山際素男様

前略

お手紙、それと雑誌・新聞記事のコピー等、ありがとうございました。

佐々井秀嶺師という仏教僧の存在が広く知られることが、インドにおける仏教復興運動=反カースト解放運動=ブッダガヤの奪還運動を広く知らしめることに結びついていってくれればと願っています。

もっとも今日までの私の実感からすれば、これらの記事が読まれ、「破天」が読まれることがそのまま”直接的に”それらの運動への支持者、協力者を増やすことに寄与するとは限らない・・・・と、シビアに見る方が、リアルなのかもしれませんが・・・・。

 ともあれ「破天」という作品を通して・・・・一人のたぐいまれな仏教者の軌跡に出会うことが、多くの人々の魂の中に”生きた仏教精神”なるものとの出会いをもたらし、そのことが無数の人々の中に存在しながら眠っていた”仏性=人間としての真実なる生き方への希求”を目覚まし、揺り動かしていくに違いない、という意味では、この作品が人間の歴史を貫いてきた仏教なる運動を展開する一翼を担うだろうことは疑いえません。 

 『諸行無常を」という仏教の教えからすれば、ブッダガヤの大菩提寺とて、あるとき、人によって作られたものである限り、いつかは必ず壊れて消えていくものです。したがって、その管理権をめぐる戦いも、無常なる営みです。本質的には。

 しかし、すべての事物を無常であるとしても、「すべては無常である」という法(道理)は永遠不変のものです。そして、われわれ無情の身たる人間をして、真に立ち上がらせていくものこそは、この常住なる法との出会いなのです。

 「破天」という作品は、まさにひとりの煩悩の塊、弱き者が、この永遠不変の法に出会い、そのことによって、”丈夫”として立ち上がっていった・・・という魂のドキュメントとして感銘深いものです。

 そういう意味では、「インドにおける仏教の復興運動」とか「ブッダガヤ奪回運動」とかいった目前の歴史社会の事象を限りなく生み出してくる<人間存在の根源のダイナミズム>の証言たりえていると思うのです。巨大な大乗経典群が、そのスケールの大きな神話的表現によってかろうじてつかみだし、定着することができた’いのちの根源の歴史’・・・・・その「一典型」を見事に描き切れていると思うのです。

 換言すれば、一個の魂弱き凡夫を、菩薩たらしめていく‘人間存在の根本の道理’を実に具体的に、生々しく描き出せていると思えるのです。

 この「破天」という作品が、佐々木正氏が「歎異抄」をめぐる著作の中で、繰り返し強調しておられる、生きた仏法を脈々と伝えてきた、そして、これからも(人類が滅びる時まで)脈々と伝えていくであろう’伝承’の一環として作用していくことは疑えません。

 回りくどい言い方になってしまいましたが、要するに私は、この「破天」は、現在展開している運動に直接的にどれだけ寄与できるかは心もとないけれども、それらのさまざまな運動を次々と生みだし、その運動を担う主体を次々と生み出してくる‘根源的な仏法の‘菩薩産出運動’には必ず寄与する、と確信している・・・・ということです。(奇妙な表現に聞こえるでしょうが・・・・)

 真の仏教とは、「凡夫を菩薩的生き方に導く道」以外の何物でもないからです。「死に向かっての生という絶望しか知らなかった者(凡夫)が、自利利他円満の共生的世界を求め続けるという無限の課題を抱いて歩む者(菩薩)に成ること」以外の、いかなる「救い」も、幻想です。

 どんな人であれ、必ずこの凡夫から菩薩へという道をたどることによって救われるのです。

 どんな高僧であれ、田舎の名もなき念仏者であれ、その本質構造は全く同じです。真宗的表現によれば「南無阿弥陀仏」と念仏申す者は、良し悪しの分別を離れた無分別(阿弥陀仏)に南無(帰命=すべてを任せる)することによって、いかなる状況をも、そのままに受容して、そこを生き切り、死に切っていける菩薩的存在と変容せしめられていくのです。

 ”良しあしの分別=世俗の是非善悪・、損得勘定”を超えて、”いのちの真実(自利利他円満)の実現を限りなく願って生きる主体としてよみがえらされるのが仏教の救いです。・・・・インドの現実に即して表現すれば、自利利他円満(=平等)に背くカースト差別を悲しみ痛み、その消滅を目指しての限りない歩みにつく者を次々と生み出す、という形で仏教は人々を救い続けるわけです。

  こんな釈迦に説法みたいな事を書いていてはいけませんね。とにかく「破天」は、そういう生きた仏教、仏教のダイナミズムの見事な表現たりえているということです。皆に読んで欲しいです。とりあえず「破天」20冊、お送りください。よろしくお願いいたします。

2001年2月19日

                                              林 信暁 合掌