朝鮮・金剛山登山紀行

世界の奇勝、東洋の名山として聞こゆる朝鮮の金剛山の秋色を探らんと、福厳寺瀧 宜睦和尚と共に玄海を渡り、先ず李朝五百有余年の都、京城は妙心寺別院の花山大義老師を訪れた。当時は満州事変の最中とは言え、夜でも大威張りで夜景の美しさが見られた時代であった。
 翌日、花山老師は遠来の珍客をねぎらう意で、普通では拝観の許されない徳寿宮殿など参観の光栄に浴す。瀧和尚には有資格の衣を、小生には薄茶色の衣を着る様にと出して下された。
 やがて外車の様な立派な車で第一第二第三と次第に関所と門衛の構えの厳重なるに落ち着かない思いをしたが、老師は車内よりの隻手礼、これに対して門衛は目礼や視線を向けての敬礼で通過し、しばらく玉砂利の上を静かに行けば、間もなく初めて車は止まった。
 貴公子の様な二人の若人に丁寧に迎えられ、本奉書一つ折りの記名簿に署名、次いで長い回廊を案内されて行くと、左脇に広い控室あり、中央の大テーブルに向かって燦爛たる金色の椅子が何十脚も、上座には特製の椅子が一脚、背後には立派な大鏡が立つ。この室は参内せし者の暫らく休息する溜まりの控室であるとのこと。初めて見る私は其の豪華なるに恐れ戦く。
 やがて又別の若人に導かれて徳寿殿内に入る。内部は南禅寺などの法堂に彷彿たり。正面須弥壇の位置の上に垂れ下がる天蓋の四隅にはほのかに赤みのさした蓮の蕾が下がって、その下には二脚の椅子が並び、背の当たる膨らんだ処は橙色に白で李王家の紋章が刺繍されてあり、背後の大壁には雌雄の瑞鳥鳳凰が正面に向かいて大きく羽根を広げた光景が精巧な刺繍で描かれ、その色彩の美しく見事なことは例え様も無く、深く印象に残る。大天井には黄色で可愛い丸彫りの竜が渦を巻き、ブラブラと吊り下がって居るのが妙に感じた。
 往時、此の殿閣に金碧燦然たる文武百官が参列成したる李王歴朝の盛観を追懐しながら徳寿殿を降りる。聞くところによると、昔、公式の行事の時には、皇帝は殿内に敷かれた虎の皮三十六枚綴の絨毯を踏んで須弥壇上、即ち王座に着かれたそうである。やがてこの絨毯は天下に誇る李王家の宝で、世界で只一枚と聞く。その訳は虎の皮でさえあれば良いというのではなく、老虎と若虎では毛の艶が違う。また夏と冬では毛に厚薄あり。また長年の間には禿げるような事があってはだめ。誰の目にも一枚の大虎の皮であるように見えるよう綴り合せてあるのが世界に誇る所以であり、李王家に伝わる重宝である。
 虎の国朝鮮とは地続きの白頭山や、加藤清正時代の虎の皮もいずれ合流しているものと思う。年に一度の虫干しと手入れの責任者は神戸元町の牧田の京城支店の主人であるとか。神戸長田の長福寺今井天禄師が筆の跡など、頭に浮かんだが、いわゆるお文庫の方まで深入りすることは許されず、虎の尾を踏む思いで引き下がった。
 所の神さん有り難からずで、今までそれほどにも思わなかった衣の徳と偉大さを今更ながら思うと共に、花山老師のご配慮とご好意を深謝せざるを得なかった。
 ここを出ると開放された様な気分になる。さらに秘苑や総督府、最後に妙心寺別院が新たに創建される霊地、即ち総督府より頂かれた京城の名山北漢山に案内していただく。
この山の位置は京都なら東山の如く、京城を眼下に見る広大な山で、清き流水のあるを私は特に嬉しく思った。川下では鮮婦が心地よげに洗濯していた。
 南に博文寺、北に妙心寺の大伽藍が聳える日の近からん事を念願したが、その後国情は次第に悪化して引揚げの止む無きにいたり、花山老師がその帰路、玄海の藻屑になられようなど、夢にも思わなかったのに、禅門の為にも誠に悲しく惜しい方を亡くし、真に痛惜の極みである。
 逢うは別れの初めなることを知ったのは数年後の事であった。津送は昭和二十年十二月一日、南禅僧堂で島田菊遷老大師の導師で、物資不如意の敗戦下ではあったが、立派な法要で、私は往時を回想し、嗚咽の涙を禁じ得なかった。嗚呼・・・。

  いよいよ金剛山に向かう
 九月三日、午後九時、花山老師に見送られ、京城を出発。金剛山観楓臨時列車で登山口駅に着いたのは、翌朝の午前五時頃であった。早速日本語の話せる強力兼案内人を頼み、身支度も軽く瀧老師は草履、私は黒の運動靴で、これが三日後には足を痛めることになるとも知らず、軽い足取りで百川の渓流と赤松や樅の密林を行く程に、やがて道は左へ、昼なお暗い林道を抜けると、初めて見る長安寺。金剛山四大寺の一つと聞く。
 仏殿内は朝の行事であろうか、梵唄が堂外にも流れ、遂に身は金剛山に来て、異国の仏典法要を拝聴して、身も心も浄化されたかの如く感じた。今からの登山の無事ならんことを念願す。仏殿の前では大勢の労働僧の作務であろうか、車座になって松の実を処理していた。
 幸いな事に天気に恵まれ、朝日は紅葉に色付く山渓を美しく照らし、今日の登山を祝福しているようで嬉しく、朝露を踏んで先へ急ぐと間もなく、右手の渓谷明鏡台へと入るほどに、いよいよ金剛山らしき山の佇まいに心は踊る。正面に一枚の石の立つあり。これ即ち明鏡台にして、地獄の浄玻璃の鏡を意味し、どんな強情な罪人でも、この鏡石の前に立てば、犯した罪の一切が写り、嘘偽りを許さぬと聴いて、老師は別として、私は恐ろしくなり、長く留まることを躊躇した。
 「恐ろしや、恐ろしや明鏡台」広い碧潭を中心に大空へ聳え立つ奇岩には寒熱と風雨に耐えた老松がからみつき、青い空には白雲が流れ、雪舟の唐画も遠く及ばない。後日回顧して、山水と奇勝では明鏡台が随一の景勝であったと思う。只不思議は金剛山でここの渓流に限り、紺碧でなく黄色を帯び、この謎は昔から解けないとか。
 明鏡台を後に尚も渓間を登ると程なく谷は開け、明るいところに達す。左側に古禅窟あり。右近くの山に鏡を嵌め込んだような大巌石あり、表に天拝石と大きく刻み付けてあった。昔、「我正覚を得せずんばこの座を立たず」雪中坐禅して、遂に斃れるまで修行せし僧の遺跡と聴く。坂道を登ると恵まれた今日の天気が仇となり、暑苦しく大汗となる。不行儀にも裸になって、汗を入れながら、朝霧に覆われ、色付く山の美しさを眺めていると、非僧非俗の様な男が出て来たので、「一筆、寺の名称だけでも記念に書いてくれ」と繰り返し頼むけれども、無筆無能を表情に表し、書かないので、私は心ならずも蔑みの念を抱きながら、幽境に心惹かれ、老師はこの静寂の霊境をものにせんと苦吟の様子。
 時に先刻の男がピカピカに磨いた真鍮の天目になみなみと水が注いであるらしく、ボトボト雫を垂らしながら、丁重に両手で捧げて来たので、私らへのサービスかと思ったら、さにあらず静かに仏前に進み、丁寧にお供えしたかと思うが早く、恐ろしい早足で右へ斜めに引き下がり、三拝九拝する様を見て吃驚仰天。裸の我が身が急に恥ずかしくなり、冷汗かいて覚えず襟を正し、改めて私も彼に習い、仏を拝したことを今もなお忘れない。
 たとえ暫くでも彼を蔑んだ我が身が恥ずかしく、人を動かすは文字や言葉にあらず、感化力は常からの行いにある事を見て、仏者たる者の範とすべきであると。この時ほど感じたことはない。後で知るこの堂は霊源庵とて金剛山の開山である霊源禅師のご遺蹟で金剛随一の霊場とは知らなんだ・・・罰当たりめ!

望軍台へ
 霊源庵を少し下ると、右へ渓谷の流れに沿って登ると、山水は瑠璃の如く、山はますます険しく、暫く行くと行く手を阻む断崖に鎖が下がり、また岩肌に沿うて危なげな梯子が造り付けてあり、危険この上もない。老師は恐れ、強力は平気でいるが、私はえらいところへ来たとは思えど、今更弱音は禁物と虚勢を張る。流石に強力は慣れたもので、右手で老師の帯を後ろから捉え、一段一段と吊るし揚げ、いや押し上げて登る怪力に驚く。鬼手仏心、この荒芸が無くては老師の自力ではとてもこの難所を攀じ登ることは出来ないと思った。こんな処へ来ると学者も聖僧もさっぱり価値なしである。
 その後、山根竜峰老師が強力も頼まずに、一人でこの難関を攀じ登る時、懐の紙入れが滑り落ち、急坂を滑り行くのを見て、しまったと思ったが、危険で拾いに行くことならず。幸い着物の襟にも少々縫い込んで居たので、紙入れの方はままよと諦めて、無事に神戸に帰り、数ヶ月経った某日、見知らぬ人、しかも金剛山からの小包を不思議に思いながら開けてみて吃驚、早や忘れていた紙入れが出てきた。中には名刺を入れて居たとはいえ、あの難所でよくも人目に止まり、普通なら猫ババが当然なるに、送り届けてくれた親切と厚意がとても嬉しかったと聴いて、穢を知らぬ山水美の如く、人の心も浄化されるものかと私は先の堂守男の行為と共に、欲も無くへつらいも無き人の心の美しさと思いやりは山の景色と共に嬉しく生涯忘れがたい収穫であった。
 この難関を攀じ登れば馬の背の様な細くて危ない道を行くと、左側、屏風岩に沿うて割木を並べた長い長い桟道があたかも蛇腹の様に見えている。これをあえぎあえぎようやく登りつめた頂きが四望頂、即ち望軍台で、やれやれと思うと心臓が激しく鼓動しているのを感じた。内金剛随一の見所であり、奇勝と誇るだけあって、四望頂の名称に相応しく四方に目障り無く、素晴らしい眺めであり、幾万年の昔から寒暑と風雨にさらされた奇岩と怪石の乱立は例えようがない。特に大砲岩の如きは、高い台の上に砲身を置いた様で、不思議としか表現の言葉もない。いわゆる千岳万峰風雨の声の境地とはこの様な奇観または景勝を言うのであろうか。岩肌にも土の氣はさらに無く、風化によって山骨は白くトゲトゲして居るが、これにからまる樹木は生えることの容易でないことを示している。静かなることは太古の如く、鳥の声だに聴かず。したがって頂上は危険なところであり第一足場が悪い。登山者の望むところではあるが、大勢でワンサワンサと来るところではない。スケールの大なる事と奇勝は日本内地の山では見ることの出来ない、真に天下の壮観であった。

 表訓寺へ
 遠くの谷間より耳に伝わる梵鐘の音は表訓寺で、夕暮れ告げる鐘と聴いて驚いた。陽はまだ高いが早やそんな時刻かと、早々に登りとは反対の裏坂を下る。表桟道の恐ろしさに比して、裏道はそれほどでもなく、大きに助かった。京城では観楓臨時列車と聴いたので、山は定めし賑わうことと思ったのに、此の辺では私達の前後には人影を見ず。
 時に道の右脇に頑丈な線路の腕木のような物が組んである。強力の曰く、これは熊を捕らえる仕掛けであると。聴いて急に恐ろしくなった。間もなく梵鐘に代わって慣れない音が聴こえ、一足ごとに近づくと、道の左脇に貧しげな山家が一軒あり。先刻来の妙音は此の家の土間で朝鮮独特の洗濯物を打つ、いわゆる砧打ちで、初めて聴く砧打ちの音の妙なるを。それから程なく今晩の泊まり家に着いた。
 山では陽も高かったのに、宿に着けば早や薄暗く、勝手の解らぬ山では強力の必要なることを痛切に感じた。この宿は表訓寺の末寺で民宿事業を兼ねて居るようである。昨夜来の寝不足と終日の山歩きで老師もお疲れの様であるが、風呂もなく食事は初めて頂く純朝鮮料理で、何を食べても恐ろしく辛くて、にんにく臭いのに閉口したが、珍しくもあり、腹も空いて居たので、腹八分に頂いたが、腹の虫も初めてのエネルギー資源にビックリしたことであろう。
 やがて明日への疲労回復の為には早く寝るに限ると寝床に入るに、薄い敷物と座布団の少し長い様な物がある限りで、どうも寝心地が悪いが、しばらくすると温突(オンドル)の為に、ホコホコと温かく、「なるほど、これでは布団もいらんわい」とウトウトする中に、いわゆるお客さん虫であろうか、首筋から手首へ襲い来る南京虫でウジウジと痒くて、全身はほてりうむ様な寝苦しさに、初めての山堂の夜半夢結び難いことを体験した。温突の為に、室内の乾燥と喉の渇きに我慢がならず、障子を開けて夜風を入れ、星を眺めて居たが、そのうちに便所に行かんと手探りに至るに、勝手が判らず、変な具合で大まごつき。幸いこと無く、昼の疲れで何時しか夢路に入る。
 翌朝また便所へ行って驚いた。何のことはない、厠の中は恐ろしく広くて、造りは一枚の板の片面を刳り、二枚合わせると穴になる。これが一人分で、十人位は同時に使用できる様になって居るのに吃驚した。昨夜手探りで来て、穴に踏み込みもせず、無事であったことが可笑しいやら、阿呆らしいやら。人に話も出来なかった。
 私は南京虫に攻められ、安眠ならずに鶏鳴に至るに、老師は昼の疲れで白河夜船の高鼾で、迎えた今朝もご機嫌なるに、私は羨ましく不思議にさえ思った。そのくせ首筋や襟元は赤く腫れ上がっているが、さほど苦にもされず、いわゆる慈悲南京虫に及ぶものか。例えにも聖人は愚なるが如しというが、老師こそそのサンプルではあるまいか。私は一滴の血も虫に施す慈悲もなく、夜通し苦しんだことを、むしろ恥ずかしく思った。

 表訓示の朝
 寺は急な流れを隔てた川向うにある。渡るに橋無く、何時の時代か山津波で押し流されて来たものであろうか、恐ろしく大きな石が転々と腰を据えている大石から大石へと板橋が掛けてあるが、下の流れを見ると恐ろしく、足が震える。
此の寺は長安寺に次ぐ大伽藍で、樹木のからむ岩山に囲まれた景勝の霊地で、折よく綺麗な朝鮮法衣を着た長老に逢う。朝陽に照る堂塔伽藍との調和よろしく一入り尊くお見受けしたが、言葉が通じないために挨拶のしようもない。でも表情で心のふれあいが判るか、私らが目礼に対し、柔らかい表情で合掌された。手に素晴らしい念珠を持っておられたのが、今なお眼底に残る。せっかく尊いお方に逢いながら何ら得ることもなく、言葉の不便を痛切に感じ、また来ることもない表訓寺に名残りを惜しみながら下山する。
 正陽寺へ
 瀧老師は詩稿の整理で心忙しく、私は一人で表訓寺の裏の急山道を正陽寺に至る。此の寺には指峰台即ち内金剛の象峰の大小と高低と山の名が一望の下に判るように模型で示してある展望台が設けてあった。足の弱いものは此処へ登るとは限らないとはいえ、金剛一万二千峰の半分も見られまいと思う。それにしても内金剛の千山萬嶽が居ながらにして大観出来る。実に天下の壮観である。堂前の古塔は新羅時代からのもので有名であると聴く。初めて黒衣の雲水に逢ったがチンプンカンプンで言葉の不便さをまたも知る。
 普徳窟に入る
 表訓寺を発つに先立ち、先ず老師に轎すなわち駕を薦める。当時の金で十五円と聞いて、ためらって居られたが、これから昆虚峰を乗り越えて、今晩の宿までの徒歩はご無理と、強いて駕に乗って頂く。駕といっても二本の竹に藤の椅子を縄で縛り付け、腰を掛けるお粗末な物ではあるが、足の弱い者には大きに助かる。私は轎に前後して「表訓寺よ、さようなら」と、流れに沿うて行く程に、右に左に迎え見送る景勝は内金剛随一の見処、萬瀑の渓谷で、色付く紅葉と紺碧の流れ、自然が織り成す秋色の美しさ、流石は天下に誇る渓谷美、はるばる訪ねて来た者を満足させるに余りある。
 突然、大空へ聳える上下二つの香城峰を見上げるに、絶壁の中腹に小鳥の巣箱の様な小閣が今にも落ちそうな格好で臨んでいる。あそこにも修行僧が住んでいると聴いて、おっかなびっくり、好奇心にかられ、登ってみようと老師も駕を下りて、あえぎあえぎ嶮しい急坂を登る。左に見ゆるお堂は恐ろしく長い只一本の柱で支えられて居る。長い芯柱は銅板で巻いてあるらしく、黒く見える。大汗でようやく登り切り、断崖の横道を左へ行くと、小閣の丁度裏側に半ば岩窟の様な処に庫裡があり、修道の僧が迎えてくれた。この僧が手にされる百八念珠の見事なるに目を見張る。訪れる人もなく、百八の煩悩も念珠一筋に心を寄せ、深山幽谷、白雲生ずるところ、自然に生ずる木の実や山芋を食って心身共に清浄な心構えで、山中に暦日なく、不断に法を求めて居られるものと一入り尊い感じがした。
 此処は昔、普徳禅師が金剛全山に仏法を説かれた霊場として重きをなされて居ると聴く。さてこの小閣は庫裡より一段下り、お堂の屋根と庫裡の庭と、すれすれ位だから、須弥壇上である事を示すところに、可愛い九輪の多宝塔が安置されてある。お堂は昔の芝居小屋の櫓の様に、岩から突出した二本の横木を恐ろしく長い一本の柱で支えた上に建てられ、前にのめらないように、丈夫な鎖で後ろへ吊ったように引き付けてあるらしい。堂内は畳二枚位の板敷きで、内陣は古色蒼然たる中に御本尊だけが不思議な事に綺麗にお化粧され、子供の喜ぶお人形の様に思われた。常に鎌倉とか室町時代とか古い仏像を見慣れている目にはほほえましい感じがした。いや、ここに限らず中国台湾などいずれもこの式である。思うに古ぼけた田舎の家を訪れると、老人は身なりを改めて挨拶される様に、住まいは古くとも身なりを改めることは礼儀であり、先方に対し敬意を表する事になる。それと同じ意味であろうか。でもお化粧した仏様では国宝的価値はどうも薄い様に思うが、国情の相違か、それは暫くおいて、私が坐している膝の下に子供の木椀ほどの物が嵌め込んである。
教えられるがままに外して見ると、急に涼しい風が吹き上げてきた。覗いてみると五色に色付く万山の紅葉と万瀑の大渓流が眼下に俯瞰される絶景に吃驚した。仏説に聴く華厳の浄界を生で見る思いがした。これは閣が千年の昔。普徳禅師が金剛全山に仏法を説くために建てられたという。長年の風雨や寒暑にも耐えて今日あるは仏徳の加護であろうか。
 インドのブータンで翼なきものは近寄らない山岳仏舎を写真で見るように、この危険な断崖にこの小閣の在ることは、仙人のような苦修をされる仏者もさることながら、不敬ではあるが、観光的にも金剛山の山景を一段と引き立てる絶好の点景であるともいえる。老師は定めし詩嚢を肥やされたことと思う。
 
 摩訶衍に向かう。 
 萬瀑洞渓を後に進み行くほどに、広々と明るい処に摩訶衍庵あり。大衆的宿泊が出来るようである。山中の大小の伽藍いずれも皆朝鮮芸術の粋を集めて見事である。三韓時代には内外金剛百八ヶ寺の称があったという。当時は鮮内は無論のこと、遠く中国からも巡礼者が絶えなかったという。昔は頂上に登ることを許されもせず、又登った人も無しと聞く。古人は三尺下がって師の影を踏まずと。いわんや山自体を仏と尊ぶ巡礼は仏様の頭上に登るなど思いもよらず、故にここ摩訶衍庵より毘盧の峰を左に伏し拝みながら、虎の棲む恐ろしい内霧在嶺の大森林を称名念仏唱えながら通り抜け、毘盧の山麓なる楡転寺に無事でお詣りが出来たなら、念願成就と手の舞い足の踏む処を知らず、歓喜の涙にむせび泣く人さえあったと聞くが、途中で運悪く虎の餌食になることもままあったとか。日本でも真如親王が天竺へ仏跡巡拝の途中、シンガポールで虎の餌食になられたことは有名な事実で、大東亜戦で一時日本が占領した当時、高野山より桧材を送り、昭和神社を建立しその霊をお祭りされたことがあった。古人は信仰のためには現在の安身よりも未来の安楽と今の心の安らぎを求めて、千里の道も遠しとせず、巡礼されたものと思う。
 それが現在では、元東京の宮城の二重橋を架けた久米某が、金剛山開発の為に私財を投じて京城から長安寺まで登山鉄道を引き、尚前人未踏の毘盧峰乗り越えの山道まで付けられた為に、足の弱い者でも駕に乗れば登れるという幸せな時代になった。
 摩訶衍庵を後に須弥庵に至ると、いよいよ頂上への登山口となり休息所や売店は賑わって居る。これより暫くは昼なお暗い大原始林となる。時に強力はしきりに柏手を打つので、初めはこれより聖山毘盧の峰へ登るに何卒無事ならんことを山の神に祈念するのであろうかと思うと、時々ボトンボトンと何やら落ちるものを拾うてポケットに入れて居る。それは昨日も長安寺で大勢の雲水が車座になって処理していたいわゆる朝鮮五葉の松の実であった。売店では松の実を蜂蜜で加工した菓子を売って居る。
 樹の上では子猫位で真っ黒な怪獣が枝から枝へ走り回っている。栗鼠と聞いて珍しく思った。今まで栗鼠といえば縞模様で可愛い物と思って居たのに、真っ黒でしかも大きい。その後台湾の日月潭でも見たが、此処のと同じ種類らしく真っ黒であった。岐阜の金華山には灰色のが飼育され、人によく馴れて餌をねだる可愛さ、又諏訪の小渕沢付近には純白のが居て、天然記念物になって居ると聞くが、私は未だ見たことがない。いずれにしても大小毛並みなど異なるが、動作の機敏なことには変わりがない。その栗鼠が両手で大きな松の実を抱えて齧って居るとき、突然下からの柏手の音に驚いて逃げる時に落とすのを強力は拾うのである。
 強力はこの実を噛み割り、日本人が落花生を食べるように不断に食べている。一個のチンチロには蜂の子の様に沢山入って居るが、堅くて歯の悪い者や、入れ歯では歯が立たない。油脂が強く腹持ちも良く強壮剤でもあるらしいが、食べ慣れない者には試食程度の物であると思った。神戸の有馬温泉の瑞宝寺入り口に大木があるが、実は金剛山のほど大きくはない。また子供は若松の皮をはいで甘肌をしがんでいる。これも非常に油こくて多少の甘味はあるらしいが、私らが子供の頃にしがんだ砂糖黍のような甘味はあるまいが、山家の子供には慰めになる。なお彼等は裸足で私らが這い登るような急傾斜のところでも、岩の上でも平気で登ったり走り回るのには驚いた。足の裏が吸盤式になっているのかとさえ思う。馴れるということは恐ろしいものである。
 登るに従い、道は急勾配で嶮しく、道という程のものでないが、攀じ登るに従い、眺望は広く雄大さを増す。ようやくにして東国の名山金剛の霊岳毘盧の絶頂に辿り着く。天上天下唯我独尊、お山の大将俺一人と大声で叫びたい気持ちがした。此処は標高1782bで金剛山中、二千峰の最高峰で1万2千の群峰ことごとく眼下にあり。断崖数千尺の脚下に雲煙の起こるを見る展望、実に荘厳雄大にして限りなし。真に天下の偉観であった。
 ヒマラヤ、ネパール、ブータン等の豪快壮絶は夢で見ることにして、身の分限に応じた限りなき満足と喜びを抱き、また来ることの無い毘盧の頂きに名残を惜しみながら、登りとは反対側の外金剛さして下る。途中錦織り成す紅葉を見ながら下るのであるが、亀の甲羅のような一枚岩の傾斜面を歩むに、その巨大さに足が震えた。左の大渓谷には水量豊かな瀧が白布のように落ち、壺からは水煙が盛んに上がっている。この渓流が平らになった処に山家が一軒ある。此処は各渓流が合流する景勝の地で、家の前には松の実が沢山干してあった。採集した実は菓子などの原料になると聴く。付近の紅葉は大きく、西日と吹く風のために、火が燃えているようであった。しばらく渓流を渡渉しながら、下りとなれば駕の足は早くなる。足場が悪くて困っている私を見抜いて、雲助は「一足先に行く。今晩の泊まり宿に着いているから」とのことに、老師の身を心配したが、大丈夫とのことに、従わざるを得ない。そうと決まれば雲助の足の早いのに驚いた。見る見るうちに姿も見えなくなった。観光の好時節なのに自分等以外に人に逢わず、今また篭屋に行かれ、私は強力と二人きりで、なんとなく不安な思いで下る。この辺は玉流洞と称し、内金剛の萬漢洞に対し、外金剛第一の渓谷美を誇って居る。しばらく行くと、突然思いがけない断崖に出た。ここには2本の丸太にお椀のような形に足がかりが刻みつけてあるだけで、手すりも鎖も無い。恐る恐る丸太梯子に抱きつくようにして、やっとの思いで無事に下りたが、肝を冷やすとはこのような時のことを言うのであろうと思った。
 それにしても老師の駕はこの難所をどうして通過したであろうかと、急に心配になる。どうぞ無事であるようにと念じる。思うに少々遠くとも安全な道が他にあるのではあるまいか。それからしばらく行くと左遠くドウドウと山にこだまする大瀑布を見る。すなわち九竜の大瀧なり。先日の豪雨で水量はものすごく、金剛山中第一の瀧の名に相応しく、直下二〇丈とか。九天より白竜の下るが如き感あり。飛沫は霧となり、瀧見茶屋にある私に鳥肌を生ぜしめた。滝壺は蓋のごとく青黒く、付近一帯の岩盤は不断の水勢に磨かれ、つるつるしているようで、危なくて近づくことはできない。この巨瀑に向かって右の絶壁に「弥勒仏」の三字太く大きく約八〇尺の長さで刻まれてある。特に最後に引いた筆跡の見事に長いのに驚いた。四八尺とか、素晴らしい傑作である。これを残した人は、温井里の嶺陽館前で土産物を売る鈴木銀次郎氏が、釈尊誕生2946年を記念して、終生の思い出として彫刻されたものであると聞いた。落下する大瀧と弥勒仏との間の岩の窪みや割れ目に生えた五葉の松など、天に向かって直立している景観は豪快な九竜瀧に一抹の柔らか味を添えている。九竜瀑を三丁程下った処に淵潭橋あり。左へ恐ろしい急坂を、手に汗しながら攀じ登ると頂上よりの眺めは外金剛随一の展望であり、眼下の大渓谷には上八潭と称し、八匹の小竜の棲むお穴が見られるとのことであったが、時間の都合で割愛して、一路神渓寺に向かって下る。
 この間の特に右側の奇岩怪石の乱立は雲に聳え、白雲は紺碧の空に静かに流る。内金剛のような柔らか味は無く、また堂塔伽藍もなしと、すべてが男性的山景である。やがて外金剛の名刹神渓寺に至る。この寺も曹洞禅で、乱立する奇峰と夕陽に映える紅葉は霊境を更に荘厳ならしめている。丁度晩課の行事中であった。朝に坐し、夕べに経を唱え、念仏禅によって仏陀への道を求める雲水は、我が永平寺に似ている。
大雄宝殿前の古塔は金剛山三大古塔の一つで、千数百年前の物で夕陽に照らされ、一
り尊さを増していた。陽は西に沈み、夕闇せまる頃にようやく温井里に着いた。
 ところで昨夜は南京虫で懲り懲りしているのに、またもや朝鮮宿である。老師は無事に先着、やれやれと安心して居られたが、私は我慢がならず、強硬に談判して日本旅館の嶺陽館に替えてもらい、さっそく温泉にも這入り、お蔭で内地の旅館と大して変わりはなかったが、期待した温泉は内湯とはいえ朝鮮式で浅い箱風呂なので、温泉に入った気分にはなれなかった。それでも朝から山歩きの疲れで安らかな夢路に入る。
 
 外金剛を探る
 今日も秋日和に恵まれ、山歩きには特に幸いであった。身も心も軽く、老師は今日も駕で温井里を発ち、外金剛の探勝に向かう。思うに内金剛は望軍台の外は樹木に覆われ、それほどゴツゴツと山骨の露出した山はなく、柔らかく女性的であるのに対し、外金剛は海に近いからでもあろうか、初めからゴツゴツした奇峰が多く、今にも崩れ落ちるかと思うような奇岩の群集で、只々驚異の目を見張るにやぶさかでない。
 中でも千尋の渓谷を脚下に見ながら寿老人の頭の様につるつるの大岩に身を擦り寄せ、足を震わせながら廻る蟻の戸渡りの様な処の恐ろしかったことは今も忘れず。当時は谷底へ吸いこまれる様な錯覚に襲われることがままあった。其の絶対人を寄せ付けない前かがみの花崗岩を石仏と見なしてであろうか、西を向く膝元に丸い穴が二つ刻まれ、雨水が溜まって居るようであった。あの様な危ない恐ろしい処にどうして彫ったものであろうかと思った。古人の信仰と苦闘の跡が偲ばれる。新旧萬物相とか三仙巌とか鬼面巌など、それぞれ其の名の如く見る処と人により、千変万化造化の極みである。トゲトゲとした岩の裂け目や窪に生を求めてからみつく雑木は寒暑風雨に耐え乍ら、今や持ち前の色を競う秋色の美観は生ける南画の山水を見る思いである。
 備中の豪渓を見て、あれほどの傑作を残した雪舟が、この豪壮雄大な奇勝を見たら、それこそ腰を抜かし、筆を投げたであろうと思う。老師は君子危うきに近寄らず、いや、近づけない。しかしながら又来ること難き景勝に心惹かれ、去り難いであろう思いを察し、私は「今から再び毘盧峰に登り、楡転寺を経て明晩帰りますから、老師は心足るまでこの景勝を満喫され、充分に詩嚢を肥やされたならば、宿に帰り休養しながらお待ち下さるように」了解を得て、萬相亭の茶屋でお別れす。
 私は強力と二人で昨日下った道を替えて北から登る。この道も紅葉の美観は飽くことをう、迎え見送る楽しさ、夕方近くに頂上に辿り着く。折良く西の空の夕焼けで、その豪快な光景は、先年平壌の乙密台より大平原の大空を五色に色取る入り日の美しかりしと好一対であった。
 やがて又山荘に着く。此処は毘盧の頂上より少し下の窪んだ処に建つ只一軒の石室であった。随分泊り客があり、毛布四つ折りにした即ち畳なら一枚に二人寝るくらいで、窮屈ではあるが金剛の最高峰だけに夜は冷える。故に自然は都合よくできている。又お客さん虫も此処までは登らず、窓ごしに遠く下界に見える火は海金剛のあたりを行交う漁船の灯火と聴く。南京虫に代わって今晩は大勢の若人が寝言、歯ぎしり、高いびきなどさまざまな雑音に悩まされたが、私も何時しか昼の疲れで白河ならぬインクラインで登って来た久米山荘の宿、久米の仙人を夢に見ながら、夢なることを知らず夢路を辿る。
 
 毘盧峰で日の出を拝む
 翌朝、日の出を拝まんと未だ明けやらぬ山道を頂上指して登る。思いを同じゅうする若人が早大勢、黒ん坊の様に動き、日の出を待っていた。間もなく東の空はほのかに白み始め、曙の空は美しさを増して来た。我人共に視線は今や生まれ出でんとする一点に集中している。と、突然に出た紅の如き真っ赤なベロは見る見るうちに丸い火の玉が大地の底から浮かび上がり、刻々にまばゆく天地を照らし初む。宇宙空間で一番古くて一番新しい大自然の尊い夜明けの神秘的な光景を、今只今大感激のうちに心足るまで拝み得たことは永久に忘れ難いが、老師と共に喜び得なかったことを残念に思う。例えにも処の神さん有り難からずで、常に見る日の出も処が変わると感激も変わる喜びを心に深く納めて散会となれば、急に冷気を感じ、震えが来た。
 私は売店の休息所で暫く休むに、庭があまりに乱雑なるに綺麗に掃除して、すがすがしい思いで宿舎に帰れば、早や各自思い思い、発つ支度でテンヤワンヤの最中である。案内兼強力は皆この国の人なれば言葉が通じない上に、自分のお客を人に取られまいと、入乱れての大混雑に中に、次々と宿を発っていく。
 私は昨日来、三度目頂上の売店に登る。強力の曰く。楡転寺まで下る途中に水は無いとのことに、先刻、庭を掃除したとき、茶瓶に残り水があったから、水筒の代わりにサイダーの空き瓶に詰めんとせしに、売店の親父が出てきて、今朝の冷気で薄氷が張り付いて、水は出ないからやれんとのことに、私は今から楡転寺へ下る者である。水が無くては困る。先刻掃除した時に見た茶瓶の残り水を欲しいと頼んだところ、庭を綺麗に掃除してくれたのはアンタでしたか、と急に氷解して快く水をくれた。そのサイダー瓶を後生大事と左手に握り、一昨日は内金剛より登り、外金剛に下り、昨日は裏道から頂上に登り、今日は毘盧の頂上よりめったに人の通らない南へ急転直下、この道は小柴や笹を押し分けての悪道で、がむしゃらに下ると、ようやく平らな細道となる。間もなく将軍台の中腹を行く。毘盧の峰より吹き下ろす北側なれば、今朝の寒気で霜柱の恐ろしく長いのが立ち、踏み込む度にザクザクと足に伝わる音に暖かい神戸に住み慣れた身には、珍しくまた今秋初めての霜天凍地の感を深めた。それよりもなお珍しく見たのは、ススキの様な物の茎の中程に綿を付けたような膨らみを見る。強力の曰く、これは地下より登る水分と上から下る夜露が途中で出会い、ぐるりに張り出し、結晶凍結したものであると。霧氷または樹氷とは異なり、こんな自然現象は初めて見る奇観であった。
  ここを通り過ぎると、また山を迎える。朝日岳と聞く。この山の南面に出たその名に相応しく、朝陽を受けて暖かく、長閑な気分で腰を下ろし、休息して居ると、眼近な処に思いもよらぬ真柏が沢山あるのに吃驚した。でもどれも行儀が悪く、盆栽になるような良樹はない。やっぱり氏も尊いが育ちが第一であることは、義仲ならずとも樹木でも同じである。
 日本では新潟四国紀州が産地で、いずれも断崖絶壁で長年寒暑と潮風に耐えてひねくれたもの程良く、採集には命がけであったが、現在では採り尽くされ、天然樹は皆無とのこと。真柏は黒松、五葉と共に銘木として盆栽では横綱格である。強力の曰く、この樹は天然記念樹で採集は堅く禁じられていると。さもあるべしと思いながらも、岩や砂地にのたくり回るを見る中に、大きな岩の窪みに可愛いのが見つかると愛着心は抑えきれず、植木鉢からコロリと空けた様に採れたのを幸い、荷篭の底へ知らぬ顔の半兵衛で海を渡る。
 なお四方の景色を眺めるに背後の毘盧の南面は天然の屏風を引き回した様で、雑木の紅葉は朝陽に照らされ、光り輝く美しさ。金剛全山で一番雄大で、しかも最後に見る今秋紅葉の美観を深く眼底に納めて、今に忘れ難い。今一つ忘れ得ぬのは昨夜泊まった久留山荘の印象である。この石室は久留氏が営利でなく登山者の為に建設された建物で、三食は二円という気の毒な程安価で、しかも山中で腹が空では一番困るだろうとの老婆心で、三角の握り飯が七つも入っている思いやりの有り難さに心から感謝の念が起こった。入り口上部の久留山荘の額は永平寺の北野玄峰老大師の筆であった。
御老体でここまでお登りになった記念の筆跡であろうと思った。老大師は日置黙仙老大師の次に出られたお方と思う。師は永平寺の近く大野市の御出身と聴いて居る。
 
 内霧在嶺の原始林に入る
 朝日岳を後に道はまた急坂となる。下るに従い雑木の樹海は何時しか大木の茂る原始林となる。昔から斧を入れたことが無さそうである。真実に昼なお暗い山中に初めて見るこの国の女や子供が何やら拾うておる。それはいわゆるドングリ即ち色々の木の実で、栗や椎の実と違いタンニン即ち渋味の強いものである。あんなものをどうして食べるのかと思った。
 強力の曰く、この辺には今なお年老いた虎が一頭いるが、人には害をなさず、姿もめったに見せないが、熊は沢山に居て、彼も木の実を拾いに来る。それに出会うと恐ろしいがこちらが先に見つけた時は静かに睨んでいると、奴さんの方からのこのこと立ち去るが、ドングリ拾いに余念なく、突然顔を見合わせたり、騒ぐと害をなすからお互いに気を配りながら拾うて居ると。人間と動物も生きんがため、喰わんがために。この世は食の世界であることを教えられた。さらに虎や熊よりも恐ろしいのは狼である。こいつは時に子供を咥えて走ることあり、母親は気違いのようになり助けを求めるが、逃げ足が恐ろしく早くて、ヌクテ狩りともなれば大変であるらしい。ところが何事も知らぬが仏、盲ら蛇に怖じずで虎がいるなど初めに聞いていたら、恐ろしくてとても下りて来られる処でない。
 やがて右の渓谷にすだれ状の大滝と碧潭が見える。ぐるりの花崗岩には大小さまざまな書法で色々の文字が水中にまで深く見事に刻まれてある。樹木に覆われ景勝を誇っているこの渓谷に沿うて下る中に、内霧在嶺の大森林地帯は何時しか過ぎて、次第に明るく広々とした処に出る。
 
 楡転寺


 内外金剛四大寺の中でも、楡転寺は中央にあって巨刹の貫禄を示している。山門の前に楡の大樹あり。門はアーチ式の石門で階上の建物は山映楼。次いで水月堂、本殿等を望む景観は大自然との調和よろしく錦絵でも見る様である。博物館には歴史的遺物や古代の美術品を始め、目に馴染みのない、何に使用する物やら解らん物もあった。此等は内霧在嶺と外霧在嶺の中間の平地に毘盧峰を背景にして南麓に建つ金剛四大寺の中でも、特に古色蒼然とした巨刹なるが、出るにも這入るにも内外在嶺の大森林を経なければならない。この秘境にどうしてこのような立派な堂塔伽藍が建立されたものであろうか。昔から例え罪深き身でも金剛山え順巡すれば苦悩の世界に浮き沈む者でも黒雲の晴れて月の光が下界を照らすがごとく、私どもをお救い下さる大慈大悲のみ仏様を堅く信じ、後生は何卒極楽に往生せしめたまえと、鮮内は無論、支那方面からも千里の道を遠しと思わず、金剛の霊場を巡礼するが一生の念願であり、憧れの的であった。故に幸いにして無事に此処、究極の楡転寺に詣で得なば、極楽の世界をこの世で見る思いで、有り難さに感泣されたと聞く。
 創建当時の昔を思えば、今は衰退と斜陽の感はあろうが、人の思いは変わるも自然に変わりなく、金剛全山が世界に誇る所以は、山岳美と朝鮮芸術の粋を尽くした殿堂が至る処に見られ、住む人がお坊さんなれば、言葉が通じなくとも何となく長閑で、不安の念が起こらず、大自然と山岳仏教芸術と異国の人情に接する事が出来る点が特に有難いと思う。
 また昔から金剛山に巡礼する者は、親兄弟のお骨を持ち、此の寺に特に備え付けてある石臼で骨粉を造り、お骨と共に持参した餅米で白蒸しを造り、骨粉をまぶしたものを常設の生飯(さば)台にばらまいて置くと、色々の小鳥が集まり、全部綺麗に啄んでしまう。これを鳥供養と称し、亡き人に対する遺族の行う心の安らぎであり、また願う処の法要で、現在なお永続して営まれていると聞く。私は思う。お骨の処理法としても一番綺麗で最高であると。
 楡転寺または楡岾寺の伝説
 私は法堂の狐格子から内陣を窺い見るに、不思議や蜘蛛が巣を張ったようなものに可愛らしい金ピカの仏像が沢山なこと配置されている。伝説によると、昔インドから蓬莱の国日本へ仏法を広めるために、聖僧が五十三仏を奉じて日本へ向かう途中、舟が金剛山の沖にかかると不思議や霊感に引かれるままに、上陸してみると華厳経に曰く、東北海中に金剛山あり、一万二千峰、曇無竭菩薩、常に其の中に住すと。
 釈尊在世の時代に、早や世に知られて居た金剛山とは此の山紫水明の幽境ならんと。遂に仏法興隆の霊地と定め給う。処が此処に先住の怪僧あって足を組み、遂に法力の戦いとなり、議論をしても聖僧にはかなわず、遂に本性をあらわせば恐ろしい大蛇となる。あの手この手と技を競うも聖僧の敵で無いことを知るや、遂に水中に潜る。聖僧の呪文で水は熱湯となる。苦痛に耐えかねて楡の大樹に登り、聖僧を一呑みにせんと紅蓮の炎を吐く恐ろしい形相に対し、聖僧の呪文で楡の大樹は根こそぎデングリ返って倒れた。さすがの怪僧も力及ばず悔しいやら口惜しく無念の歯をバリバリ噛んで、遂に法域を発ち、先刻私が見た内霧在嶺中の九竜の青淵へ引き退き、住まうことになったという。替わって聖僧の方は楡の大樹は岩盤の上に生えていたらしく、根の裏は蜘蛛の巣か網のようで平であった。そこへ五十三仏の像を配置して、この寺の御本尊として安置され、いわゆる楡の大樹がデングリ返った寺、即ち楡転寺と名称の起こった由縁であるとか。
 ところで一方聖僧の方は朝に晩に鐘を叩き、経を読まれる。それが怪僧の耳障りになり、癪に障ってどうにも我慢がならず、又もや八匹の子供を連れて外金剛の大瀑布へ引き移り八匹の子供は上の八沢に住まわせ、己は大滝の青淵に頑張り、子供を守る。故に九竜の大滝という由縁である。この事あって以来、楡転寺は無事に現在に至る金剛山随一の巨刹であると聞く。ここで私には大変困ったことが起こった。即ち長安寺以来の強力がここで交代させてくれとの事に仕方なく応じた。
 今度の強力も淳朴そうな老人ではあるが、日本語が話せないので困るが是非もない。そうと決まれば一刻も早くと、昼食もそこそこに頂上以来のサイダー瓶の水を補給して、再び来ることの無い楡転寺にさようならもほどほどに、今度は外霧在嶺を温井里指して下る。老師のお待ち下さる温井里までどれほどあるのか五里霧中で、さっぱり判らず、人に逢うても言葉が通ぜず、気はイライラするばかり、暑苦しく汗は流れる。
シャツ一枚になっても喉は渇く。手に持つ水で渇いた口中を潤しながら下るに従い、山景は平凡となる。石ころの河原では道が途絶え判らない。案内の爺さんのお蔭で迷わず行けども行けども・・・登ったり下ったりの山道で、時折り鮮人に逢ったり、貧しげな山家を見る度に温井里までの里程を聞いても、てんで判らない。家の入口にはそれぞれ萩や黒文字のような物を編み、これを末広がりに立て、先刻内霧在嶺で拾うて居た様な木の実が沢山入れてある。思うに長い冬中の食料となる物であろうが、日本人にはとても食べづらい物である。
 楡転寺を出る時に百川橋まで行けばバスが有ると聞いていたので、夕方近くにようやく来てみると、先日の豪雨で橋は流れ、道は崩れ、為にバスは運転中止になって居るとの事にがっかりした。ここは新金剛への入り口でちょっとした部落ではあるが、温井里までの里程を訪ねてもチンプンカンプンで判らないと。とにかく一刻も一足でも早くと急ぐが、早や力が抜けたようで、折悪しく履き慣れぬ運動靴で噛まれた足の苦痛を我慢しながら、刻々と迫る夕闇に心細いこと例えようもなく、まったく暗闇になった頃に、爺さんは右側の一軒家に立ち寄った。私も仕方なく外の縁に腰掛けてぼんやりとやるせない思いで彼が腰を上げるのを待つ。時に火も付けない牛車が一台また二台と行くが、ガタゴトガタゴトと音を聞いて牛車なることが判るが、暗闇に牛を引き出すの例えの通り、真っ暗がりでこんなのに突き当たったら大変で、危ないと思うが、人は平気なもので荷の上に寝ているらしい。牛は迷わず我が家に帰るらしく、呑気なことに呆れる。
 私はイライラする思いで台所の方を覗くと、平口鍋の破れたのを火鉢代わりにした物に、肥松の小割に火を付けて突き刺してある。これを明かりにドブ酒を呑んでいる暢気さに、私は腹が立ち、早く早くと急き立てると、ようやく腰を上げた。この家の女から今燃えているのと同じ割木を四、五本受け取り、再び闇路を行く。私は今女から受け取った肥松はどうするのかと、何となく不吉な予感に襲われる。果たせるかな大変だ。大きな川岸に突き当たる。透かして見るに、橋は足と桁を残して先日の豪雨に押し流されて渡れない。私は橋桁に腹這いになってわたるのかと思ったが、橋はとても長いらしく、暗さは暗し、危なくて途方に暮れる。爺さんは先刻の肥松に灯火して、水面を照らしながらウロチョロするのみで、埒の開かないのに腹が立つやら悲しいやら。最後にどうにでもなれと捨て鉢気分で堤を下る。そこは恐ろしく深い淵になっていたが、それでも足踏み込まんとする私を引き止めて、川下の方へ爺さんは大声で川向うに呼びかけると、先方でも松明を輪に振って、大声で浅瀬を教え、渡って来るように合図するらしく、其の中に広い砂地を見付けたので渡り始めるに、先日の豪雨で俄に出来た砂地の為に、深く踏み込む心地の悪さ、靴を脱いで心配しながら行く程に、音を立てて流れる急流となる。ヨボは恐れているが、私は必死の思いで押し渡るに、次第に深く流れは早く、一歩間違えば大変だ。足の裏に触れる石はつるつるで一寸足を取られたら最後と思えば、恐怖と不安で絶対絶命、頭陀袋は頭上に差し上げ、流れが乳の下まで来た時はもう駄目かとさえ思ったが、幸い次第に浅くなりやれやれと思ったのも束の間で又もや二度目の難所、暗さは暗し真の闇、この急流に押し流されたらとアブアブの思いで、ようようの事に岸に這い上がることが出来た時は、暫くは動けなかった。時に冷え切った内股を温かいものが流れるのを夢心地で感じた。何の事だ。無意識に小便が出ているだらしの無さに自分ながら阿呆らしく、高城川の夜渡りと共に、生まれて初めての体験で、昭和四十三年の今でも思い出すと恐怖の念が新たに起こり、今日在ることを不思議に有難いと思うている。
 ヨボに導かれて橋詰めの一軒家に這入る。幸い温突の温かさで蘇生の思いで濡れた物を乾かすのに、かなりの時間を消費したが、夜の大川を無事に渡り、助かった喜びもさりながら、温井里まで未だどれほど有るのかさっぱり判らないのに、時は早や九時を過ぎている。私は気が気でない。暢気にドブ酒呑んでいる爺さんを急き立て、再び高城川に沿うて行く程に、ヨボも心細く閉口して居るらしく、楡転寺より温井里まで七円と決めた約束の金を繰り返し催促するが、渡したら逃げると思い、判らん判らんで、痛い足を引きずりながら急ぐ。夜空がボーッと明るく見えるあの辺りが温井里であろうかと、銀砂子を散らした様な星明りを頼りに、行けども行けどもそれらしい町もなく、路傍に尋ねる家もなく、老師も定めし心配されて居るであろうと思うと気が気でない。爺さんより先に行くは怖いし、さりとて遅れてボソボソ行けば逃げられはせんかと心配で、案内される身が反対に引き手となって、方角も判らない異国の夜道を行く淋しさ心細さは例えようもない。そのうちにやっと家並みが近付き温井里に来たと聴いた時の嬉しさ。やがて嶺陽館に着いた時は早や十一時も過ぎていたのに、皆寝もやらず老師も心から無事をお喜び下された。
 皆々様に大変ご心配かけた事を誠に相済まぬことであったと、心で詫ながら、先ず神戸を発って以来、初めて待ち兼ねた温泉は朝鮮式でお湯は脛までも無い箱風呂ではあったが、足長々と伸ばし、旅塵を洗い、痛い足をさすりながら大木が倒れるように床に入る。嗚呼、良かったとこの時ほど思ったことは無い。

 海金剛
 翌朝は疲労回復と、又来ることのない温井里の思い出に、外の共同温泉に行く。ここも純朝鮮式でお湯はやっぱり脛ぼん位の深さで、全身を沈めるには横になり、足を長く伸ばす式で、どうも調子が良くないが、流石に名湯だけあって温泉は豊富で綺麗で心地良く、連日の疲労も癒える思いがした。偶然にも楡転寺より世話になった爺さんも這入っていて、視線が合うと笑顔で私の足を見て、イタイカ、イタイカと慰めてくれるが、後はさっぱり判らない。靴に噛まれた両足の爪は内出血で黒く、とても痛い、最後の海金剛を見ずに帰るは残念であり、心残りと、ちんば引き引き頑張って三日浦の乗船場に至る。この辺も先日の豪雨と高波の被害は大変で、根こそぎ打ち上げられた大木が散乱して、物凄い爪痕を遺している。海上より見る海金剛の景観はさすがに規模が大きく雄大で、奇岩怪石に打ち上げる白波は物凄く岩に寄生する老松に群がる鵜即ち海ガラスは珍しく、長良川など鵜飼用の鵜はこのような野生の鵜を捕らえ、気長に飼い馴らしたものではあるまいか・・・。
 静かなること太古の如き山金剛に対し、海金剛の昼夜不断に打ち上げる激浪は壮観そのもので、物凄いばかりで、この対照的景観が、次から次からへと移り変わる楽しさを居ながら見られたのが真実に素晴らしく、今秋の金剛山探勝最後の収穫たらしめたのであった。
 以上数日に渡り海陸金剛連峰の雄姿を探勝し、更に生有るものの如く感ぜしめたものは紺碧の海に乱立する巨岩に挑む激浪と白雲の流れであった。
 毘盧の頂上でご来光を拝した時は瀧 宜睦老師をお連れしなかった事を残念に思い、夜の川渡りでは我が身一人で良かった。もし同行していたらどんなことになっていたやらと思うと、数年後の今でも夢に見たり、恐怖に襲われることがままある。苦労の後にこそ楽が有る。朝の来ない夜はない、とは吉川英治氏の言葉なるが、これは総てに通じる言葉であり、私には金剛山紀行の生まれた所以でもある。       
    
                   昭和43年3月上浣 冨士 義孝 誌