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「猫背の仏さま」

 近頃は三つのことを皆様にお勧めしております。

一つには、お仏壇を明るくしましょう。お仏壇は仏さま(つまり宇宙の真実、如来、妙法、空、サムシング・グレートなど
色々に呼ばれておりますが)とあの世のご先祖、この世の私どもが交流する最も大切な場所ですから。

 二つには、いっしょに大きな声でお経を誦えましょう。声を胸に響かせるのです。

 三つには、合掌はきちんと高く挙げ、背筋を伸ばしましょう。以上の三つなのです。

始めの頃は、皆さん蚊の鳴くような声でした。恥ずかしい、あほらしい、色んな想いがあったことでしょう。
けれども「いつもよく誦える菩提和讃にも『仏が仏を念ずれば』とあるでしょう。
本来、仏である皆さん方が、仏を念ずるのですから、背筋の伸びた腹から出て来る声は、
これはもう仏の声なんですよ」と励まし続けて来ました。

今では、こちらが気を抜けないほど熱心に誦えられます。これまで私の背中を見ながら、
ぼんやりと猫背で坐っておられたときには感じられなかった喜びと充実感を
味わっておられる様子がこちらに伝わってまいります。

人類が誕生したきっかけは四足から立ち上がって二本足で直立して歩くようになったからだと言われていますね。
両手が歩行から解放されて、多様に使えることになり、道具を使うようになった。
そのことに刺激され、また支えるのに余裕の出来た頭脳の中で、
大脳が異常に発達して、他の生命とは違った、文明・文化を創造する生き方をするようになったのでしょう。
そして宗教も発見しましたが、他を殺し、ときに自分をも殺す脳は用心が必要であります。

ですから人間の本質的な特徴の一つに、直立するということが挙げられます。
ところがそれにしてはおつとめのとき、猫背の人が多い。なんとも暗い姿です。
ところで仏さまに猫背ということがあるでしょうか。
じっさいどこかに猫背の仏さまがおまつりしてありましたら、教えていただきたいものです。
そんな仏像はあり得ません。仏とは言えないからです。

仏さまの姿は人類という直立二足歩行をするようになった生物の姿の内に、
他の生物の頂点に立つかのように、宇宙の真実が肉体化しているということを表しているのです。
そうであれば宇宙の真実の信頼に応えなければなりません。

「私達は苦痛に耐えることは難しいことですが、人間に「自己一人を超えた大いなる生命の根源」に対する「信頼」という智恵があります。
その「信頼」は他なる「神」であっても内なる「仏性」であっても「信頼」には変わりありません。

私たちは、大いなる生命の根底に「信頼」を置くとき大いなる生命に帰入する意義を感じ、
痛みは和らぎ、超えられないことも超えられます。

 私たちは、生きるためには自立を大切にし、世間さまに迷惑をかけない、
すこしでも社会のお役に立てることを第一にいたしますが、
事、死に関しては漠然とご先祖さまの仲間入りする程度の浅薄な認識しか持たないのでは、
自分の人生に対して一番不親切といわなければなりません。不親切だけではなく、
行く末に対する不明瞭は、無益な不安を生み出し、
二度と繰り返すことの無い人生の結論が、出ていないことになります。
結論がないことは、子供や孫にたいして、「他人ではない、私が生きた智恵」がないことになります。

坐禅とは祈りです。勿論、「坐禅とは」、足を組んで坐る、かたちの坐禅にとどまりません。
悲しんだり、悩んだり、苦しんだり、日常全般にわたって今日限りのこの生命を、直視して余所見しない、
「説明したり、飾ったりしない」ことを坐禅というのです。
六祖恵能禅師も「外、一切善悪の境界に向かって心念を起こさざるを坐となす」と示されます。

臨済禅師も「法とは心法なり。心法形無うして十方に通貫す。
眼にあっては見ると言い、耳にあっては聞くと言い、鼻にあっては香をかぎ、
口にあっては談論し、手にあっては執捉し、足にあっては運奔す」としめしておられます。

仏法とは私達の大いなる心の法のことであります。心には形はありませんがこの現実の世界を刻々と新たに生み出しています。
眼から見える世界を、耳から聞こえる世界を、鼻から臭える世界を、口から味わえる世界を、喋る世界を、
身体では感じられる世界を、こころでは思える世界を、まさに天地創造の大事業をなしているのです。

この天地創造の大事業の喜びを、さながらに信頼できることを祈りというのです。
(「どう生きるこの命」曹源寺、原田正道老師・・・菩提心を発(おこ)しましょう
No.8より)

それが本当の“敬虔な”ということです。この世を生きてゆくとき、さまざまな苦しみにめげそうになって、本来の心の輝きが曇って光を失いそうになっても、そのまっただ中から信頼として現在に輝こうとするのが信仰であり、期待としてあの世までも行方を照らし出してくれるのが、いつかは必ず仏にならせて頂けると言う本来の心(仏性)の希望の光であります。

 南無本師釈迦牟尼仏!
  南無本師釈迦牟尼仏!
 南無本師釈迦牟尼仏!