仏教の発祥地インドにおいて仏教は長い間、衰えていたが。
 インドにおける仏教復興を目指し佐々井秀嶺上人は
ナーガ族の子孫だと信じる人々がすむナグプールで布教を続ける。
 ナガプロジェクト・ナグプール同友会では、
この地での仏教運動の紹介及び支援活動とナグプール体験者の交流運動を行っている。

ナグプールの人口
162万2225人
 
プレートには日本仏教団体から寄贈された「生命の水」と刻まれている。
(社)神戸市青年仏教徒会一行の歓迎集会
ナグプールに掘られた井戸
アンベードカル博士の銅像
未完成当時のインドラ寺でチャイを飲むササイ・バンテジー
 
昭和四十八年(一九七三)

 
社団法人神戸青年仏教徒会(略称JBクラブ)創立の同じ年、一二月に小生は初めてインド仏蹟を感激の中に巡拝させて頂き
ボンベイの日本山妙法寺で酒迎上人からナグプールに佐々井秀嶺という若い日本人僧が言葉もわからないのに、体当たりで布教していると聞いた。
血が騒いで会いたいと思った。
ボンベイの海岸にあるアムベドカルの茶毘所
 一九五六年、昭和三十一年十月に独立インドの初代法務大臣、
不可触民出身のアンベードカル博士が約三十万人の人々と共にヒンドゥー教から仏教に改宗した。
そこがナグプールの改宗広場(ディキシャブーミ)である。同年十二月に博士は急逝。
ボンベイの海岸に遺体を茶毘にふした廟所がある。そこを訪ねて知った訳である。
 翌昭和四十九年、単身、ナグプールへ飛んだ。
半月あまり、佐々井上人が止住しているマナケさんという、地区の仏教会長の家に泊めて頂いた。
上人は牛糞の土間にゴザを敷き、薄い寝袋に寝ていた。毎晩語り明かし、家人を呆れさせた。
 アンベードカル博士没後、わずかに十八年しかたっていない当時のナグプールには、
粗末なはりぼてのような仏像をまつる寺が、二,三ケ寺もあったろうか。
 インドラ地区のお寺などは、ハヌマンの神様がまつってあった上に基礎のレンガを積み始めた頃で、
演説会場になるときにはレンガの赤いほこりでかすむほどであった。
 二十年以上かけてようやく今日、美事な大寺の内外装が完成しているようである。
 お寺こそ少なかったが学校は実に整備されていた。
小学校からカレッジまで、仏教徒たちは博士の信念を継承するために
教育に全精力をそそいで子弟の資質向上を図った。
 博士は教育こそが不可触民の惨めな境遇から脱出できる武器となることを常に説いたので、
彼らは食事を切り詰めても子供を学校にやったのである。今日その成果が現れ、彼らのインド社会への進出ぶりは目ざましいものがある。
 その後、一年おきにナグプールを訪れ、交流を図った。
 
昭和五十七年一月(一九八二)

JBクラブインド仏蹟巡拝団一行十二名、一月一六日から三十一日まで、釈尊の聖地を巡拝し、
ついでナグプール(とは龍の町という意味、まさに龍樹菩薩の故地、南天竜宮城である)市を訪れ、
布教活動十三年目を迎える佐々井上人のお世話で、多くの寺々を巡り、熱烈な歓迎を受けた。
次々と各地区に寺が建立されていたのである。
 このときの楽しい交流の様子、特に浅野正運会員の腹話術が大いに受けたが、ぱどま五号に報告している。
この折りの巡拝と交流の感激が源となって有志が集り、劇団パンタカを結成し、仏連の花まつり市民大会に公演させて頂くことになり、
十年十回の花まつりの祝典劇となるのである。
 帰国後、佐々井上人からJBクラブに釈尊伝映画「ゴータマという男」を寄贈していただけないかという要請が来た。
監督は今年の花まつりの講師、西江孝之氏である。
 映画にはインドロケの際に、サンチーの仏塔で偶然、佐々井上人が百人程の仏教徒に対して説法しているところも撮影されていた。
 JBクラブは英語版を購入し、当時、会員でもあった種智院大学の頼富本宏教授が丁度、密教遺跡調査でナグプールにもたちよるとのことで、
重いフィルムを托し、無事、届けて頂いた。その模様はぱどま六号に報告されている。
 



















昭和五十九年(一九八四)

 神戸市仏教連合会仏蹟巡拝団に参加した。途中JB会員六名を含む有志九名が分かれてナグプール入りした。ぱどま七号に詳しい。
 この旅にはサンTVが同行し「インド、心の旅」として数回放映され、他県の数カ所の放送局でも放映されている。
 先に映画フィルムを贈ったが、映写機が無い!とのことで、
東京の仏教教材会社、パンタカ社の篠原鋭一氏が寄贈される映写機を我々が届けることになり、
サンTVの機材と混ぜて持ち込み、道中ヒヤヒヤしながら無事届けたのも今となっては懐かしい。
 同年一二月ぱどま八号によってブダガヤの全インド比丘サンガ総本山建立資金支援の要請を広く全市全寺院にお願いした。
仏教連合会から五百万円の浄財を預かり、六十一年の二月十九日に当時の矢坂会長らとナグプール入りし、無事届けた。
 しかしブダガヤ大塔の管理委員会の実態が明らかになるにつれ、全インド比丘サンガの上層部の比丘たちの反撥や妨害が相次ぎ、
結局、基礎工事の段階で断念、建設委員長を辞任したことは、お上人は勿論、支援している日本の関係者たちにとって実に痛恨の痛みであった。
お上人からの手紙はすべて保存してあるが、当時の悲痛な長文の手紙は読むのもつらかった。
仏教徒の結婚式の導師をする佐々井上人
 
昭和六十二年十月には神戸新聞の一木記者も同行した。
ナグプール随一のインドラ寺の本尊としてタイ仏教会から寄贈された仏像の
六時間にも及ぶ夜の歓迎市中大行進に参加した。
また弁護士であり上院議員であった故クマレーさんが残したビリー(インドたばこ)工場を経営し、
労働者のための学校を運営し、住宅を建設し、カムティ町の町長でもある三十代の女性指導者、
スレーカ・クマレーさんをインタビューした。
実に聡明な女性で、時間があると父の墓前で坐禅するという彼女の眼差しは観音菩薩のようである。
しかし父ゆずりのうちに秘めた意志の強さは別格で、彼女自身も弁護士であるが、
時にはお上人もたじたじとなるそうである。
まだ、二十代の頃、共和党(仏教徒の組織する政党)が内紛したとき、
彼女はハンガーストライキに入り団結を訴えたという。生命の危険が迫ったので、
佐々井上人が強引にやめさせたという程である。
 ビリーを日に千本巻くと十六ルピーになるという女性労働者たちは、
スレーカのことを「私たちの大黒柱」と呼んでいる。実に魅力的な女性である。
 昭和六十三年、一月遂に佐々井上人は滞印二十二年にして、インド国籍を認められ、
大長老よりアーリア・ナーガルジュナのインド僧名が授けられた。
 
昭和六十三年の秋には
佐々井上人の弟子の一人コブラガレ、僧名ボディー・ダルマが来日し、
岡山の曹源寺で修行を始め、今年で七年目になる。
彼の姿は例年の花まつりに海外留学生の一人として紹介されているので、おなじみとなっている。
 現在、お上人はナグプール近郊の三ヶ所にお寺と学校、無料診療所を建設している。その一つマンサールに建設中のお寺は龍樹寺といい、
すぐ眼の前に龍樹連峰を仰ぐ、絶好の土地である。
 学校は未就学児童のためのもので、発足して三年以上たてば政府の補助が得られるという。
 龍樹菩薩の夢告によってナグプールに入ったお上人は、仏教復興と龍樹菩薩の顕彰の基礎固めをするまでは、
日本に帰らないと決意している。
 現在、最大の活動は世界の仏教徒の問題であるブダガヤ大塔の管理権問題である。
この問題に日本仏教会が無関心なのは驚くべきで、佐々井上人を直接知らないで、
なおかつアンベードカル博士の仏教復興運動を理解しようとしない人々にとっては
単に過激な政治的闘争としてしかうつらないらしい。
 この十二月にはパトナでの二十万人の改宗式の導師を勤め、
第四次大塔管理権要求運動を十二月成道会に向けて行っている。
 このことは各地の仏教徒民衆の目覚めと団結を促し、意識の向上を図るためである。
 ナグプール同友会の活動は、本来、一人でも多くのナグプール体験者を生み出すことにある。
 浄財を集めて支援することも大切ですが、論より証拠、竜宮城に行って頂いて、
お上人の謦咳に接し、民衆の敬虔な姿と一外国僧が捨身で獲ち得た絶大な信頼の強さを
自分の眼でごらんになることは、あなたの心に革命的な衝撃を与えるはずです。
 そしてあなた自身の仏教徒としての何かが変わるのです。
 時間を割いてナグプールへ行って頂きたい。見ればすべて解ります。
















ナーガランドインデックスへ