互いの無事を喜ぶ。次に御本尊の疎開に付いて相談したるに、土中に暫らく埋めよとの事に、その説に賛成して失礼す。超満員の電車で無事に帰る。
 廣次君が来てた。近く九州へ母を迎えに行く由、頼み置く。
不在中に今朝来られた山田氏は終日がかりで、保険を特別に新加入申し入れを承知さし、書類を取りに来て下された由に、その御厚意を真謝す。
 次によむぎ団子と御供物持って大橋氏を訪れて、わら餅について大いに話す。九時に帰り、疲れた故に早々床に入る。長らく風呂にも這入らず、汗かき、又乾き等々のために、シラミの居るに驚いた。近頃にない事なり。但し風呂屋の土産ならんか。
 義子は痴僧と母へ葉書を出す。先方よりは便りなし。

二十九日
 早朝より壕掘りする。土を放り上げるのが、とても腕に力が入り、キツイ、キツイ。
 未だ六時前後なるに、警報はしきりに鳴る。又々、九州及び四国に大数の大空襲ある由、その他にも侵入して居る情報なり。なかなか大変なり。故に一刻を争うと、大努力で一時間半程に、嬉しや随分と土を掘り出した頃に、義子が粥座の支度出来たとの事に、中止して頂く。
 次に罹災各寺院共、一枚の衣にも不自由して居られる由に、寒の物、法衣等の良い物だけ全部集め、疎開の出来るようにする。
 時に禅昌寺師、石井さんへ来たとて、御見舞下され、共に無事なるを喜ぶ。禅昌寺もとても十七日の夜はきつかったが、山が焼けたので、最早駄目と思ったが、幸いに助かったと。
 時に瓜谷の娘、故母の遺骨を預かってくれとて来る。四人の姉妹が嫁入先全部丸焼けで、母の御遺骨祀る家も無しと。尚又本月二十三日に初産の子供を大騒ぎの最中に死なしたと悲しみ、気の毒で慰めようも無し。
 義子は馳走を作り、共に昼食頂く。次に蕗の花と昨日首藤様より、罹災で焼残った未だ熱熱の味噌を頂いた故に、蕗の薹味噌を作る。次に丸くするために製粉機で挽いて頂く。三時頃までかかる。大助かり。義子は疎開さす茶道具類の大整理してる時に、雨となり、運ぶことは出来ず、中止にする。
 次に大村と田中と寺垣の初七日に詣でる。寺西氏より蜜蜂の話等々、大いにする。近き御成功を祈り、失礼す。次に三木と田中に詣で、小雨ふる夕方に帰る。薬石頂き、次に瓜谷の娘が挽いてくれてた味噌を全部丸き団子にする。義子は痴僧が十二日に出した葉書とその後の手紙とが同時に来たのを読んでくれる。
 神戸大空襲されたに付き、とても心配して居る。近日の中に帰山する様に思わる。昨今の戦局模様では何日何時が解らぬ状況故に、義子にも合わせてやりたく、又てるも帰れば良いがと思うが、とても意のままにはならず、困った事なり。
 瑞龍の老師からも御見舞を頂く。何時も先方より頂いて、真に恐縮する。
 朝鮮の金泉の稲葉様よりも御見舞頂く。福厳寺が丸焼けで、宜睦和尚は宗雲寺へ避難されたなど聴かれなば、さぞ驚かれる事ならん。噫々。
 十時前に床に入りしが、サイレンに目を醒ます。時に十一時半なるに、時刻が悪いと思ったが、三機が三方より飛来して、駒ヶ林方面と思わるる方に、かなりの投弾を耳にして、一寸胸がドキ付いたが、後に続く敵機なかりし為に助かりたり。

三十日
 四時に起きて整理す。近頃は敵機の夜襲盛んなる為に、早く寝て、早く起きる様にしなくては不安と睡眠不足になる。
 次に夜来の小雨も止んで居る故に、壕掘りを続ける。初めに三十回、次に五十回、次に三十回より次第に疲れて、二十回を四、五回続け、大汗で休息して居る時に、山田氏来られた。
 今まで手元不如意の為に、本堂も庫裡も火災保険に加入せずにいたが、いよいよ内地も実戦場化し、福厳寺、福海寺、恵林寺、範国寺、真浄寺、円通寺、廣厳寺を始め、他宗では真光寺を始め、藤の寺等々、全焼となりたるより、急に不安となり、義子も薦めるが、昨今となってはとてもとても新加入は絶対受け付けないとの事なるに、二十八日に山田氏参詣されて、急に話が進み、是が非でもと終日頑張り、三十年来親しくする須磨の離宮西町一丁目四十二、小野政雄社員にすがり、遂に即日二十八日より、丸一ヶ年、本堂に二万円、庫裡に一万円、計三万円の東京火災保険、神戸支店の払込仮領収証を御持参下された。御厚意と労苦に対し、厚く感謝す。百五十円支払う。是で何となく大きに安心した。義子も共に大喜び。次は本尊様を安全地帯に移す事なり。
 義子は又疲れているが、自分は古川の六七日と前田牧場内の矢島に詣で、次に馬場に鶏の餌頼みに行きしが、先日の大空襲には火の雨を浴びた故に恐ろしく、急に夙川へ転宅する事になった由。
 町内の人々は各自の身を守る為に、横穴を誰も彼も掘って居られるが、豆岩故に仲々の労苦なり。禅海和尚は二十年も不断の努力。仲々急には無理なり。でも空襲になれば我が家を遠く離れて、我が身の安全のみを計り、家焼けるにまかすなどは、仕方が無いとはいえ、国家的に不心得とおもうがね~。なにとぞ、なにとぞ此の労苦の無駄に了らんことを祈る。
 次に名倉局へ四通の帳に合計六百円入金す。国家としては現金を手元に置いては弾丸にはならぬ故に、一銭でも貯蓄せよ、貯蓄せよと、とても無理を奨めて居るのに、局では人手不足とて、とてもいやがるのを頼み、頼み、やっと明日午後を約して、仮預けしたが、変な事なり。
 次に山本に詣でる。毎日不安で仏様の御給仕も出来ぬ故に、寺で回向してくれとて、二十円志納下された。次に松本へ至るも、あまりにも憐れな焼跡を見ては這入りかねて、失礼す。次に三田氏に。先晩、植木鉢頂いた御礼を述べ、電車に乗れば宝満寺和尚が。共に無事を喜ぶ。須磨方面は無事と思ったに、大橋を渡るなり、妙法寺川に至るまで、ほとんど焼けて居る。萬福寺も。ライジングサンのタンクも全焼なり。(参照、https://ncode.syosetu.com/n9045ep/
 御離宮まで今日は姿を拝し得ない。恐れ多き事なり。
 次に足立に詣でる。昨日待って居たと。主人は二回目征征の途中、台湾沖で船と共に英霊となられた由。気の毒な事なり。今後、十日に詣でる事を約して失礼。次に白崎の六七日忌に詣でる。当家は無事なるも、電車線の両脇は随分と焼けて居る。実に残念な事なり。長田に下車して、角谷と田井氏の焼跡に至るも、丸焼けで、何処に行かれたのやら。噫々。
 次に正法寺に至るも見知らぬ避難の方のみで。でも寺は無事。裏山の家は皆焼けて居るより、助かったものなり。次に思い直して、再び松本に至る。明日が三十五日忌なるも、仏壇も過去帳も全部焼けて無く、でも不幸中の幸いに、蔵と応接間が残り居る内で、回向して失礼す。豪家なりし家庭も一朝の夢と化す。次に藤田に至るも、皆疎開。主人のみ残る淋しさ。先日、頼んで置いた旧大日堂内陣に張られてあった松板を記念の為に削って頂いたのを頂く。尚昨今掘りつつある壕の内の骨組だけして下さる様にと頼む。次に大橋に詣でて帰る。今日は暇かかりて大汗なり。次に久しぶりに米の家の焼け残りの木を先日運んでくれたので、風呂沸かす。
 夕方に何日かの夜、バスが無く、為に共に話しながら帰った柴山とか云う方より、とても嬉しく思ったのか、玉子豆腐と酒粕の漬物を下された。御厚意を謝す。薬石後、剃髪して気持ち良くなる。義子も四ヶ月ぶりくらいに風呂に入り、とても喜ぶ。
 一寝込みした十一時すぎ頃に、サイレンが鳴る。四国に多数飛来との事に、支度す。随分と広大に各地に飛来すも、頭上には爆音を聴かず。困った事なり。

三十一日
 早朝より相次いで壕掘りせるも、掘った土を下の黒竹の藪に落とし、御本尊を移す場所を浄化せんが為に、茨の根に、ネブリコ、即ち野ニラを掘り取る。その他、色々。次に壕の資材、少々揚げて、次に粥座頂く。時に早々、女乞食の横着ぶりを義子にも話し、今後の心得をする。自分が薄暗い頃から、裏で昨夜風呂沸かした後片付けや、消し炭の整理していると、訪れた来客と思ったら、女乞食で、何と言うても去らないのに閉口した。
 次に牛蒡を本堂裏に保存してたのを、少々腐り始めた故に、全部掘り出し、裏の水槽で洗う。
 時に情報は大編隊の飛来模様ありとの事に、大急ぎで片付け、次にそば粉皆無故に、灰を代用にせんと、灰汁を抜き、晒し、乾してあったのを篩う。立派な粉末になる。カスは葱の肥料に施す。
 時に敵は二機、相次いで頭上より大阪方面に。次に大編隊は高知市及び香川を始め、九州に入り、かなり荒らした模様なるも、神戸は助かった。
 次に曇天朝故に、瀬戸物の類を全部ボツボツと下の古井戸へ運び込む。仲々這入る物なり。午後一時頃に粗方了り、昼食頂く。非常に疲れた故に、一寸と思い休息した。寝過ごし、義子が泥棒猫に戸棚を開けられ、揚げものを取られ、大声で追う声に驚き、眼を醒ませば、早や四時前なるに、残念ながら、名倉局には時間切れとなる。仕方なく、米の配給所に詣で、次に馬場さんに至り、鶏の餌を頼む。唐キビと二月四日、神戸大空襲に増田製粉は全焼。次いで日本精米の火災で焼けた米を。次に乳の缶、善悪二本頂戴したに対し、ビール二本呈上す。ビールも明四月一日より、公定一本二円なるも闇は五、六円なる由。御厚意を謝し帰る。
 尚生まれて二ヶ月半位のヒヨコ五羽、義子がとても欲しがる故に頼む。夙川にあるとの事。でも一羽が十四、五円する由。恐ろしい時代となる。
 旧モンナ池の南岸の山腹に、盛んに横穴を掘って居る。今朝、金谷の細君の話では、病人の主人を安全に避難させようと、福光に頼んで見たら、一穴掘ると四千円とのことに、驚き恐れ、思案に暮れて居られた。
 馬場さんの曰く、名古屋より大阪の市外まで、疎開の荷物運ぶトラック一車が何と一万二千円なりと。恐ろしい時代となる。
 次に裏の松岡で蕗の花を頂く。氏も長田で丸焼けとなり、細君は故郷の丹後へ、氏は若夫婦の元へと。故に上等の茶呑み茶碗五個と牛蒡を呈上す。罹災者となった白崎、薄暗くなって来られ、仏壇も全焼した故に、寺で回向してくれとて、二十円頂く。
 義子は珍しく純白の粥を炊いてた故に、点心をあげる。危ない夜道を伊丹まで帰るは仲々なり。
 自分は雨らしい故に、古井戸に蓋をする。是で瀬戸物類については安心なり。次に薬石頂き、了った頃に山本医久しぶりに来て下された。義子は疲れて閉口して居た所なれば大助かり。山本医も丸焼けで気の毒なり。ビール一本を共に呑みながら、十七日の夜の活動ぶりを。尚昨今の生活ぶりを聴くに、奥様まで田舎へ行き、氏は一人切りでパンと、毎日産んでくれる玉子とで生きて居ると。ヤレヤレ。
 次に蕗の花に野ニラ、蕗の根、ヨムギ、鶏餌のハコベ、古縄等を大整理して、十時半に床に入る。今日は疲れてとてもとてもきつかったが、大仕事が如上の如く出来て、真実に嬉しく思う。

昭和二十年四月一日
 早くも花見月となり、平和な時代ならば、今日から京都は花の都と化し、賑わうのに、大東亜決戦も愈々、益々激しくなり、本土は毎日、敵機の荒れ廻るがままとなり、琉球も遠からず敵手に渡るのでないかと思われる昨今では、花見る気分にもなれず、来る日も来る日も落ち着かぬ不安な毎日の中に、防衛の事にのみ忙しく、明け暮れを送り迎えている。
 昨夜に大整理して置いた故に、早朝より古縄の切った物は馬鈴薯の肥に、蕗の根は畑に植える等、それぞれ配給す。
 粥座後、壕の上の土を、全部、下へ落とす。大仕事を大汗で、次に九時半頃に出て、名倉局で入金した四通の帳を受け取り、次に本日より、手紙は十銭、葉書は五銭になりたるも、切手無く、本局へとの事。本局も丸焼けとなり、志里池国民学校内で事務開始して居るからとの事に、心ならずもお許しを願うて、瑞龍寺老師等へ、御見舞頂いた御礼と被害の状況の粗々を書いた葉書を投入す。済まぬことなり。
 下川の四十九日忌に詣でる。老人夫婦は我が家であったのに、丸焼けとなり、着のみ着のままの憐れな姿で、嘆き悲しんで居られた。噫々。
 次に蓮池運動場と柵内のよむぎを掴む。次に小畑に至るも不在。次に一路、明石の橋爪の四十九日に詣でるも、矢張り大空襲のあった翌日、十八日に全部仕上げをしたとの事。神戸は生き地獄なりしに比して、明石は平和郷であって、同情の薄きに腹立たしささえ感じた。でも細君が俄か作りの点心を頂き、御厚意を有難く頂く。
 次に岩本に詣でる。先日、油を頂いた御礼にビール一本呈上す。昨夕まで一円餘のが今日から二円となる。尚蕗の花に芋の葉等を呈上す。次に垂水の小東に詣で、水引等頂いて、五円入りの包み物作り、青木寺を訪れ、丸焼けとなり避難されてる真浄庵を見舞う。本尊始め、重要書類まで避難させてあった壕の内部まで焼けて申し訳ない事と申されて、聴くも憐れな事なり。旧隠居所を真浄寺として仮住まいされる由、噫々。
 次に西山様を訪れて、福厳老僧の事、明泉寺の事等々、御心配下されたに対し、応答いたし、蕗の花と同じく新芽等を呈上す。代わりに樺太の志須賀より来たニシンの塩漬けを頂いて失礼す。三ノ宮の店は丸焼けとなった由、噫々。
 次に上木に詣でる。次に月見山に下車して、杉本の故老婆の小祥忌に詣でるも、疎開する子供の為に、又藤之寺も丸焼けとなりたる為に、法事も休みなり。蕗の花、乾し芋の葉等々呈上す。大丸町の杉本も丸焼けとなり、裏の家に避難して来て居られる由に見舞うて、岩本で頂いた乾し芋とニシン一疋呈上す。仏壇始め何もかも出し得なかった由、噫々。
 次に危ない電車にやっと乗れて、長田に着けば、七時前。次に中島に詣でて帰る。早々薬石頂く。小豆御飯はとても美味しく頂く。次に及川氏より神戸大空襲を真実に御心配下され、真心こもる御見舞いを頂いた御礼状を義子が。自分は昨夜の野ニラを切り、尚今日掴んだよむぎの整理してたら、十時頃に警報が鳴り、即時休止にして、情報を聴くに、各地に飛来して居る。本日午後、地震の様な音がして神戸市民を驚かせたは、海中に落ちた250キロ弾ならんと思う。仲々油断はならぬ。

二日
 四時に起きてよむぎ整理す。次に人に見られぬ中にと愛久澤へ防空壕用資材を、赤根さんに心配して頂いたのを、頂きに行く。大小九本あって、仲々重い故に、先に二本肩に、次に小車で残り七本を引いて、坂を登るのに、先刻まで春霜でとても冷えたに、今は大汗となる。幸いに無事に本堂の縁まで運び込んで安心す。
 次に粥座頂いて、了る早々、金平町の浜田とて福厳寺の代わりに枕経に行く。十七日、大空襲以来、暫くならんが、乗換券の発行は中止となり、一回に一枚故に注意を要す。
 羽坂通に居た煙草屋の浜田で、丸焼けとなり、避難先での不幸なり。噫々。葬式は三日なり。
 帰途、大橋氏夫婦に逢う。丸焼けとなったが、六日には兄の家に詣でてくれとの事。次に福岡氏来られた。本宅は垂水の清水通りに居ると。焼跡片付けに来たと。今日は又馬鹿に暖かとなり、暑苦しいくらいなり。
 太田に至るも不在。後で聴けば疎開された由。帰り早々薄着となり、大原への途中で、よむぎの上等を沢山に、又土筆をも掴んで行く。敵機の空襲がなくば、世は太平の好時節なるに。
 大原より太田に詣で、帰り早々、義子は赤飯を初めて蒸してくれてた。御供えして残りを頂くに、とても美味しかった。
 次に二階で片付けと整理す。時に白崎が来た。丸焼けとなり、塚口在の西川に世話になって居たが、明四日に節男君の勤務先の寺へ米田と共に行くとの事に、義子は疲れの中にも我慢して、すし作る。白崎に土筆の掃除して頂く。大助かり。自分はいよいよそば粉が禁制品となり、手に入らぬ故に、色々苦心して、灰を晒して代用となし、初めて調合す。非常に調子の好い物となる。何卒々々好結果を顕わさん事を念願す。
 次に馬場さんで頂いた唐キビを何回にも小搗きして大整理す。立派な実となる。キビ団子を作る事が出来る。
 次に白崎と共に名残りの薬石頂く。栄子の来るを待ちたるも遂に姿を見せなんだ故に、丸重に一杯詰めて呈上す。此の丸重は故渡辺ツル母が故久枝(義子の母)の供養にと寄付してくれた物なり。先日は巻きずし入れて、皆で三個呈上す。非常に喜び、疎開して行かれた。
 自分は長浜に詣で、仲井に至るも、二回とも不在であった。次に畑の手入れして、次に真暗になるまで壕の上土を下に落とす。大汗で七時半頃に了る。尚色々片付けして休む。疲れた、疲れた。

三日
 夜半、何回も敵機の特に呉方面を襲うあり。困った事なり。大事に至らねばよいがと念ず。
 五時前に起きて、片付け事して、次に庭の草取りして、鶏の餌にする。次に壕掘り続ける。唐柿掘り出す。今朝はとてもと思った義子は、矢張り起きて粥座の支度してくれた故に、自分の仕事は大きに進み、嬉しく。でも腰が痛み大汗なるも敵の琉球に遂に上陸した事を思えば、残念でとてもとてもぐずぐずはして居られない。
 次に東の段に白唐柿四本植え付ける。時に水道が出だした故に嬉しく、苦心して出す。仲々貯まらない。でも大助かりなり。
 十二時前に出て、三田氏へわけぎと菜っ葉と煮物を呈す。次に一路尻池まで歩行。次に金平町で下車。浜田の葬式に至る。式了って早々失礼す。自動車も無く、リアカーで。送る人は電車で後は徒歩となる。大空襲災害後は特に酷い事になった。次に板宿で、次に山陽に。*?まで十銭が二十銭に改正になって居た。須磨寺に下車。精乳舎に詣でる。当家も大空襲を受けなば、何と処置したものかと、とても心配されてた。
神戸市内十何ヶ所、やられた牧場があったと。
 次に井田に詣でる。当家も十六日に白浜より大阪の空襲跡を見ながら帰った其の夜の出来事で、随分と焼夷弾も落ちたが、多くは海中に。為に助かったが、湊の本家も店も丸焼けになったと。噫々。
 山吹の根と葉を。わけぎも呈上して失礼して、三田に寄る。六日を限り、須磨の井上医師の宅へ行かれる由。姉の嫁入り先では気兼ねするから、今後は失礼するとの事。気の毒に思った。
 次に宮本に詣でたが、皆疎開して空家の様であった。帰り早々、再び壕掘り続ける。
 義子は土筆めしを炊いてくれた。初めてでとても美味しかった。三月三日、御節句の馳走として相応しい馳走なるも、大非常時とて雛祭りも出来ず。只心から御供えのみする、女心のやさしさに胸せまる思いがした。
 痴僧は無事なるも、テルよりは何の便りもなく心配す。夜は机の引き出しの大整理して十時に床に入る。

四日
 幸いに警報は出なかったが、連日無理と頑張りが続く為か、小便の道が非常に痛み、心配す。全身の節々まで痛む上に、昨夜、台所の柱に右の目にかけて顔を打ち付けて、血が出た様に思われて、恐ろしく痛かった。大空襲ともならば充分に注意を要す。
 自分は丹下左膳の様に有馬の若人と共に、竹槍特攻隊に出陣する夢を見た。白衣姿は特に人目を引き、自分も悲壮な覚悟で、しかも落ち着いた気持ちを嬉しく思うたは夢なりしが、戦いは愈々益々急になった。昨今、早晩、今現に見る琉球の有様が本土にも現出するのでないかと思わる。其の時こそは真実に夢で見た姿で、敵に向かいたいと思う。
 外はとても風が強いが、温度は暖かなり。五時に起きたるも、静かに降る雨の為に、壕掘りは中止なり。義子は又悪寒がして起き得ず、粥座の前後に鶏の餌、色々粉にする。次に人間様の為に、豆の粉作り、次に米の粉を挽いて、次に蕗の花を、次に大空襲に焼けた味噌を配給されたが、粉麦が堅くて、何とも仕方なく、同じく挽いて蕗の花と調合して、蕗味噌作る。十一時まで。
 次に昼食後は上山に詣で、次に本日より空襲後、初めて開通したバスで公園まで。次に市電より下る。お客の中には中野文門和尚の警防団員姿を見受けたるも、大変な人で、言葉かける機会も無く過ぎる。次に北野に登り、高木に藤井で、二十八日(例年の本尊大日如来御開帳のおまつり)の御供え頂く。次に城本で乾雑?子頂く。高価な物を真実に有難く、厚く御礼申す。次に長田よりの帰途、山本医と共に帰る。今朝来の寒さも汗かく。次に再び奥の薬師寺に詣で、里芋と八つ頭の種芋頂く。次に大谷に下り、鶏の為にハコベを掴む。次に中井に至るも矢張り不在なり。次に薬石を義子も共に頂いて、次に先ず午前中に作った蕗味噌を丸い団子にする。九時頃までかかる。次に明朝の為にと、漬けてあった米を団子用に挽き、次によむぎも沢山あったのを、全部挽いて後片付けして床に入るに、早や十時四十分となる。雨は止んで星の寒夜となり、再び炬燵する。
 桜が咲き初めたるに、何と不順な事よ。鬼畜米の餓鬼が遂に琉球に上陸なし。為に皇民の苦心を思えば、とてもとても安眠は出来ない、噫々。何とか好転する様に一入り皇軍の御奮闘と武運の長久ならんことを祈る。

五日
 五時前に起きて、団子作る。義子が病の為に、一人で搗いたが、今までにない不出来なるも仕方なし。でも矢張り美味しく頂く。  
 九時頃より山越えで松本に向かう。途中、神有線井口の家の前の桜は六分咲きで、その美観は実に素晴らしい事なるも、又もや冴え返る寒さに震えて居る。心配しながら至る松本は幸いに無事で、回向後共に語り、失礼して公園に下り、今日は税関前まで行く様になり、大助かり。次に初めて谷口を尋ねて至る。兄の家は丸焼けの上に、娘は病死、気の毒なり。次に深江に下車。浜田で聴いた通り、長濱別荘内の山口氏を尋ねたるに、なかなか知れなかったが、色々して遂に尋ね当てたるは、*道内森市場の山手なり。主人賢太郎氏は二月の十四日に死去されてた。羽坂通りの本宅も糸商も丸焼けとなりし由、気の毒な事なり、二十八日の御供え頂いて失礼。
 次に芦屋の大西へ今朝作った団子を呈上す。とてもとても喜ばれた。此の付近も近く大空襲を受けるとて、荷物を他に移すなど、大変なりと。大西も何とかしたいが、トラック一台が二、三千円に付くし、預ける知り合いも無く、仕方が無いと申されてた。困った事なり。
 次に西宮にて山田を訪れて、庄次郎の初子勇へ安産祝として五円呈上す。
 次に立花に至る。十五銭なりしが二十銭になって居た。吉田で主人と話す。鉄カブトの残金五円払う。自分は十五円で頂いたが、昨今は馬鹿な値段になって居ると。
 やがて駅へ走り付きたるも五時十五分過ぎて、七時まで乗車券は売らぬ由に困り、是非なく国電に乗らんと大島に向かう。仲々遠い遠い。幸いに乗れて岩屋まで。次に脇の浜で山内の焼跡を見る。実に惨たるものなり。今は長浜に行かれたが、平八郎君、その後如何にや。
 そごう前からも幸いに乗れたが、時刻故に各停留所共、山の様な人で大変なり。長田に下車。片山町の福厳檀の生駒に初めて詣でる。此の辺は未だ電燈も水道も出ず、困って居られる。暫らく話して失礼。丸焼けの山本医の跡あたりは方角も取れぬ位、淋しい恐ろしい様なり。三軒は明日の事にして、七時頃に帰る。義子は色々馳走して待ってくれてた。大空腹なりし為に、とても美味しく頂く。非常に疲れた故に九時過ぎに床に入る。義子も今日は少々楽であったと。

六日
 午前一時前後に敵機の飛来あり。四十九機と義子は聴いて驚き、早々支度したが、二、三機であったが山手遠くに五、六個投弾した。
 今朝の新聞で自分に限らず、一億国民に大なる不安の念を起こさしめたは小磯内閣の総辞職と沖縄の戦い愈々不利はどうする事もならぬか、噫々。でも悲観は大禁物。自分だけでも頑張り続けねばならん。それには惜しからぬ命も皇土を守る為には馬鹿死には出来ぬ。最後まで生き延び、真実に死守するには、お互いの色身こそ大切なりと、未だ薄暗い頃より壕掘りを続ける。心配してたが義子も気を張りてか、粥座の支度してくれた故に大助かり。朝食頂き、次に庭の椿が美しく咲いた故に、金谷の主人へ呈上す。愈々長い病人と入学以前の子供とはらみ婦人はお上の命令で、是が非でも近く疎開せねばならぬ事となりたる故に、一入り心配して居られるならん。
 次に大橋の弟さん丸焼けとなり、兄の家に罹災者として避難して来て居られるに詣で、花を呈上す。次に丸山より自転車で下り来たった人が、長田前で小野寺の子供が死んだから回向頼むとの事。承知して次に宮本に詣でる。主人が丸山公園の桜を見ながら、急病で死んだ頃は太平であったに、大非常時の今日は祥月でも空家なり。
 次に再び出て西隆一郎氏と共に、次に久しぶりに内尾祖山氏と焼跡を初めて見る氏の驚き。長らく病んで今日初めて外出したと。
 次に小野寺に至る。可愛い男の子なり。病人なりしが大空襲、火災の最中を肩に負い、避難し廻った為に、遂に死んだとの事、噫々。当家の主人公は恐れて田舎へ皆避難され、後は焼け出されの方のみ四人程で一家をなして居ると、噫々、気の毒な事なり。
 次に電車には当分の間、乗車券は発売中止との事に、高取道ならばと神有に至るも不安な思いをしながら、現丸山駅で久しく待つ。幸いに来た車は止まり。四、五人降りた故に、無理から乗る。丸山付近の桜は早や七、八分も咲いて居るのに、奥へ行くほど遅れて堅い固い。
 無事に有馬に入り、音羽に至る。入口に国旗が出てた。所の宜しきを得て、一入り有難く美しく感じた。回向了って主人より音羽花壇焼跡等の事に付いて聴く。花壇の後を引き受けてくれてた方は不幸にも直撃弾の為に即死され、自分の身代りになって下されたと思います、等々。でも島崎氏は運の強い方なりと、お喜び申す。
 今日は親類の若人が横須賀へ入団するお祝い日とて紅飯を頂く。入口の国旗と、取次に出てくれたマッサージ服の若人其の人の為にお喜び申して頂く。時に一時前故に失礼す。兵営の前には白衣の勇士総揃いを見受ける。何ぞ慰安会でも催されて居るならん。自分は入浴す。幸いに広々として居る故に、心静かに剃髪する。塩分が強い為か、刀が上手く切れないが、やっと気持ち良くなり、嬉しく此の間三十分で、再び電車で唐櫃まで。次に立派な国道を山田甚一氏へ急ぐ。天気が好く、真に春らしく感じたが、淋しい道なり。
 山田氏は長い病人なりしが、次第に良くなって居たのに、昨今の激変の寒さに、再び弱って居ると、でも自ら火を起こし、大いに歓待して下された。苦しげな中にも大いに話された。今度の空襲で九百近い家が丸焼けとなり、収入の道が皆無となったり、聖徳太子と伊藤博文は日本の二大偉人なり等々、共に語る。次いで政変と戦いの苦闘に付いては悲観を感じない訳にはいかない。
 時に来客あり失礼す。御供え二円頂いて、自分からはヨムギ団子と南瓜の種呈上す。
 四時四十分に失礼して、大池まで大急行す。着して間なしに車は来た。大助かり。次第に恐ろしい超満員となり、鵯越も高取も通過して、長田に停まった故に、三木に詣で、主人より又々悲観説を聴いて不安の思い一入りなりしが、お互いは先ず其の日、其の時まで頑張らねばならぬ、悲観は大禁物なり。次に田中と寺垣に詣でる。両家とも疎開の荷物が早や出来て居る。次に前田牧場の搾り矢島も宮津の牧場に疎開すると。次第に淋しくなる。
 次に川重と古川の四十九日に詣で、七時半頃に帰る。早々薬石頂く。義子はカンゾウ(わすれな草)を蒸して付け味で頂く様にしてた。非常に美味しく頂く。初めてなり。
 今日、痴僧より手紙が来て、大空襲下、とても心配故に、裸乍ら一度是非帰るとの事。十日頃ならんか。お互いに明日の日も不安なれば、義子にも会わせてやりたいものなり。てるも共に帰るか定めし困って居るならん。今日はとても忙しかったが、大片付けがした。

七日
 午前五時前に、警報。身支度してその後の情報を聴いたが、無事通過す。自分は未だ薄暗いが壕掘りを続ける。次第に深くなり、土を上げるに仲々なり。
 義子が朝食の支度してくれた故に、大仕事が出来たが、とても冷えて震える様なり。義子は又々閉口して居る。
 十時前に再び警報が鳴り、今度は大編隊との事に、初めて座敷の障子も外し、本堂内に等々、大急行で支度す。四十機、三十機等々、皆で百機前後とも思われたが、幸か不幸か、皆東の方か、各都市より田舎に分散して神戸上空には飛来せず。大きに助かる。右を聴きながら畑へ馬鈴薯を植える。次に畑の草を全部取る。
 午後は忠魂碑と軍馬碑に詣でる。水菜と可愛い人参とモヤシ、三つ葉、御供えする。桜は未だ四分咲きで、少々寒い、寒い。宮川町四丁目に住む人を案内し、参拝さす。とても喜ばれた。
 帰り早々、再び出て、長田の松本に詣で、水菜とわけぎ、チサに椿の花呈上す。草だんご頂きながら、主人と共に話す。次に金平町に下車して、浜田の初七日に詣で、次に近くの弟の浜田にも詣で、次に将軍通まで全通した電車で、幸いに腰掛けられて行く。途中、中之島の明石や敦見等より来迎寺等々、全部、焼け野が原となって居る。柴氏の家は不思議に助かって居るのが、車内より見えたが、健在なりや、噫々。恐ろしい事なり。 
 香月に詣で、水菜、わけぎ、椿の花を呈上して、次に清水を訪れて、山内の様子を聴いたのに、三人は長浜へ。弟と和子さんは清水にあって、昨今、家を求めて居られる由。八郎君は全快は近く、十五日頃より再び務めに出られる由を聴いて、安心して次に。大混雑の電車にやっと乗れて、無事に長田へ。何となく身体の調子悪い故に、真っ暗な夜道をボツボツ帰る。薬石後、義子と共に、茅原が捨てようとした花の咲いた菜を頂き、整理する。

八日
 第四十回、大詔奉戴日と鈴木貫太郎大将を首班とする新内閣が昨夜十時半に誕生したとの報道にやれやれと安心す。
 小雨降る中で壕掘りを八時まで続ける。今朝は雨の為か、随分と仕事は進む。
 次に思い掛けなく義子は四月八日、釈尊降誕会でよむぎ団子ときび団子を作り
お供えしてた。尚甘茶をも沸かしてくれてた故に、全部へお献茶もなし、椿の花は美しく、決戦下らしい心ばかり乍ら、お花祭りが出来て、嬉しく思った。団子も甘茶も珍しく、とてもおいしかった。
 昨日の空襲は神戸は幸いに助かったが、東京と名古屋へは二百七十機も飛来した由。今までにない初の大編隊なり。神戸も仲々油断はならぬ。
 次に福厳寺檀で中島光太郞氏の息子が去る十七日の空襲に即死。合同葬済ませ、納骨回向してくれと来られた故に回向す。噫々。
 次に出て、宮阪に詣で、椿の花に団子、わけぎをお供えす。お雑炊を供養になる。とても冷えて右手の小指が何時もの通り真っ白になりしが、コンロの火であぶらせて頂き、大助かり。
 桜は満開なるに不順な事なり。次に田中と松田と岡久に詣で、団子お供えす。次に今朝久しぶりに九州のてるより手紙が義子へ来たのに対し、返事を長浜健太郎君へも出す。日曜で休み故に、岡久様に頼み置く。次に財家に詣でて帰れば、思い掛けなくも痴僧が帰って居た。思えば昨年の六月十五日の九州の前垣で、共に薬石頂いて、信太郎君には早や故人となり、痴僧には十六日真夜中の初大空襲を鳥栖駅で受けて以来、初めて見る顔は、思ったより元気で、昨年出征当時より、うんと健康な様なるに、真実に嬉しく思い、積もる話は仲々尽きないが、夜の事にして、痴僧は兵庫駅へ荷物取りに行く。自分は防火の為に取外さねばならぬ本堂の天井板を外す。仲々破らぬ様に取るには骨で、色々苦心してやっと三箇所開ける。
 時に永沢町で丸焼けになった下村が布団を貸せと来るに困り、座布団の大なるを二枚呈上す。同情を求めに来る人の多きには困った事なり。
 天井板外しは中止にして、久しぶりに沸かした風呂に入り、薬石頂く。今晩は安心して嬉しく、義子も元気で、皆共にお互いの無事なりしを喜ぶ。てるは九州前垣で大勢の子供の世話などにこりごりして、帰心矢の如しなるも、何としても乗車券が求められぬ為に、仕方なく残りしと、可哀想に思うが、喜乃も可哀想なり。

九日
 雨止んで居る故に、壕掘り続ける。鴬は盛んに啼いて居る。やがて粥座頂く。痴僧と揃うて頂くは久しぶりなり。次に地蔵院来られて曰く。急に出征する事になったと。十五日に呉に入隊される由。十三日、午後に来てくれとの事。御苦労様なり。共に抹茶頂く。次に痴僧は町会長松野氏始め永井、大橋、長浜、神田等へそれぞれ土産持って、挨拶に行く。自分は昨日に続き、本堂の天井板を外す。防毒マスクを掛けた為に大変に助かったが、大変な埃なり。昼食後も続ける。幸いに電気が使用出来たのと、痴僧が外した板を下へ取り、埃を払うてくれたので大助かり。なお痴僧は下の畳を中央と上下間を残し、全部を挙げて積む、等々。五時頃に小雨降る中を禅昌寺へ挨拶に行く。途中、庄田町の森田の老人が死んだとのことに枕経に行く。本堂だけ天井板、まずまず片付く。大変な大仕事なりしが、板を破壊せずにうまく外したことを喜ぶ。次にいつになく早くぬくめ風呂に入り、天井の埃で金仏さんのようになったのを洗い、大助かり。次に薬石頂く。待てども、待てども、ついに痴僧は帰らず。禅昌寺に泊まったことならん。大空襲後、焼け野が原となった雨の夜道はとても危なくて歩行ができまい。今日の昼食は平戸の米で小豆飯炊いて頂く。とても美味しかった、美味しかった。

十日
 夜中の十二時前に警報が出て次々と六、七隊で先の二機ほどは山手頭上に気味の悪い爆音を夜空に響かせながら飛び去り、他の編隊は各地に飛ぶ。二時過ぎに解除となる。困ったことなり。 
 今朝は雨の為に壕掘りは中止にす。代わりに内の掃除する。痴僧は八時過ぎに帰る。禅昌寺には1メートル二百五十円の割で早十二、三メートルも横穴を掘らせて居られる由。素晴らしい壕が出来るならん。幸いに寄付者がある由。妻君には初めて男の子が安産の由。お喜び申す。自分は安沢に詣でる。今日は高い石段を上るにとても苦痛であった。桜は不順のためにまだ散らずに御英霊を慰めている。雨に清められて一入り花の浄土と化していて、鶯の音も高く平和境なり。これで敵機の飛来さえ無くんばなあ、と思われた。帰るなり痴僧が母より頂いて来た小豆と米の粉で義子は塩味ぜんざい作ってくれたので皆で頂き、次に早々痴僧と共に、徒歩で庄田町の森本の葬式に行く。道々、昨年六月十六日、除隊になって以來、今日に至るまでの身体の調子に付いて話すを聞きながら行く。昨今は元気故に安心と。喜びは皆共に同じ。やがて式も無事に了って、早々に失礼して痴僧は小畠等々に。
 自分は須磨へ。途中、大橋の橋上で宝満寺に逢う。帰雲院和尚他界近しと、嗚呼。福厳老僧も山内各寺を訪問された由。早く宗雲寺へ行かれると良いにと思った。やがて須磨駅前の足立に詣でる。主人台湾沖で英霊となられた由。今日初めて詣でる。嗚呼。
 次に一路、市電に乗れば髭の将軍が自分に敬礼され、迎えられるがままに席を同じゅうして話すに、その人は滝川中学の剣道その他の先生で、阿久津大尉と申す方なり。故安沢氏の話など色々する。次に楠町に近付く頃に米田節男君の父西川老人に逢う。今日、お寺に訪れ様と思ったに、雨の為に失礼したと。次に平野線は今尚不通故に徒歩で吉田に詣で、空襲火災お見舞申す。隣家まで焼けて助かって居られる。十六日が百箇日忌になると。
 次に地蔵院に至る。和尚の申された如く、正面両脇大焼けとなり、寺内も柴納屋が焼けて、他は無事。真実に奇跡的なり。共に喜ぶ。平木氏来ておられた。本家は丸焼けになったと。気の毒なり。
 次に瑞竜寺老師に相見。神戸の焼跡に付いて聴くに、岐阜で想うていた以上で、とても非道いと驚いて居られた。
 次に祥福老師も来られ、共に和尚御出征に付いての遂行会の催しに、和尚共四人の中に自分を加えて下されたことを有り難く思う。痴僧が国よりのスルメ最上等品五枚と、皇貨五円お祝い申す。やがて色々御馳走になる。真実の赤飯はアツアツでとても美味しく、昨今の様に物資不足の折りに、真に有り難く思った。雨は静かに降る、降る。でもお互いの無事を喜び乍ら、尚和尚の武運長久ならん事を念じながら失礼するに、先刻、変な音がしたと思ったら、高壁の様な物が道路上に倒れていて驚いた。無事に越えて、真っ暗い雨中、焼け野が原をやっと楠町に至り、幸いに電車に乗れて、腰まで掛けられて安心してたら停電で、昨夜の如きは朝までとの事に、是は大変と徒歩す。神有でもと至るに同じ。仕方無くボツボツ徒歩で帰る。幸いに雨は止み。風は強いが寒くないので大助かりで、九時前に帰る。皆非常に心配してくれてた。

十一日
 午前五時頃に警報が出た。敵機の一部は間もなく気味の悪い音を耳に。やがて浜の方と山の方に投弾した。飛び過ぎて後も、四、五回爆発を聴く。被害がなくば良いがと念ず。
 粥座後、痴僧は自分に代わって壕を掘ってくれる。自分は古い方の壕を壊し始む。時に山田氏来られた。山の畑へ馬鈴薯植えに行くと。切り口に灰を付けてあげる。
 次に空襲に遭い、罹災中に子供を死なした方が、お骨預けに来る。回向して暫く話す。永代として五十円納金下された。
 時に丸焼けとなった林田郵便局は尻池国民学校に移り、小包来て居るが配達出来ぬ故に、今日中に取りに来るべしとの事に、山田氏が一時預けて行かれた自転車で取りに行く。自転車はとても便利なるも、昨今は千円前後とは恐ろしい事なり。
 次に義子は平戸のチヅ子さんが言付けてくれた生乾魚で握り寿司作り、皆共に頂く。大変に美味しかった。
 先刻の小包は痴僧が送った古本なるが、昨日くらいより小包は一切取り扱わない由。いよいよ本土決戦化する準備ならん。
昼食後、痴僧と共に大丸町某家へ葬式に行く。近頃は葬式屋の世話になれず、箱も自分で作り、自転車に乗せて焼場へ、嗚呼。了って痴僧は帰り、自分は吉永に詣でる。神戸の大空襲を恐れ、福岡在より両親が迎えに来て居られた。
 次に西本の百箇日に詣でる。老婆は空襲下こけて腰を痛め、床に有り。次に今朝、敵機の落した爆弾は中之島の電車道に落ちて、為に不通と聴きながらも、幸いに築島行きが来た故に乗る。丁度、新川橋に近い線路上に落ち、復旧工事がやっと出来た所を初乗りする。橋の東側海中等々にも落ちたのか、大勢の人が見ていた。
 やがて柴氏に詣うでる。入江校まで大変な事になって居るのに、柴様の家は何の事もなく助かって居る。中央市場まで避難して、家は丸焼けと思いながら、朝になって帰り見るに、無事なるに真実に神仏の加護に依ると喜ばれた。次に浜脇さんを尋ねたが、丸焼けで、嗚呼。長い病人連れて、猛火の中を何処へ行かれ、無事なるかと心配するも、今暫くは解らない。
 次に故障の電車で坐睡しながら、やっとの事で板宿に至り、山本に詣うでる。ぐるり全部丸焼けの中に、山本は二階を半焼にしたが、助かって居られた。恐ろしかりし夜の話を聴く。避難者は大勢集まり、一升二十七円の米を求め、求災は四、五日前まで続き、閉口したと、嗚呼。
 次に一路、東垂水の上木の四十九日、取り越し回向に行く。帰りは案外楽に乗れて大助かりで帰る。途中、赤根の娘が追いすがり来て、お母さんが死んだ故に、今晩八時頃に詣でくれとの事、嗚呼。大変な事なり。
 帰れば矢坂師が十三日に須磨の英霊の葬式、諷経頼みに来られてた。承知す。義子は水菜を呈上してた。次に痴僧は壕を随分深く掘ってくれた。労を謝しながら薬石頂く。カンゾの馳走はとても美味しかった。ムカゴ飯も。
 次に赤根には痴僧が枕経に。自分は剃髪して風呂に入る。永らく頑張ったが、痴僧が帰ってから、急に疲れてか調子が悪い。

十二日
 早朝より古い壕を壊し始む。板をめがぬ様に、全部外す。昨今、市内で疎開の家は急ぐからとて、警防団の人々が大綱で引き倒し、瓦も何もメチャメチャにして居るが、真実に資材不足の折りなるに、心なき事と思う。
 粥座後は下の井戸へ入れるべき物を運び、本格的に蓋をして、痴僧は土を盛ってくれた。又、水が多量に溜まっているのが心配なり。
 次に自分は赤根に詣でる。葬式は明十三日午前十時よりとの事。次に池田に詣で、二十八日の会式の御供え一円頂く。痴僧の土産を喜んで居られた。次に名倉町の田中に詣でる。近く但馬の田舎へ帰国される由。
 次に三木に。時に先刻来、出ている警報は面白くない故に、早々出て、寺垣に詣でる。当家も近く岩井温泉在へ帰られる由。子供が多くて受け入れの田舎も仲々ならん。健康にて暮らされんことを祈る。
一時頃に帰り、昼食頂いた。今朝来の敵機九編隊は東京に、その他全国的に空襲を受けた模様なり。二時頃には全部解除となる。真実に困った事なるも、昨琉球方面で戦果は仲々好調子なるも、敵の戦意は仲々衰えない。
 次に庭を入念に掃除して、次に糸を日光消毒す。時に魚谷の奥様来たる。
十七日の夜の恐ろしさ、丸焼け後の事ども話された。主人も神田も来る。
 次に十七日に大荷物を持ち込まれた藤田愛之助氏夫婦が取りに来られ、味噌と漬物頂く。義子は気分悪いが、務めて痴僧と共に応接。馳走を作り、魚谷夫婦を慰める。自分は濱口に詣で、丸山に至るに路傍に恐るべき250キロ大爆弾の炸裂した殻が転がしてあった。大変な威力の有る物なり。
 十七日の夜、大地が何回となく震えたのは此の様な物の為であった事を知る。次に黒川に至るも空襲を恐れ、疎開されてた。神有より丸山へ帰る。
 捕虜は仲々大勢なり。神戸が焼土と化した跡を、毎日奴等に見られる事は残念なり。
 桜は満開、花のトンネルなるも、一刻千金の好時節を楽しむ気分にもなれず、村田に至るも細君は箕谷の方へ疎開されてる由。次に時本に詣で、次に丸焼けとなった前田に詣でる。でも箪笥の上に位牌が二つに、ささやか乍らお花とお膳まで供えてあった故に、本尊用にもと大日尊のお札とお供物を置いて帰る。仲井は疎開の様なり。次に神田に詣で、芝居画を見る。
 それよりも嬉しかった事は、皇室の印に付いての説明紙を頂いた事なり。尚台湾のバナナ湯頂いて帰る。魚谷さんは馳走になったと大喜びで夕方に帰られた。
 自分は壕の付近を片付ける。次に薬石頂く。茶碗蒸しは特に嬉しく。大橋氏より頂いた赤のふだん草の味噌和え物は珍しくて美味かった。電灯故障の為に早く床に入る。疲れた、疲れた。

十三日
 十時より赤根の細君の葬式に痴僧と二人で行く。近頃としては珍しく立派に飾られてあった。帰る早々痴僧は庭掃除。自分は畑に肥掛けする。次に中食頂いて、次に山田氏より頂いた中毒性のじゃが芋を大急行で摺り下ろし、了る早々、一路須磨の嶋本ゴム社長の息子が、昨年の五月、ビルマで戦死された英霊が帰られ、葬式に行く。導師は宝満寺で福聚寺、長福寺、矢坂師。了って一路帰寺す。不在中に痴僧は山開の子供の葬式に行ってくれてた。次に痴僧は壕掘り。自分は義子が疲れて床にある故に、薬石の支度す。
 共に頂いて又電灯故障故に早く休む。

十四日
 今日は地蔵院和尚が呉に入隊される日なので、見送らんと八時前に出て、先ず仲井に詣で、次に山越えで急行したが、早先刻出発された由に残念に思ったが、仕方なし。何卒武運長久ならんことを念じ、失礼す。
 次に諏訪山に近ずくに応じ、随分と焼けて居るので、吉田氏を訪れたるに、家内に五箇所も焼夷弾が落下して、すでに大火災にならんとしたのを、消し止めておられた。皆、水の備えがあったお陰なりと。塩屋の東妻さんは県立病院に入院されていたが、とても助からぬ故に、明日退院される由。やれやれと思った。次に門倉氏を視察したが無事。次に兵庫県庁の真実に芯まで焼けて居るのに実に残念に思った。敵機の奴、入念にひつこく投弾した物ならん。平尾氏至るに無事を喜ぶ。十七日の夜、氏の大努力苦戦談を聴く。日露奉天の戦いの生き残り勇士なるも、その夜の恐ろしかった事、化学戦の進んだ事を四十年後に初めて実見された事を。
 次に三ノ宮上の谷口に詣でる。思い掛けなくも、只今福厳老僧が来ておられるとの事。意外に思ったが、先ず三七日忌の回向して、次に老僧に相見す。明泉寺へは二十二日と二十七日と二十八日に来られて、名残の食事をしたのに、其の後、二十箇所以上も訪問されつつ、今日に至ると、長話に閉口した。
 危ない大空襲下なるに、よくもご無事と思った。尚明日は塩屋のベッカ氏を訪れる由に、自分も共にお見舞い申し、尚残る話を聞く事を約して失礼す。
 次に一路金平町の浜田の二七日に。次に庄田町の森本の初七日忌に詣で、お供養頂く。大空腹で嬉しく思った。次に須磨へ転宅された山田為治氏を訪れる。再び迎えられた細君が居られ、主人は馬鈴薯植えに行かれ不在であった。あの立派な仏壇も今は夢と消えて、真に気の毒な事なり。次に長田の松本の四十九日に詣でる。珍しくぜんざいを頂く。砂糖もいよいよ百六十目一斤が百三十円なりと。それで作られたぜんざいの様であった。恐ろしい事ではないか。
 次に倉田の初七日忌に。次に宮本に詣で、夕方に帰る。痴僧は大努力で壕を掘り続け、深さも充分と思われた。その労苦を謝しながら、義子が今日は特に胸痛で寝ても起きても痛む中に我慢して作ってくれた天麩羅で麦粥を頂く。近頃は丸麦の多量に入った配給米なり。風呂を沸かしてくれてた故に、新命(痴僧)の剃髪して、次に湯に入る。義子は折角苦中に沸かしながら、入り得ず、絶えず出る咳に苦しみながら、夜は更ける、嗚呼。可哀想に思うが薬も無く、山本医も今日お見舞い下されたが、注射器も薬も無く、話だけして帰られた由。
 東京の内藤より祐治君が手で特に送ってくれる事になって居る薬も未だ着手せず。昨今、個人の小包は一切受け付けない事になった。皇地戦場化の為に。

十五日
 痴僧、丸山の山本医へ初めて義子の薬頂きに、一月以来の勘定に至るも、大空襲に丸焼けとなり全部不明なれば程よく支払うてくれとのことに困ったことなり。
 自分は境内の空地に穴を掘り、増産を計る。次に山口に至る。早や疎開して牛は三頭しか居らない。馬場も夙川へ。愈々淋しくなった。次に芦田で醤油味の片栗を頂く。砂糖どころか醤油も不足で塩味で暮らしていると。吉田も疎開した。中村に詣で、次に石原で細君より町内の役の苦労に付いて話されるを聞く。気の毒なり。
 帰り、昼食頂くなり再び出て、一路塩屋に至る。登り口に赤十字の自動車が止まっていた故に、途中でよむぎを掴む。時に先着の筈の福厳老僧が登って来られた。とても息苦しげなり。中島医に見て頂いたら、腎臓病がとても進んで居るとの事、嗚呼。色々話しながらボツボツ登るに、昨日が旧三月三日節句で、丁度桜は山に桃と梨は畑に、真に桃源郷を見ながら、四時半に迎えられて大応接に這入る。主人ベッカ氏は丁寧な挨拶後、大いに心良く話された。日本語も自由自在故に、昨今相互に苦戦中の琉球に付いて大いに話す。
 次に二階の病室を訪れて見舞う。かなり衰弱して居られるが、喜び色々話された。自分も力強く楽天主義で気を転じ、病気を追い払うて、一日も早く御全快をとお慰め申して失礼す。とても感激されてた。次に回向し了って、病院からの付き添い看護婦と共に、薬石頂いて、老僧は宿られ、自分は失礼す。乗車券さえ手に入らば、途中までお見送りする事を約して、老僧の身を思えば気の毒なり。旧三月四日の月明かりで無事に帰れば、広次君来ていた。
 電灯無く早く床に入る。
山田庄太郎氏来る。庄次郎君入営について。  

十六日
 大東亜戦争を引き起こした悪玉ルーズベルトが急死した。天罰なりと喜んだに、代わりに恐れ多くも宮城の一部と明治神宮全焼の報を聴いて悲しく思ったが、天皇始め、三階下には御無事の由に、限りなく欣びを感ず。
 地蔵院の老婆が兼務住職の件について調印取りに来られた。和尚さんは無事入隊が出来た由。次に痴僧は焼け野が原の大阪で故郷の知人を尋ね、次に南禅寺の老大師に相見する為に行く。次に広次君も二十日頃に、母を迎えがてら、九州に行く由に、テルへ五十円託す。次に自分は大橋氏を畑に訪れて、赤軸の唐ヂサ頂いて帰り、境内入り口等に植える。赤根さんより今日、初七日忌に案内。よむぎ餅の大七個もお供えくだされた。とても美味しく頂く。
 十時半に赤根に詣で、回向後、先日壕の資材頂いたが、不足故に今三、四本頂きたいと頼み置く。次に中村に詣でる。皆疎開されて淋しくなった。次に松本への途中、情報が出たが、早く解除になる。松本より古藤に二十六日の分に詣でる。庭の蜜蜂盛んに活動している。昨年は百四、五十円なりしに本年は一巣千円前後なりと。恐ろしい事ではないか。次に吉田の百箇日に詣でる。途中より東福寺の新命誦経さる。了って帰られた。自分は御供養頂いて、再び徒歩で汗かきながら、宮本等に詣で詣で帰る。心配した義子も先ず先ずなるに安心した。薬石後、大橋氏来られて、子供疎開の件に付いて、安心の道を授ける。満足された。自分は菜っ葉を揃える。十時に床に入る。痴僧は泊まりなり。

十七日
山田庄次郎君が出征する日なれば、八時頃より西の宮に向かう。途中、早くも長田裏で警報が出て、情報は悪い様なるも、心配しながら進行す。思えば先月の今朝、大空襲で今頃も大変であったゆえに、人々の神経はトギッて居て、ラジオの前に立ち止って聴いて居る。
 無事に西の宮に着す。十時に出発す。自分は親類代表で挨拶す。次に忠魂碑に参拝して、大阪へ母親種が同行して、自分等は失礼す。山田家も是で政子の主人と共に三人を送り出し、国家への御奉公が出来て、肩身が広い。
政子の主人の母さんと共に昼食頂く。白鹿酒を頂いて、珍しく酔うてとても歩めず、暫く休む。白鹿も十五円で、闇は百五十円なりと。淋しくなった兄を慰めて、二時に失礼す。
  武庫川には皇土決戦下となった昨今とも思えず、川遊び、太公望の多きに春を思わせるが、電車に乗らんとする乗客に支那のクーリー労働者の多きに驚いた。自分は初めて見る内地の支那クーリー。皆各工場に働く者ならん。
 自分は無事に長田へ。次に名倉町の三木の初月忌に詣でる。次に東原と荒木に詣で、帰れば早夕方なり。痴僧は古川に詣でて帰り、共に薬石頂く。義子は馳走作ってくれてた。痴僧曰く、尋ねて行った知人の息子は丸焼けとなり、早帰国したと。次に南禅院の老大師に相見。大徳の来光寺を訪れて、泊まって戻ったと。次に自分はもつれし糸の整理して休む。

十八日
 午前五時前に早くも警報が出たが、神戸は来らず。昨今、帝国各都市を襲う敵機は日に日に盛んとなる。困った事なり。早何年か前の本月本日、自分が浜口で四十九日の回向中に突然来た敵の一機が神戸を初空襲して、かなりの被害を起こした日なり。その頃には神戸、否、全国がほとんど焦土と化すなど夢にも思わなかったに。又明泉寺の開山忌も自然消滅となる。
 痴僧は境内に骨組みを作る資材を本堂裏縁下より出す様にする。自分は遅れて居る種物を大急ぎで蒔く。水肥も施す。上天気で暖かなり。春蒔くべき物は全部とにかく蒔いた。
 次に痴僧と共に床下より資材を出す。案外立派な物が出て来た故に、大助かりなり。森本より骨揚げて寺詣でに来る。回向す。次に義子は平戸よりのささぎ赤飯炊いて、先師にお供えしてくれて共に頂く。
 午後も大仕事。次に自分は名倉町へ、子供の枕経に行く。先月の昨日、大空襲に丸焼けとなり、避難中の不幸なり。嗚呼。次に山開の初七日に詣で、帰り、壕内より揚げる土を手伝い、下の薮に落とす。時に山阿さん来られた。曰く、名倉市場の前で、岡田という家の一人息子十九歳が今朝勤労奉仕に行き、昼食了った頃、突然門が倒れ、即死された故に、回向に来てくれとの事に、早速に行く。何と気の毒な事よ。家内中泣いて居られた。国家の為にも若人の死は大損害なり。
 次に山阿さんに田中様という方が自分を迎え下さる由に、至る。自分は知らぬが先方はよく知って居られた。東京の店も神戸の宅も丸焼けとなりし由、鳴呼。
 東京、横浜の大被害の模様を聴くに、仲々、大正十三年九月一日の大震災の比でない、焼け野が原なる由。
 時に七時の報道に思い掛けなくも軍艦マーチが鳴るなる。曰く沖縄の戦況愈々好調で、空母5大撃沈、其の他を聴いて、踊り上がらんばかりに嬉しくなり、快談三十分程で失礼す。久しぶりに紅茶を頂く。甘いものは愈々呑めなくなったが、戦勝の暁は呑めるぞ。
 帰る早々先師の好物、福厳寺より頂いた焼け残りの饂飩を作り、お供えして頂く。とてもとても美味しかった。痴僧は壕掘りに大汗なり。大仕事が進行するので、非常に嬉しく思う。
 次に今朝、引き抜いた畑の菜っ葉を三人で大整理す。次に自分は湯に入り、剃髪して、十時過ぎに床に入る。

十九日
 三時前に一、二、三番機の来襲ありたるも、名古屋方面へ飛び去る。曇天は遂に雨となる故に、一生懸命に昨日出した材木等を濡らさぬ様に片付ける。了るなり大降りとなる。好都合であった。故に外の壕は出来ぬ故、内の火床前の空き蔵の仕上げを急ぐ。痴僧が掘り出す土を自分は外へ運びだす。午前中続けて大きに進む。
 中食頂き、了りに近き頃に人の訪ずれあり。自分が出て見るに、思いがけなくもてる帰る。大きな荷物前後に振り分け、思ったよりも元気なるに嬉しく、義子、痴僧も大喜び。先ずは愈々決戦下の昨今、無事にお互いが揃った事を喜ぶ。
 道中、とてもとても大変なりと、前垣も月末には姫路へ引き揚げて来る由。色々と話は仲々尽きないが、再び仕事始む。
 自分は雨中を出て福家に至るも、明日午前中を約す。昨今は死んでも葬具屋も来てくれない。次に三木に至り、先月十七日、大空襲で死なれた細君の葬式に代わる回向す。
 次に向井という家に初めて詣でる。軍属で船と運命を共にされた方なりと、鳴呼。次に岡田に至る。葬式は明日午後一時始めなり。
 帰るなり寒気がして床に入る。近頃にない事なり。夕方、浜口に行く事を思い出し、出かけた所へ、須磨の佐々木氏がこられた。福厳老僧が明日帰国されるから同行してくれとの事。困った事になった。佐々木さんでも老僧の呑気さに閉口して居られる由。とに角明朝行く事にして、自分は浜口に詣でる。無事に帰り、共に薬石頂きながら、明朝、福厳老僧送りは痴僧に御苦労して頂くことにして床に入る。
 皆無事に揃うた為か、一度に疲れが出て苦しむ。

二十日
 自分は身体の調子が悪い上に葬式が二つもある故に、福厳老僧のお供は痴僧にご苦労になる。幸いに雨は止んで居る故に、四時に起きて支度して、七時頃に佐々木家指して行く。
 自分は次から次へと動く。時に神田さん来たり、天婦羅饅頭の様な物を三つ頂く。何と一つが一円五十銭と聴いて驚いたが、砂糖一斤が百円、うどん粉一貫メ八十円、小豆一枡二十円以上、油一枡百円以上の物が集まって出来た物と聴いては無理もないと思ったが、恐ろしく只々呆れるばかりなり。
 十二時前より名倉町の宮本一氏の子供辰一坊の葬式に行く。了って握り飯等のお供養出してくれたが、警報が出た故に、頂いて失礼す。次に岡田に至る。痴僧と同行する筈なりしが、仕方なく自分一人なり。幸いに解除となる。安心して心静かに式了る。県の命令で戦災の跡片付け中の尊い犠牲となられた滝川中学生故に、仲々立派な葬式であった。次に広沢に詣でたるに、主人は軍属として大東亜戦に大活動中、本年一月六日、スラバヤで脳溢血で戦病死された内報が来た由、鳴呼。
 帰れば米田節男氏の父、西川修七十一歳が来られた由。又神例の繁子さん、長らく病気なりしに、遂に死去され、明二十一日に葬式するからと、和子さんがこられた。鳴呼。
 先刻、宮本で頂いた握り飯を三人で頂く。空腹でとても美味しかった。再び出て、初めて木下に詣でる。本寺は丸焼け、行方不明となりし為に、今後頼むとのこと。
次に浜田に詣で、森本に向かう途中、大雨となる。次に阪本、次に蔵田に詣で、主人と娘二人に対して大いに話す。とても喜ばれた。
 七時過ぎに帰り薬石の白粥の美味しかった事。次に三度目大橋に詣でしが、早や、寝んでいた。次に宮本で暫く話して帰る。
 痴僧は遂に帰らず。何処に宿りしや。夜は冷える、冷える。義子は又々咳で閉口して居る。

二十一日
 森本の子供二人で父の為に塗香取りに来る。昨日借りた傘持ち帰ってくれた。故に昆布と山蕗の花を進ぜる。
 次に大橋氏来られた。山蕗呈上す。次に山開に詣で、花を供え、次に小岩井にもほうれん草と山蕗呈上す。老婆は子供と共に信州の戸倉温泉村へ疎開されるので支度で大変なり。金谷へも花を呈上す。老人と病人は疎開せねばならん故に、仲々大変なり。鬼畜米英の為に、皆難儀する。
 てるは神例に詣でる。自分は畑で葱の手入れ等々する。一時頃に出て川池校の横の王鞍という家へ福厳寺の代りに詣でる。先月十七日の大空襲で四人家内の主人一人頭を大怪我されたが、昨日よりボツボツ一人で病院へ行ける様になった位で、七十一の老人と細君子供は次々と死去された。其の苦痛を思えば真実に気の毒なり。回向了って失礼。次に神例に至る。本月六日に繁子さんは死去された由。今日は葬式に代わる法事であった。立派な仏壇なるも、今までなら七、八十円位の物が二千円近く出された由。了って豆の粉のおはぎ頂き、風呂にまで入れて頂く。久しぶりに馳走頂く。
 次に北野の山口に詣でる。何ヶ月ぶりなり。故郷の五島からも、闇闇で都市よりも暮らしにくいと。
 次に夕方帰る早々、再び名倉町の甘利という家の子供が死んだ。枕経に行く。九歳なりと、鳴呼。今晩も痴僧は帰らず。どうして居るのかと心配なり。てるも帰らなかった。自分はムクロ樹の実の数珠を仕立てる。
 
二十二日
 五時過ぎ焚き木を割りながら、裏口でお粥を炊いている時に、頭上遥かに敵機が北へ向かって飛ぶ様な音を耳にして居た時、突然不快な空気と共にザーッという音と共に、恐ろしい爆音と同時に大振動が起こった。敵機の大爆弾投下なり。
 何処なるやと心配の一瞬は通り魔の様に過ぎた。暫くは人は皆飛び出して騒いで居た。其の時、痴僧も驚き大地に伏して、白いトンボを見る様であったと。
 八時半に名倉町の甘利という家の子供の葬式に行く。先刻の爆弾は村野工業高校を中心に投下されて、かなりの被害があった由を聴く。爆風で妙楽寺から下町一帯はガラスが割れ、家が歪んで居たと。
 式了って一路、宝満寺で会合の済門会常会に出頭す。村工付近は仲々の被害で、其の跡を見ようとする人で大変なり。
 宝満寺は南禅山内、帰雲院露山和尚の津送(しんそう・葬儀)に行かれ、不在。本日の要点は大戦災後の寺院の処置や、各所よりの見舞金受け渡し等々。及び仏連の会費二十円。今後も各寺同格に出さねばならぬ由。
 十一時半に散会。次に須磨の林に詣で、長田に帰り、早朝よりの警報は解除、又警報と続き、仲々雲行きが悪い。旧吉岡酒店焼け跡を通る頃より、高射砲は盛り上がり、大空中戦となる故に、焼け残りの長谷川質店の入り口に辿り着いて、身を潜める。時に今朝の様にザーッという音に、さてはと思う間に大音と共に、空気の大振動は大地震の様に揺れた。流石に胸がドキついた。
 東出町かと思われる方面に大噴煙が立ち昇って居た。人々は朝から二回の投弾に、戦いの容易でない事を知り、おののく。
 次に渡辺に、次に宝積に、田中に詣で、岡田に詣で、長らく話して、三時過ぎに帰る。中井ふじ、山内信さんはてると共に来て居られた。自分は再び出て、広沢に花とセリ、ワケギを。次に山阿にも花とワケギ、ホーレン草を呈上す。代わりにマッチの大箱頂く。昨今は一日に七本の割の配給なるに、煙草を呑む人は一日に十二本擦る様なり。マッチはとてもとても大切な物となった。いたくお礼を申し、次に宮本に骨揚げの回向に行き、主人等と大いに話す。帰り早々、お墓の所の畑の手入れしてたら、大変心配してた痴僧が帰って来たので大安心す。薬石頂きながら、福厳老僧を無事に城崎郡豊岡町本町、日下部康太郎氏方へ送り届けてくれた。道順を聴く痴僧なればこそ。自分であったならとても困って居る所であったと思う。てるも義子も皆々是で安心す。次に尚話しながら菜っ葉の整理して、十時ごろに床に入る。

二十三日
 池田の妙楽寺より咋朝の大爆弾で即死された中西の細君の葬式に来てくれと言われたが、自分は石水寺へ行かねばならぬ故に、痴僧のみ行くことにして、自分は失礼して、九時前よりボツボツと山越えで、途中先月十七日夜の大空襲に落とした焼夷弾が至る所に穴を開け、山を焼いて居る。某牧場に。次に中谷に詣でる。珍らしや牛乳を沢山に頂き、大満腹で石水寺に向かう。先刻禅昌寺、福聚寺、上西の養子、棟梁の四人は先に行かれ、自分は一人で峠までの暑い事。大汗なり。下りとなれば汗は入り、涼しくなるも、中々に遠い、遠い。
 大池の付近は山のつつじの花盛りで、山櫻さえ今が見頃の美しさ。やっとの事で石水寺へ、早々点心頂いたら、一時になる。田舎だけに水車で搗いた純日本米の白的はとてもとても美味しかった。次に弔慰三円、香資二円お供えして、二時より式始まる。自分も役僧す。和尚は住職されて三十三年になると、南禅寺僧堂時代は霧海老師の隠侍で外さんとて鳴らした人なり。嗚呼。式了って新忌斎始まる。大導師は禅昌寺なり。若いがなかなか貫禄自ずから備わる。了って斎座頂く。田舎も大非常で白的だけが嬉しく馳走は無し。小餅頂いて持ち帰る。行きと違い、福聚寺、海泉寺と賑やかに。大汗に峠で暫く休む。汗入れて下り、自分は妙法寺より同じく山越えで、途中よむぎ摘みなどして、夕方に帰る。
 石足がみがけて痛む。疲れた、疲れた。妙楽寺へ行った痴僧も帰る。是で安心す。風呂に入り、早々床に入る。

二十四日
 早朝に福厳檀の永尾の老婆が来られた。東出町より垂水に。次に楠町に居たのに。今度の空襲に丸焼けになって、今は西舞子に居ると、嗚呼。気の毒な事なり。七年と十三年忌の回向頼むとの事に福厳代で回向す。尚長らく話して帰られた。
 次に昼食も早々に上木の百ヶ日に。次に野々上に。
 時に敵機の飛来あり。投弾無し、助かる。次に浜田に、次に京春に、次に村田にと大急行で帰り、早々再び出て、名倉町の甘利へ骨揚げ回向に行き、お供養頂く。鈴蘭頂く。次に大急行で丸焼けになった林田郵便局が志里池校に移って居るのへ、内藤より義子へ恵送してくれた注射薬等受け取りに行く。近頃は小包は絶対受け付けないが、長男祐次君が愈々特攻隊で出陣するに付き、最後の記念にと、横須賀より送ってくれた尊い薬なり、嗚呼。
 次に一路湊川に下車、王鞍に詣で、次に大倉山で故障となり下車、徒歩で小林に。次に水野へ二十六日の分に。次に三ノ宮の谷口の四七日忌に詣で。福厳老僧の話す。次に香月まで急行す。パンと茶を頂き元気付き、次に上の春日野で科学知識古本なるも三円なるを、僧侶なればと二円半で求め、次に電車がゴテゴテして早暗くなり、月明かりで八時過ぎに無事に帰る。大空腹でお粥さんがとてもとても美味しかった。
 広次君は九州へ前垣を迎えに行く。今朝、中井ふじ女は未だ宿って居られる。心地が悪い程、暖かなり。昨朝地震あり。今朝もいや晩になるも阪神地下電車車庫の大火で、大空襲と思い違いをして、男女従業員二十余人は防空具を身に巻いて、皆死んで居たと。何と不注意な亊ではないか。
 
二十五日
 痴僧は内の穴蔵仕上げにかかる。自分は山開より一路神例の三七日忌に詣で、薬仙寺和尚に先月十七日の大空襲に丸焼けとなった模様を聴く。有名な絵巻物も消えて失くなったと。本尊様は博物館に出て居るとか。時に頂いたコーヒー茶は一杯五円の割に付くとは恐ろしい事なり。
 次に一路十三に至り、森脇に詣で、老母の遺品二点頂く。昨今、物の不自由な折りとて、一入嬉しく思う。厚く御礼申して失礼。三時頃に帰る。山内信さん来て居た。中食頂くなり浜口の親類になる長田の三角屋が先月十七日空襲に即死された方の檀回向に行く。二人怪我された方は未だ未だ苦しんで居られる。嗚呼。了ってお供養頂く。
 帰る早々再び出て、名倉天神町の新海という家に七十余の老人が死去されて回向に行く。帰りに山口牧場に鶏の餌頼みに行く。当家も牛を愈々減らし、三、四匹しか居ない。次に帰り早々痴僧の手伝いする。穴蔵も仲々なり。薬石後は花の咲いた水菜整理す。義子は元気の無い顔ながら、ボツボツ働いてくれている。甘茶の木二本を知章さんのお墓の前に植えてくれた。ヒゲのようなもの一本一円なり。
 
二十六日
 粥座が了る早々、痴僧、義子も共に下の畑のエンド豆が登る竹を立ててやる。仲々の大仕事なるも、三人共に早く出来たが、本年は非常に出来が悪い。連作の為ならん。次に町会のポンプ借りて来て、下の井戸に溜まる水を全部放り出す。色々の道具を疎開させてある故に、水が溜まっては大困りなり。上の入り口の水槽も、昨日水を入れ替えて気持ちよく美しくなった。
 次に河野の百箇日忌に詣でる。大坪に至るも不在。昼食後、灰や鶏糞、馬糞を肥料に調合す。次に痴僧は内の壕、即ち空き蔵の仕上げに急ぐ。自分は色々と手伝う。
 四時半に中止にして、内藤祐次君が愈々特攻隊として出陣間近と、本人の絶筆を父豊次氏より尚書き添えての手紙が来たに対し、義子が書いた手紙を読んでくれるを聞いて、義子も自分も泣かれた。母の玉女に送る勇めと慰めの文章は一入感激の涙にむせぶ。自分も皇国の為、神仏の加護により、大なる戦果を挙げられんことを念願し奉ると。尚テルも譬え身は犠牲になるとも、何卒大きなお手柄をお立て下さるようにと最後の挨拶書いて同封。投函を兼ねて天神町の
新海に詣で、次に三木の六七日忌に詣でる。早や薄暗くなる。次に甘利の初七日忌に詣で、主人と長らく話しながら茶菓頂き、旧の十五夜位の月を見ながら、九時前に帰る。
 今日も早朝より終日、敵機の飛来で警報が鳴り、ドーキがした。
 
二十七日
 二十二日に来られた中井ふじ女を長田駅までてるは送ってく。自分と痴僧は天神町の新海の葬式に行く。大安養心居士と戒名す。次に痴僧は大坪と中島に詣でる。自分は帰り、早々中食の支度す。時に姫路へ帰る和子さん大きなリュックサック背負うて、中井さんを迎えに来るも、帰った後なり。共に中食頂き、二時頃に帰り行かれた。
 自分は堆肥を馬鈴薯に入れて、尚鶏糞、人糞、馬糞を調合した肥料を入れて、深く土を盛ってやり、終わった頃に福厳寺神田和尚来る。老僧のその後の様子について尋ねに来たと。二十日に無事、豊岡本町の日下部康太郎氏へ送り届けた由を伝える。山田甚一氏を訪問したが、去る六日自分が訪れて以来、又々病は重り、面会は出来なかったと。
 共に長田まで下り、神田は須磨の池田へ、自分は三ノ宮の谷口へ子供の三十五日忌に詣でる。帰途、電車待つ間に、雷鳴と大雨の上に、物凄い乗客で恐ろしい事であったが、無事に長田で下車したら、幸いに雨も止んだ。次に金芳に初めて詣でる。山崎の代わりとなる。
 薄暗くなって帰る。痴僧は穴蔵の手入れ仕事了ったところであった。次に共に薬石頂く。後は痴僧より平戸の軍神志々岐山の話を聴きながら、ホーレン草の根を切る。今日も何回となく警報がなる。
 
二十八日
 痴僧は内の穴蔵上場に早朝より着手す。自分は次から次へと忙しく働く。義子は又調子悪く困っている。午後は中村仙太郎方に来て居た老婆が死去され、回向に。次に浜田と森本に詣で、徒歩で淋しい焼け跡を見ながら、倉田に。次に田中に、次に岩城に疎開した浜口に詣で、薄暗くなって帰る。留守中に慶雲寺和尚来られた由。五月三日に得度式を挙行され、二十二日とかに石水寺の四十九日故に痴僧にと案内を受けた由。
 連日連夜、九州は大空襲が絶えず。困った事なり。神戸は一寸静かなるも、切り無しに警報が鳴るので不安なり。

二十九日

 四時半頃より早くも友軍機が頭上を飛び舞う故に、今日も又何となく不安なり。畏くも天皇陛下には玉体愈々御健やかに四十四回目の天長節を、大決戦下に迎え玉う。申し分なき大自然の好時節なるも、敵機の来襲しきりで心が落ち着かない。
 自分は下の畑で馬鈴薯の手入れして居たら、淡路方面より頭上を北に向かって、四筋の白線を引いて飛ぶあり。あれが何とかならぬものかなあー。
 穴蔵の仕上げを急ぐ。痴僧は未だ敵機の姿を見たことがないと。今日こそ穴蔵が仕上がるのと、天長節を祝して、自分はよむぎ団子を作る。とても好く出来て嬉しく、御供えして自分等も頂く。よむぎを多く入れると代用食にもなる。
 午後は穴蔵の蓋に使用する生煉瓦を四個づつ八個作る。時に岡田さん詣でる。てるは国防婦人時代から心安いとのこと。明日が二七日忌なり。次に宮坂さん来たる。砂糖を一量頂く。一斤が百二、三十円なれば少量でも四、五円程なりと。思えば恐ろしいような。ホーレン草等進ぜる。次に新海内、高木に。次に大村に、次に中村に至る。明日一時より葬式始めてくれと。
 夕方に帰る。痴僧は愈々穴蔵の入り口、立派に出来上がり、掘り出した土は全部入口に引きならし等々、大仕事が片付いて嬉しく思う。薬石が了ったら早や九時前となる。義子は三四日来、胸が痛むので困っている。
 
三十日
 痴僧と二人で愈々穴蔵最後の仕上げする。脚継ぎの為に入れていた馬を出すことを失念したために、何としても出なくなり、流石の痴僧も閉口してた。後日分解でもして出さねばなるまい。
 次に随分手こずって居た痴僧と義子との婚姻届について、痴僧に行ってもらう。是も尚少々ゴテゴテしたが、皇土が焼土と化さんとする大決戦下、何をグズグズ、と押して遂に済ませて帰ってくれ、やれやれと安心す。昭和十六年以来の事が片付いて、皆々安心す。次に中食もそこそこにして、警報も未だ解除にはならないが、中村仙太郎氏宅に疎開して来て居た老婆の葬式に行く。淡路の方で六十五歳になると。無事に式了って失礼。次に痴僧は赤根、谷口、森へ。自分は岡田米屋、宮本、大橋に詣でて帰る。
 痴僧は内の穴蔵が先ず出来上がった故に、次に外の壕を仕上げんと、尚尚深く掘る。御本尊が六尺少々ある故に、恐ろしいほど深くなりつつあり、自分は何かと彼と忙しく働き、よむぎも塵捨て場で良いのを沢山に掴む。
 夕方に赤根に至るも尚不在。次に森に詣でる。壕に使用するかすがい一丁が何と八十銭とは驚いた。今までなら十銭位の物なり。
 薬石頂かんとする時に、尻池の大橋畔に居られ、丸焼けとなられた奥田夫婦が来られた。家は丸焼けになったが、大部分は田舎へ疎開して居た為に大きに助かっていると、十円も御供え頂く。御厚意を謝す。
 薬石後、よむぎの整理する。明日、団子を作り、禅昌寺を訪問せんと思う。義子は相変わらず胸痛んで困って居る。咳が出るときは楽で、咳と痰が止むと胸が痛む。困った事なり。痴僧がデリムライツ求めて来てくれてた。
 昭和二十年四月も大空襲を。本日正十二時前後に痴僧が林田区役所より帰る早々、間も無く、例の通り凄い心地の悪いシャーッという音と共に、大爆弾を投下したが、去る二十二日程には響かなかった。後刻聴けば、三菱を目標に投下したのが、海中に落ちた由に安心す。今までは250キロなるも、今後は500キロも持って来る由。仲仲油断がならぬ。
 林田区も今日を限り、明日からは旧懐かしき長田という名称が重くなり、長田区と変る由。色々の事が片付いて心嬉しく思うも、大東亜決戦は沖縄も未だ未だ明るみを見る所まで行かず、不安は続く。九州は毎日毎日、大連爆で困った事なり。
 広次君が迎えに行っている前垣一家も無事で早く姫路へ引き揚げて来るようにと念ず。