山際素男先生の「破天」を読んで  
                        2001年(平成13年)2月12日記す。
   長坂公一
 2000年12月の半ば、この本、「破天」が、(著者謹呈)で舞い込んできた。
1カ月あまりかかって読み終えた。まず、この私がこの本を、
その著者から直接に送られたご縁の不思議を、誇らしくも思い、心から感謝していること、
そして、これまでは、「さん」付けで通していた私も、
「先生」とお呼びせずにおれなくなっていることを、告白しなければならない。
 
 「破天」のドキュメンタリーを手がかりに、私自身がお育てをいただいた経緯を、整理してみる。

 インド在住の佐々井秀嶺師がナグプール入りされたのは、1968年。
 1970年には、佐々井師は、ボンベイに移り、
数カ月の間、アンベードカル博士の業績について学ばれた。
ガンディーを離れ、アンベードカルを選び取ることが始まったのはそのころ、ということである。

 山際先生は、1959年にインドへ留学。
そして学業をおえると日本へ帰国し、しばらくしてまたインドへ渡られた。
そして、1975年ころ、不可触民の問題に関心を持って、佐々井師を訪ねられた。
それが、両師の出会い初めであったと、後日、山際先生は、
われわれの明慶寺でのご講演の中で話しておられた。

 山際先生によれば、1970年当時、佐々井師には、
「アンベードカルの著作を十分に読破しうる語学力はもちろんなかった」(同書159ページ)。
そして、アンベードカルの「ブッダとそのダンマ」の原本は、初版は1957年の出版であるが、
1974年になってようやく第2版が出ている。
その前後のころが、佐々井師にとっても、山際先生にとっても、アンベードカルに急接近する時期であったろうか。
その時期に、山際先生のほうは、もちろん十分な英語語学力をもって、
とくにアンベードカルのその著書、『ブッダとそのダンマ』の翻訳に肉薄し始められたと、推察できる。
  山際先生は、佐々井師のことを、「15年も前から、インドの民衆仏教徒の中におられた先輩」、
と認めておられるが、前後の状況を察するに、佐々井師がアンベードカルを深く理解するようになるについて、
山際氏の日本語訳が、多いに効力を発揮したと推察することができる。

 したがって私たちは、佐々井師の今日までの偉業は、
インドの最下層民衆の支持あったればこそでもあるが、
半ばは山際先生に支えられて実現したものに違いないと、いうこともできる。
1994年9月には、アンベードカル国際平和賞を佐々井師は受けられた。
ノーベル賞に勝る、意義深い受賞であると見ることができる。その授賞式には、
山際先生も参列しておられる(346ページ)。それは、第6次大菩提寺奪回闘争の最中であった。

私は確信を持って、山際先生の業績もまたノーベル賞に値すると、評価することができる。
別の言い方をすれば、アンベードカル・佐々井秀嶺・山際素男・それを支持した数々のインド仏教徒、
それらの中のだれか1人が単独で偉業を成し遂げたというよりは、
みんなが心をひとつにして各々全力を挙げ、仏教復活の泉を掘り当て、
大道を切り開いた、というふうにも言わねばなるまい。

 私自身は、アナンド作・山際素男訳『不可触民バクハの一日』に出会ったのは、
それより約無10年後、1985年の1月であったが、その年私は、インド仏跡巡拝へを初体験し、
とくに不可触民の問題に強いカルチャー・ショックを受けた。

 1987年3月には、アンベードカル著・山際素男訳『ブッダとそのダンマ』が出た。
私は、部落解放共闘会議の青年たちと輪読会をはじめ、それを読んだ。
 1983年5月15日には、ダナンジャイ・キール著・山際素男訳『アンベードカルの生涯』が出るが、
その直前、同じ年の3月25日に、山際先生は、私たちの寺へ講演に来てくださった。
そして、その時、佐々井師の、ブッダガヤ大菩提寺奪還闘争のビデオを見せて下さった。
テレビ朝日系の全国放送で流されたもので
、1992年の大菩提寺奪還闘争5,000キロ大行進の映像であった。
  私は、山際先生のおかげで、両面からのお宝をいただいた。
ひとつは、私たちの住む日本の国、そしてわれわれが運営してきている寺院、
そして私自身も、ヒンズー教に色濃く染め抜かれているということ、
そのことがはっきり見える眼を持たせていただいたこと。
そうして、もうひとつは、アンベードカルのお孫さんのプラカーシュ氏と
佐々井師をはじめとするインド仏教徒の数々に、直接にお会いできたこと。

私たちは、インド旅行では、山際先生を講師兼引率者にすることもできたはずだったが、
旅行事情に不案内で、それをしなかった。山際先生からいただいた案内状を携えて、
ぶつけ本番で、佐々井師とアンベードカル博士のお孫さん・プラカーシュさんに、面会した。
それがかえって幸いしたかもしれなかった。私たちは、下へ置かぬ手厚い歓迎を受けた。
そして、お互いに、上下もなく、予断も偏見もなく、純粋素朴に、
対等のお付き合いができたのではなかったかと、今にして思う。

 私はおかげで、スレーカ・クンバレー女史にも、面識を得た。
カンシ・ラム氏の英文パンフレットにも、目を通すことができた。
ケンボディーさんは、後日、来日され、われわれの寺へ訪ねて来てくださった。
広島ではボディーダルマさんにも会えた。

 佐々井師はそののち、帰国した私に、長い長いお手紙を送ってくださった。
山際先生の『破天』を読み終わった今では、佐々井師のそのお手紙の貴重さが、
身に響いてをうなずけてくる。おそ撒きながら。
  また、佐々井師は、僧侶がまとう黄色い布も、ケンボディーさんを介して、贈ってくださった。
そのことの重たい意味も、いまさらながら、身に覚えることになった。
 次に、2つ目の宝としては、私は山際先生に、人間社会の差別の構造を見抜く目を、
育てていただいたと、言わねばならない。
 そのような差別構造が、なぜできたのか、それは今もってはっきり説明はつきかねる、
と山際先生は書いておられる。
  「(154ページ)生殺与奪の権は上位カーストに握られ、彼らに反抗すれば村から放逐,
一家諸共の焼き打ち、なぶり殺しの極刑が待っていた。
このような非人間的で無慈悲な社会制度がどのように生まれたのか、今もって明確な説はない。」
  「(154ページ)不可触民がどうして生まれたかについては諸説があり、
農耕社会の変化について行けなかった部族民、
戦いに負け奴隷化された先住民、ブラーミンの女を略奪し、不可触民とされた人々、
農耕社会の周辺に集まったブロークン・メン(ちりじりになった部族民))など
いろいろな要因が重なって生まれてきたものであろうとされる。)」 
 
 そして山際先生は、続ける。
 「(422ページ)<生かして>おけば人のため世のために成る人間を<救う>ことを放棄した
近代的法治社会の宗教とは何なのだろうか。」
 「(192ページ)自宗派をのみ最高、最終的教義として他を否定する仏教者は真の仏教者にあらずという思いは、
彼(佐々井師)の信念となりつつあったのである。」

  山際先生は、その点を、『ブッダとそのダンマ』の(訳者ノート)(431〜432ページ)では、
さらにはっきりと、「一つの「専門家の領域知識」の閉ざされた小さな世界からでは、現代はもはやとらえきれない。
アンベードカルはそのことを時代に先駆けて実践し、実証しようとした人ではないだろうか。」と、記しておられる。
 そしてしかも、立ち上がりさえすれば、だれでもが参加できる仏教復興の運動に関連しては、
「破天」(180ページに)に、「六、その基本となるのは、戒、定、慧、すなわち正しい行動を知慧をもって行う。
禅定はその次であると説く。真実に至る実践を通して心の安らぎももたらされる。
定は単に定を目的とするものではなく、慈悲に基づく実践も定である。
そのことによって仏教徒は真実の団結に目覚め、民衆のために一生を捧げる菩薩行によって仏教はよみがえるのだ。
ただ座って禅定を追求していてはいけない。
 アンベードカル博士は常日頃、『私は座った仏陀像より、立った立像の仏陀像が好きだ』と言っていた。」

 広島県では、地元紙「中国新聞」に、山際素男先生の「破天」の書評が載った。
またその数日後には、佐々井秀嶺師を指導者とするインド仏教徒のブッダガヤ大菩提寺奪還運動が、
紙面の大半を占める大々的な記事で、紹介された。
すでに、私たちの身辺にも、目覚めた同志がたくさん生まれ、立ち上がってきているのである。
共に手をつないで、力強い渦巻となる日も、遠くはないと、確信するのは、私だけではないと、言わねばなるまい。