『禅―いまを生きる―』                                    2,
         ――「南無本師釈迦牟尼仏というルーティンを」――


 来たる平成二十八年には我が臨済宗の宗祖臨済義玄禅師一一五〇年、
宗門中興の祖であります白隠禅師二五〇年のご遠諱を迎えます。
そこで改めて両祖師が説かれた教えを学び直したいと思います。
 その前に本師でありますお釈迦様がおよそ二千五百五十年前にお悟りになり、
仏になられましたときに感動と共に叫ばれたお言葉から振り返ってみたいと思います。
「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す。
ただ妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず。」と。これが仏教の原点であります。
 このことを世々代々のすぐれた祖師方が苦修の末、体上に明らかにされて、一代の法を説かれ、
仏法の聖火リレーのように自身が法の松明となられ、次々と伝えられたのが法燈を伝える、伝燈ということであります。
 臨済義玄禅師のお言葉で最も有名なお言葉は「赤肉団上に一無位の真人あり、
常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ、看よ。」であります。
一無位の真人こそ釈尊が叫ばれた「一切衆生、如来の智慧徳相を具有す」と同じことであります。
そこに臨済禅師は御自身のお言葉で独特の表現をもって、同時代の人々に仏の教えの真髄を説かれたのであります。
如来の智慧徳相を具体的にどう表現されたかといいますと、一つは活溌溌地であります。
魚が元気にピチピチ跳ねる様に我々は一人一人に本来備わったいのちの素晴らしさに目覚めて生き生きと生き抜くのだ、
とその特徴とされる熱喝愼拳というような真の慈悲のこもった手段で、自在に相手に応じて接得されたのであります。
 白隠禅師はまた数多くの仮名法語を作られ、民衆教化に腐心されました。
その中でも最も知られ、親しまれておりますのが坐禅和讃であります。
冒頭第一句に衆生本来仏なり、とあります。遠く求むるはかなさよ。の第六句
まではまさに本師釈迦牟尼仏のお言葉「奇なるかな奇なるかな、一切衆生、悉く皆、如来の智慧徳相を具有することを、
ただ妄想執着あるを以ての故に証得せず。」というところを、
水と氷のたとえで江戸時代の一般庶民でも解るように噛み砕いて表現されたのであります。
 このように祖師が代わり、時代が変わりましても、伝えんとされることは、
一つの真実、釈尊のお悟りの「一真実」であります。  
 ところで先日の世界ラグビー大会を見ていて、感心したことがありました。
五郎丸という選手のペナルティー・キックが素晴らしい成功率なのです。
彼がキックする前に行う独特の動作が評判になりました。
その一連の動作をルーティンというそうで、一挙手一投足を毎回、きっちりと行うのです。
ちょっとへっぴり腰で前に丁度、印を結ぶようにして、ゴールを見ないようにする姿はすっかり有名になりました。
このルーティンを行うことによって、彼は緊張を和らげ、それと同時に印を結ぶことによって集中力をたかめているそうなのです。
こうしたルーティンを編み出す為に、それぞれの選手は勝れたメンタル・トレーナーと相談し、
時間をかけて最も自分に合った動作を編み出しているそうです。
 考えて見れば、我々が日日、行っているお勤めや礼拝も立派なルーティンといえます。
 その目的は心の迷いや緊張、こだわりをほぐし、集中力を高めて自己の仏心に常に立帰るためであります。
坐禅はその為の最高のルーティンといえます。
 しかし、吾が寺では坐禅会を月に二回、行っていますが、肝心の檀家さんは一向に来られません。
檀家さん以外の方が熱心に続けておられます。そういう現状に手を拱いて見ているわけには参りません。
 そこで誰にでも出来るルーティンを考えました。檀信徒を問わず、誰でも出来ること、
それは南無本師釈迦牟尼仏と三回、大きな声で称えることです。
お勤めの最後に一斉に、ただし他のお経の時のように、和尚が出だしを称えてから続いて称えるのではなくて
同時に称えるところに特徴があります。
 皆さん慣れて来られまして、和尚の回向が終わると、すぐに一斉に南無本師を称えるのだと、
身構えて居られる気配がよくわかります。
声をそろえて背筋を伸ばして「一真実なものであります」という気構えで叫ぶとき、
檀信徒の声に気迫がこもって来るのを実感します。三回ゆっくりと一回に一息を使い切って朗々と称えるのです。
「今、生きて働いている自己の仏心を信じ切るのだ」という気力が得られ、
その充実と落ち着きはまさに安楽の法門といっても過言ではありません。
 各自、自宅で出来る称名坐禅として実践してみられてはいかがでしょうか。
リラックスと集中のルーティンとして是非取り入れて頂きたいと思います。
なかなか出来ない坐禅よりも出来る坐禅をどうぞ。


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