「ああ、勘違い」ー白隠禅師坐禅和讃ー

       
 ようこそ多数お参り頂きまして誠にありがとうございます。
只今は白隠禅師坐禅和讃を皆様、ご一緒に大きな声でお唱えになっております内に入堂いたしまして、
ご本尊様にご挨拶をさせて頂きましたが、皆様のお声が実に力強く響いておりまして、
こちらのご住職様の平素の行き届いたご指導の一端に触れさせて頂いた気がします。
 そこで今席は予定を変更いたしまして白隠禅師坐禅和讃について、お話し申し上げたいと思います。
と申しましても特に難しいことを申し上げるのではありませんで、いわば失敗談を聞いて頂きたいと思います。
題して「ああ、勘違い」というのであります。
 私は生まれも育ちも、葛飾柴又、ではなくて、京都の北の方の舞鶴という所の寺の子として生まれました。
門前の小僧、習わぬ経を読むと申しますが、なにしろ門内の小僧ですから、
赤ん坊の頃から朝のお勤めには父の膝に乗りまして、鈴のバイを握っております。
すると、父はそのバイを私の手と一緒に握ってチ〜ンとやる。ゴ〜ンとやり、ポクポクとやる。
赤ん坊にするとまるで楽隊のようで面白くてたまらない。
お経が自然と耳に入って参ります。それがまた訳もわからず面白い。
 ナムカラタンノ〜、トラヤ〜ヤ〜なんて、改めて聴いてみると妙ちくりんですよね。
檀家の子供さんが後ろに坐っておって、くすくす笑うんです。
ソモコ〜、ソモコ〜と何度も言うからですね。可笑しくてしようがない。
しまいにはひっくり返って笑ってますねえ。でも、その子供がいつしか覚えてしまう。
聞いているだけでお教本を見ないで覚えてしまう。私もそうでした。随分たくさんのお経を覚えておりました。
 さて問題は白隠禅師坐禅和讃です。経本を見ないで聞いたとおりに覚えて声に出していた訳ですから、字を見ていない。
観ていないけれども、いつしか日本語ですから、なんとなく自己流に解釈して解るところは解ったつもりでいるわけです。
 お手元のテキストの坐禅和讃をごらんになって下さい。
始めから七、八句目に『譬えば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり』というのがあります。
私はこの渇というのを長い間、叫び声だとばっかり思っておりました。
なぜかというと、それはいつも、父がお葬式の時に、喝〜っと叫んでいたからです。
導師が引導を渡しまして、最後にカ〜ッと叫ぶ。
いつもそれを聞いておりましたら「それはそうだ。水の中ではカ〜ッと叫ぼうにも、
なにしろ水の中なんだから、苦しくて、苦しくて溺れるから叫ぶどころじゃない」
 今、皆さんお笑いになりましたが、それは意味が解っておられるからですね。
でも小さい私は、てっきりそんな風に考えて納得しておりました。
 それから学生になりまして、京都に参りまして、大本山相国寺の般若林という禅塾にお世話になりました。
そこは大学へ通いながら、朝晩、坐禅をして、本山の掃除をしたり、畑をしたりという生活でしたが、
朝のおつとめの時に、他の林生の人たちは寺の子以外の人もいますから、たいていお経本を見て誦むわけです。
私は暗記しているから、見なくても良いのですが、皆に合わせてお経本を見ておりますと、
或る日、ふと、大変なことに気がつきました。坐禅和讃の先程の渇を叫ぶが如くなりのところです。
 「あれっ、口偏じゃなく三水偏じゃないか、あれぇ」という具合です。口と三水じゃえらい違いです。
あわてて調べてみましたら間違いなく三水偏です。つまり喉が渇くということなんですね。
 人は本来仏であることを自覚しないで、救いを外にばかり求めているのは、
あたかも水の中にいて、喉が渇いた、ああ、水が飲みたいと叫んでいるようなものだ、ということですね。
 解ってみれば真にその通りなんですが、勘違いとは恐ろしいもので、
長い長い間、水の中では叫ぶに叫ベないことだと思い込んでいたのです。
 もう一つ、勘違いがありました。終りの方に「無二無三の道直し」とありますね。
それはあれやこれやの幾つもの道筋があるのではなくて、真っ直ぐな一筋道ですよ、ということですね。
私はそれを字を見ないで聞いて覚えたものですから、道をなおすこと、
おそらく沢山の凸凹道を平らにするぐらいのことだろうと勝手に解釈しておりました。
なにしろ「道なおし」と聞こえたわけですから。気付いてみればとんでもない間違いです。
 正しくは、白隠禅師は道を直せと言われたのではなくて、真実の教えは一筋道であって、
悟りに到るためのあらゆる修行というものは坐禅、つまり「心の坐り」が根底になければ本当の修行にはならない。
 その「心の坐り」とは、私どもは本来仏である。仏性が具わっているんだ、という自覚ですね。
よろこびですね。その「心の坐り」を育てていくこと、
それが坐禅または禅定であって「称嘆するに余りあり」。
このお釈迦様が開かれた仏法というものは、誉め讃えても誉め讃えても讃え切れない、
素晴らしく有り難い真理の法だと称賛しておられるのです。
 実に大変な内容なわけで、私の勘違いというものが、いかにトンチンカンで的外れな理解であったか、お解かり頂けると思います。
まあ、それでも、途中で気が付いたから、いい方だろうと思います。
中にはまだひょっとすると、白隠様は凸凹道をなるべく沢山直せと言っておられると思っておられる方があるかも知れません。どうでしょう・・・・。
 まあ、どうか、今、お聞きになりました間違った解釈の方は消去して下さい。
おうおうにして間違った方が覚えやすいことがありますから、頭に残っては大変です。
 それから、勘違いではありませんが、不思議な耳慣れない言葉がございますね。
「夫れ摩訶衍の禅定は」というところです。「マカエン」とはどんなエンでしょうか?というように、つい考えてしまいますが、
はやそれが勘違いなのですね。
 けれども「マカエン」の本当の意味を考えて参りますと、
そこには実に深い深い仏教の思想が流れておりまして、
専門の仏教学者が書かれました解説書を読みますというと、
この「マカエン」という言葉に込められた教えというものは長い長い歴史の時を超えて、
今こそ世界にもっともっと明らかにされる必要があるというような、大変なものなんですね。
 能書きが少し大げさに聞こえるかも知れませんが、それでは私、浅学の身でありますけれども、
白隠禅師がなぜ、ここに「マカエン」という奇妙な言葉を使われたのか、お話ししてみましょう。
 サンスクリット語の「マハーヤーナ」を摩訶衍と音写し、大乗と漢訳しておられます。
「大きな乗りもの」ということですね。そして大乗の教え、小乗の教えというような使われ方を一般にはします。
すなわち、小乗の教えは「自利」――自分の悟り、安心を求めること――のみであって、
しかも烈しい修行に「よらないと悟れない、ということは、普通人には無理であって、
エリートのための道である。
これに対して大乗仏教は「利他」――人々の悩み、不安、苦しみをまず救おうとする――を主として、
難行道もあるが易行道も開説されており、エリートも落ちこぼれも、善人も悪人も、
そろって社会全体として救われることを目的とする点で、大きな乗りもののような教えといわれるわけですね。
 ときとして南方の仏教、タイ、スリランカ、ビルマの仏教を指して小乗仏教と呼んだりしますが、
これは大変失礼な呼び方、軽蔑した言い方でして、絶対に改めなければいけません。
正しくはテーラワーダ仏教(上座部仏教)と呼ぶべきなんですね。
 それでは白隠禅師は坐禅・禅定は素晴らしい、皆を救う大きな教え、
大乗の教えだぞ、という意味で「夫れ摩訶衍の禅定は」と言われたのでしょうか。
それだけではありません。大きな広い教えと讃嘆するだけなら、
何も一般の人が聞いてもわからない「マカエン」などというインドの言葉をそのまま使ったりせずに
「夫れ大乗の禅定は」とされても充分なはずです。ある解説書には、ここで禅師はちょっとしゃれて、
いわばナウい言葉、かっこいい言葉として使われたのでしょう。とありましたが、私はそうは思いません。
 ここでの「マカエン(大乗)」は衆生心ということですね。第一句は「衆生本来仏なり」で始まっております。
衆生と言っても「心が衆生(いのち)」なんですね。
 私というものも世界も、心によって知ることが出来て存在し、
心に限りない豊かな能力があるから、どこまでも探求し、表現することができるのです。
しかも心の本性は自性清浄心といわれるように、永遠に変わらないで純粋で清浄なんですね。
 そのことをお釈迦様は二五〇〇年前に悟られて、喜びの声を挙げられたわけです。
その心があるから凡夫が修行をして仏陀、仏様になれるんです。
仏様は手の届かない高いところで厳然としておられて、お前たち迷える凡夫は、ただその前にひれ伏しなさい、というのとは違うのです。
 そこで、まず第一句に『衆生(心)本来仏なり』とバーンとぶちかまされたわけです。
「華厳経」にも『心、仏、衆生の三は差別なし』と説かれているからです。
この流れは「法華経」の「一乗思想」と共に「勝鬘経」などを通して「大乗起信論」に受け継がれているのです。
 白隠禅師はそうした思想を踏まえられた上で、そのことを強く意識するが故に、
わざわざ、「大乗」でなく「摩訶衍」という言葉を用いられたと思うのです。
 『本来仏になる可能性を秘めた衆生心(いのち)が、実践する禅定は称嘆するに余りあり。
たとえようもなく素晴らしい』と読みたいと思います。
「摩訶衍」は禅定の修飾ではなく、禅定の主語であり、主体なのです。
 「摩訶衍」とは私自身のことであり、あなた方、一人一人のことなのです。お分かり頂けたでしょうか。
 すべて、いつでも他人ごとではなく、私が主体なのであり、その私が本来仏なのであり、『この身即ち仏なり』なのであります。
このように強調することを「本覚的立場」といい、心の鏡は本来一点の曇りもなくピカーッと耀いている。
一方、そうはいうけれども、現実は凡夫以外のなにものでもない。
 煩悩まみれで、不安で、不自由ではないかという反省から、
よし仏に成るぞ、そのためにはやはり、本心を自覚し、
心を修めるという修行が必要となる。
さあ共に菩提(さとり)の道に進みましょう。
曇った心鏡を磨きましょう。というのが始覚的立場であります。
両方の立場は車の両輪であって、人々を正しく導き、励ますものであることは言うまでもないでしょう。
 今、思わずため息をついた方がおられました。
勘違いの話から、いつの間にか大変なところまで話して参りましたが、
話自体は決して勘違いではありません。
どうか信じて頂きたいと思います。信は堅く信ずるというように決心の力をもっています。
また同時に心を浄化する力をもっています。仏を信じ、法を信ずることによって、
わが心が仏や法に同化されて、清浄になっていくのです。
この心を清める働きを持つものが「信」であります。
 どうか白隠禅師の迷える人々を救おう、導こうとされた大慈悲心の結晶である四十四句のご和讃を、
これからも繰り返し読んで、噛み砕いて味わって、
心の糧にさせて頂くんだという信を起こして頂きたいと思います。
 本来、大乗の心で生きるあなたが起こす信は
必ずやあなた自身を仏の心へと導くことでしょう。
 ご清聴、誠にありがとうございました。