『バンテジー、ジュネーブ、パリへ行く』


バダンタ・アーリヤ・ナーガルジュナ・秀嶺佐々井ジーの国連、ユネスコへの旅


                       西歴
2002719日から812

ラムテーク山上にて
 1992
6月、ブダガヤ大菩提寺解放闘争への会議がバンテー佐々井秀嶺の議長においてナグプール、
インドラ・ブッダビハールにおいて行われた。過去において
1892年大菩提会創立者スリランカのアナガリカ・ダンマパーラ師が大菩提寺解放闘争への火ぶたを切っている。
その後100年にして佐々井秀嶺を先頭にして、再度、大菩提寺解放闘争を開始すべきであるということにこのインド仏教寺の会議において決議した。この会議は全ナグプールまたマハラシュトラ州の各地より参加した人々が約700人から800人の男女仏教徒たちが参加していた。この会議においてもっともこの大菩提寺解放の最初の提案者である現マハラシュトラ州州会議員ニチインラウト氏も出席、またチャンドラ・カント・ムクレー氏、SK・ガジビエ氏、ラジュー・ロンカレー氏、等々、またナグプール市議会の仏教徒代表も二、三人出席していた。そして1992年9月27日、この仏陀ガヤ大菩提寺解放第1次大闘争はボンベイ、アラビア海の近くにあるインド仏教再興の父ババサーブ・アンベードカル菩薩舎利塔、すなわちチャイトヤブーミよりボンベイ仏教徒民衆の声に送られて「ダンマ・ジョティー・ヤートラ」不滅の法灯の行進と題しての6,000キロの解放運動の行進は始まったのであった。
この不滅の法灯の行進はボンベイ、プーナ、アマラバード・オーランガバード・バラプール、アコーラー、アマラヴァティーを経てナグプール、それよりボパール、グワリオール、アグラ、首都ニューデリー、それよりマトゥラ、ラクノー、カンプール、エラハバード、ヴァラナシ(サルナート)、パトナ、ラジギール、ブツダガヤという、その大行進が通過する州はマハラシュトラ州、中央州、ラジャスターン州、ハリアナ州、デリー州、ウッタルプラデシュ州(北州)、ビハール州の七州をまたがる解放大行進であった。

ブッダガヤに入るその入り口のところでビハール州政府役人また警察隊がこの不滅の法灯の行進の行く手に立ちふさがっていた。この不滅の法灯の行進に参加したたちはおよそ一万人くらいであった。平和的な解放闘争への道を歩むことを考えた闘争運動の指導者アーリア・ナーガルジュナ佐々井秀嶺師はその誓い約束した言葉には一寸の違いも見せなかった。このゆえに解放不滅の法灯の行進は平和裡のうちにブダガヤの大菩提寺に到着した。このブダガヤ大菩提寺解放第一次大闘争にCNNすなわちアメリカのニュース・エージェンシーはその報道を各紙に流して、アーリア・ナーガルジュナ秀嶺佐々井師の言葉を掲げて、インド政府またはビハール州政府はブダガヤ大菩提寺問題を解決への道にもって行こうとしないならば、この大菩提寺解放運動は将来、国連またユネスコへそのまま解放への道を進めるだろう。しかしインド政府はまたビハール州政府の良心を信じて私たち全インド仏教徒はこれより不断に大菩提寺解放運動を続けていくであろう。その後アーリア・ナーガルジュナ秀嶺佐々井の指導のもとに現在まで10年間12回にわたる大闘争をブダガヤ・パートナー・ニューデリーに展開している。この10年間にわたる大菩提寺解放大闘争に約二百万人の仏教徒民衆が全インド各地より参加し二十人くらいの死者を出すに至っている。彼らはその人たちはブダガヤ解放闘争栄誉の死者と呼ばれている。今年20021月ブダガヤ大菩提寺に無給で約6年間まじめに奉仕していた仏教比丘達数名を何の理由原因もなく彼らの部屋から一切の荷物仏具を外へ放り出して比丘達を引っ張りたたくという事件が発生した。この比丘数名への打擲事件はナグプールにいる佐々井秀嶺のところへ知らされた。この通知を受け取った佐々井師は解放運動の炎を余計強く闘争心をより激しくもり立てていく方向に道を示した。そしてただちに佐々井はナグプールに在って行動を開始した。すなわち彼はナグプール地区長官(コレクター)本部に約一万人のブダガヤ事件にまつわる陳情行進大集会を敢行し、ナグプール地区長官コレクターに面会、陳情書を突き出している。その陳情書とともにインド大統領ナラヤナン閣下に宛てた一書、またインド中央政府首相に宛てた一書、ビハール州政府首相にあてた遺書、またガヤ地区長官コレクターに宛てた一書、以上約五通よりなる抗議文書、陳情書を差し出している。この現在のインド要人に差し出した陳情書抗議文書にはわれわれ仏教徒は今回のブダガヤ大菩提寺比丘打擲事件を見て、これ以上平和裡にことを進めることを断念し、もはやわれわれの忍耐は限界にきている。故に最後の通告をする。われわれはすでにインド政府ビハール州政府またガヤ地区長官を通してわれわれのこの陳情書、抗議文書をまじめに真剣に考えない結果を見て、ここにわれわれは世界国際政府たる国際連合事務総長、コフィー・アナン氏にブダガヤの現状とその全インド仏教徒の当然の権利としての大菩提寺解放闘争十年間苦難の道のりを書き綴った文章を送っている。また仏教徒代表、約五百名からなるサイン、署名の嘆願書も合わせて同時に彼、国連事務総長に送っている。
佐々井秀嶺は1992年ブダガヤ大菩提寺解放第一次闘争の時すでに、インド政府、ビハール州政府に対して大菩提寺解放問題について、解決への道を開かない場合は、われわれは国連またユネスコにこの問題を持っていくであろうと、CNNアメリカニュース代理会社を通じて、また、タイムズ・オブ・インディア紙を通じて大きく発表したが、いま、佐々井師はその後十年にして、事実、このブダガヤ大菩提寺解放問題を国際連合またユネスコへ解決する道にもってゆくことを決意したのであった。

2002630

ハンガリーのブダペスト大会においてユネスコ本部はインド、ブダガヤ大菩提寺を世界遺産に指定すると発表した。この大菩提寺世界遺産指定のニュースを聞いて、佐々井師は非常に喜んだ。そして第一番に彼は各新聞を通してユネスコがとったこの大菩提寺世界遺産指定決定のことについても称賛した。そしてこのユネスコの大菩提寺問題に対する決定について佐々井師はS・K・ガジビエ博士と話し合った。この二人の話し合いにおいてガジビエ博士は佐々井師に言った。「今、この大菩提寺解放問題を早々に国内のみの問題にとどまらせずに全世界に向かって強く盛り上がる運動とすべきである。それがためには私たちは国際連合またユネスコ本部にいかなければならないであろう。このような話し合いをした後、佐々井師の前にひとつの問題が生じた。その問題とは、それでは私たちはどのようにして国連本部またユネスコ本部へ行くことができるのかということであった。ガジビエ博士はこの佐々井師の問題について答えた。ガジビエ博士は佐々井師にいってこの国連行きユネスコ行きの問題は私が全責任を持って解決し、その道を開きましょう。ここにおいてガジビエ博士は、アンベードカル博士国際ミッション、またアンベードカルセンター・フォア・ジャスティス・アンド・ピース(AMBEDKAR・CENTER・FOR・JUSTICE・AND・PEACE、この国際組織は国際アンベードカルミッション・ソサイエティーでありこのミッション・ソサイエティーの中にガジビエ博士はインド支部の本部長をしている)の会長、そしてその創立者でもあり大先輩でもあるアメリカに長年間止住の技術者ヨゲーシュ・ワラディー氏、またカナダ止住の技術者ラジュー・カムレー氏等と連絡をとり、国連またユネスコによくその方法と道を追求することよりスタートを切った。

アンベドカル・センター・フォァ・ジャスティス・アンド・ピースの創立者でもあり、会長でもあるヨゲーシュ・ワラディー氏はすでに十五年前頃より人権問題、また種姓制度、カースト制度等の問題について闘争しているもので、この闘争を国連に持ち込み、この国連においてすでに十五年間の闘争を展開しているという古強者でまずこうした問題の最先頭に立って国連にまで来て闘っている人は彼を除いてはインド本国にもいないと思う。このワラディー氏が電話を通してガジビエ博士に、今、佐々井師を国連ユネスコにその国連総会の出席を兼ねて大菩提寺解放闘争の上に置いて出席することは非常に重要的必須となっている。ゆえに断じて佐々井師を今回は国連ユネスコ会議に出席せしめなければならない。そして国連欧州ジュネーブ本部での国連特別総会の開かれるのは2002722日よりであった。この国連特別総会に出席すべしとする招待状はすでに国連ジュネーブ本部よりヨゲーシュ・ワラディー氏とともにS・K・ガジビエ博士、ナーガセン・ソナレー氏、L・K・マダビー氏のこのインドグループには発行されていた。しかし国連またユネスコへ佐々井師が出席するためには、国連本部よりの招待状が必要であった。佐々井師自身もこのブダガヤ大菩提寺の問題を引っ提げて国連総会に出席し、またユネスコ本部に行き、今回ブダガヤ大菩提寺が世界文化遺産に指定されたことのお礼とともに過去十年間この解放闘争の記録報告全十冊よりなるファイル文書をユネスコに収めるため、また今後ユネスコしてどのような方法を以て大菩提寺を世界文化遺産としてブダガヤ全域を清浄なる大聖地にしてゆくのかという先方ユネスコの考えを少しでも聞きたく、またそれに対する佐々井師自身の体験に合わせての忠告も惜しまずということで、今回国連ユネスコへ出席する決意を固めていたようである。しかしその後佐々井師はウッタルプラデシュ州(北州)地方デリー地方に出張した。アメリカのヨゲーシュ・ワラディー氏は国連またユネスコの本部と連絡を取り、嘆願していた佐々井師に対しての国連よりの招待状を発行してほしいと。これに対して国連、ユネスコは佐々井師に対する国連会議出席への招待状を発行することを受諾した。この佐々井師出席の国連よりの招待状を発行の通知はアメリカのワラディー氏より電話にてインドのガジビエ博士に知らされた。そして佐々井師を国連またユネスコへの連れ帰りの全責任、また佐々井師に対する日々の世話奉仕の一切は貴君ガジビエ氏にすべて任せるということも決定した。この通知を聞いてガジビエ博士は歓喜した。心で思っていたことがその通りに運んだのであった。ブダガヤ大菩提寺解放闘争への道は今や全世界仏教徒の解放闘争運動へと展開してゆくのである。ガジビエ博士はこの国連本部より佐々井師に対する招待状が許可されたことを早く佐々井師に知らせたかった。しかしこの時、佐々井師はデリーへ出張中であった。しかしその日の午後夕方、デリーよりナグプールのガジビエ博士のところへ電話がかかってきた。そこでガジビエ博士は先の国連よりの招待状を発行総会出席許可の朗報を歓喜のうちに伝えんとするその前に、佐々井師が言い出した。「ガジビエ・サーブ、私が国連、ユネスコに行くことは良くないようである。なぜならば私はいま日本より外務省関係の人の友人という人より電話があった。その日本の人は言っています。佐々井師あなたは国連ユネスコの方に行こうと思っているらしいがそれはよろしくない。行かない方がよいと思う。なぜならば今、ユネスコはブダガヤ大菩提寺を世界文化遺産に指定した。この時点においてインド政府はどんなことがあっても聴くことも許すこともしないであろう。すなわちあなたが国連またはユネスコに行ってインド政府のとっている方針に反対的な発言行動を国連またユネスコでした場合、インド政府はあなたに対して怒りの心情を禁じ得ない。そしてあなたのインド国籍を解消せしめることも考えられる。この故をもってあなたは国連またユネスコに行かないほうがよいとの忠告の電話をするのである。この佐々井師のデリーよりの電話を聞いてガジビエ博士を大きなショックを覚えた。彼は佐々井師に向かってそれ以上のことはあまり話さず。「一日も早くデリーよりナグプールへ帰ってきてください」この佐々井師の電話を受けたときはそこにはガジビエ博士と佐々井師の事務総長であるパワン・センレー氏がそこにいた。その夜、ガジビエ博士は一晩中眠ることができなかった。何もする心も失って、あちこちへ佐々井師国連ジュネーブへ出席するとのうれしいニュース通知を知らせねばならなかったことも消え失せて、そのことは非常に遠いかなたに飛んでいってしまった。そしてその反対のことが非常に心配になってきた。すなわち国連ユネスコの佐々井師出席を受諾せしめ、その招待状をその本部より発行せしめたヨゲーシュ・ワラディー氏、またラジュー・カムレー氏、ナーガセン・ソナレー氏等の上に、この佐々井師国連ユネスコ行きの道を開くことを努力しその招待状発行までこぎつけた今、そうした三人の非常なる努力がすべて水の泡に帰してゆくのが目の前に浮かんでくるのであった。しかしそうした時にたってもガジビエ博士は佐々井師は国連ユネスコへ何らかの事情によって行くことは断念したというようなことを周囲の人たちにだれひとりとしても話さなかった。それよりか佐々井師が一時も早くナグプールへ帰ってくるのを待っていた。二日後、佐々井師はデリーより帰ってきた。帰ってきた後、ガジビエ博士は新出発として再び佐々井師に対してブダガヤ大菩提寺解放運動の実態を国連またユネスコに持ってゆくことは断じて今はわれわれインド仏教徒としてとらねばならない必然的必死的道である。そして最初は生命生涯をかけてこの大菩提寺解放への道に向かって、たとえ誰にどんなことをいわれようとも不倒不退不屈の信念でまっしぐらに前進してゆくのがあなたに与えられた使命ではないか。これが仏教者といわれる佐々井師始中終の大使命であると思うと、こんこんとガジビエ博士はおのれ自身の心情をすべて吐露して佐々井師に迫った。ここに至って佐々井師は再び彼本来の活眼を見開いて、国連、ユネスコ出席の決意を新たに誓った。しかしこの時ガジビエ博士は佐々井師に言われて固く約束したことがあった。すなわちその約束とは佐々井師をして大菩提寺解放問題を引っ提げて国連にまたユネスコ会議に出席するというようなことはいっさい先でニュースにしないでください。断じて私たちが行くということは最後の最後まで秘密にしていてください。このことはインド政府をして国連またユネスコよりの佐々井師に対する招待状発行ということについて心配懸念をしないで気にかけないであろうということであった。それ以来、佐々井師のインド国籍のパスポートの取得ナグプールよりボンベイ列車チケットの購入、ボンベイよりスイス、ジュネーブまでの航空券チケットの取得というところまですべて秘密裏のうちに事を運んでいったのである。2002722日、欧州ジュネーブ国連本部の総会会議ホールで特別国連総会の幕開きがする。この722日の特別国連総会に間に合うには、1日早くジュネーブに到着する必要があった。

2002719

ナグプール出発セワグラム急行でボンベイ到着の予定を立てた。2,002年7月19日朝早く、佐々井師の事務総長といえるパワン・セラレー氏は佐々井師への国連行きの贈り物として大きな外国旅行用のスーツケースを買ってきて佐々井師に供養した。それはインド・ナグプールに着て40年近くなるが今日はじめてこのインドの大地を離れて外国に向かうための佐々井師の旅行荷物を入れるためであった。このパワン・セラレー氏の外国旅行用スーツケース佐々井師の供養によって佐々井師のところへひっきりなしに出入りする人たちはこれを見て気付き始めた。そして噂が広まっていった。佐々井バンテジーはどこか外国に出かけてゆくようである。人々には信じられなかったが徐々に人の噂は広がって、大きな動揺の波を民衆の中に巻き起こした。仏教徒信者は佐々井バンテジーは日本に一度帰ってくるのであろう。佐々井バンテジーは日本の父母兄弟家族に一度会いに帰国するんだというようなうわさでもちきりとなった。また中には佐々井師はスイスに行くようであると、誰から聞いたのか知らないがそういう人もいた。こうした人々の噂が渦を巻いている間にガジビエ博士は己の率いるアンベードカル博士国際ミッションの学生たち若人たちを集めて、国連ユネスコにもっていく嘆願書また多くの大菩提寺解放闘争資料その他の資料ファイルなどの整理をしていた。最後に2002719日の夕方、午後6時インドラ仏教寺にすでに佐々井バンテジーはブダガヤ大菩提寺問題を引っ提げて国連ユネスコに行くのであるということが多くのインドラ町内の人々、仏教徒民衆の知るところとなっておりましたので、佐々井バンテジーの壮行歓迎会のプログラムが持たれた。インドラ仏協会が主催者としてこの壮行歓迎会を開いたのであった。この壮行歓迎会に佐々井師が40年近く母国である日本にただの一度も帰らず、いま外国に出ると思えば、われわれ仏教徒の根本道場ブダガヤ大菩提寺解放運動を引っ提げて東方の母国とは反対の方へ西方ヨーロッパに向かい、国連ユネスコ会議に出席と聞いて、われわれは非常なる感動感激を覚えずにはいられない。佐々井バンテジーの無事国連ユネスコ行き、大菩提寺問題をこの国連ユネスコ行きが成功成満となって、また再びこのインドの大地に帰ってきてくださるように私たちナグプール仏教徒民衆は仏様に祈っていますと、人々は佐々井師の国連行きを称賛し祝福したのであった。同日午後7時、佐々井師はナグプール駅3番プラットホーム、セワグラム急行列車のそばに立った。佐々井師がナグプール駅に到着する以前にすでにプラットホームに佐々井師の欧州国連ユネスコ行き出発を見送る人々が多く詰め掛けていた。その中に佐々井師の弟子方である比丘衆も7,8人まじっていた。これらの多くの見送りの人々の中に現北部ナグプール選出の州会議員ニチイン・ラウト氏もおりまた前州会議員であったウペンドラ・センディー氏の姿も見えた。パワン・セラレー氏夫妻、シリーカント・ガンビール、ナグプール教授、佐々井秀嶺守護委員会長のダモダル・カオレー氏、カナン町仏協会長のバガワン・ニトナオレー氏、アーチャリア・ナーガルジュナ協会事務総長ヤションタラ・マヘーシュカル氏、全インド法兵軍機関誌「ダンマセーナ」編集長、エンチー・ムシュラム氏、民衆奉仕で信頼されているミリンダマネー医師、そしてアンベードカル国際ミッションの学生青年部の人々「佐々井バンテジー、アゲー、ボロ、ハム、トマラ、サート、ハエ」(佐々井師、前進せよ。われわれもあなたと共に前進する)「マハーボディー、マハービハール、キスカ?シリプ、ブッドン、カ、ハエ」(大菩提寺大寺は誰のものなのか?只、仏教徒のものである)「ブッドン、コー、ササイジーネ、ララカラー、ハエ、コイー、ボディー、コイービハール、ハマライエ」(仏教徒に向かって佐々井師は呼び叫んでいる。大菩提寺大寺はわれわれ仏教徒のものである)。このような大合唱、大唱導を見送りの民衆たちは夜のナグプール駅のプラットホームで大音声で叫び続けていた。そのためにナグプール駅構内はざわめきたち、何者ならんといった顔で皆こっちの方に集まってきた。その後、バンテー佐々井師はセワグラム急行ボンベイ行き列車に入った。セワグラム急行、S―5番にガジビエ博士と同じ列の座席に着いた。午後810分、ナグプール駅を滑るようにセワグラム急行はスタートを切った。ジュネーブの国連特別総会に出席のため、またユネスコ本部に行くために佐々井師の全身霊は全力を傾注して前方を凝視し、見つめているような鋭い風貌をガジビエ博士はボンベイに向かう列車の中で見ていた。

2002年7月20日

正午12時、ボンベイ、ダーダル駅に到着した。駅にはナーガセン・ソナレー氏、ヤションタラ・ラムテケ氏、ウイジャイモレー氏等の人々が佐々井師を出迎えに来ていた。そしてその後、佐々井師はガジビエ博士とともにボンベイ市チーフエンジニア会長(ボンベイ市技術者協会)ナーガセン・ソナレー氏の家に、ボンベイ出発までしばらく休養をとるために、ボンベイ空港にほど近いマンデラ地区の彼の家に向かった。佐々井師の休養する特別な場所をすでに彼は自宅に用意していたのであった。2002721日、いまだ夜の明けぬ午前4時、ボンベイ国際空港、エアーインディアの航空機に荷物を積み込んでいた。このために佐々井師、ガジビエ博士、ソナレー氏、ボンベイよりともにジュネーブ行きとなった一人の婦人、チャー・コブラガレ女史の四人は夜の1時ごろ、ボンベイ、チャトラパチー・シバジー国際エアポートに到着、そ搭乗の手続きをしていた。それより先にもう一人のインド原住民種族の指導者にしてその代表者として、今回ジュネーブ国連本部より招待を受けているマンジュダマダリー氏もエアポートで私たちと合流した。私たち一同の身体チェックも終わって搭乗口の方に行こうとするとき、エアーインディアの関係者たちは突然どういうわけか、私たちの荷物を機内に積み込むことも、私たちが搭乗することも反対しだしたのである。その理由について彼らは次のように言った。「あなたたちのパスポートにはフランス国ビザがない。このゆえにあなた方たちの荷物も、またあなた方も機内に入ることはできない」そのことをより集まって相談している78人の関係者の口より聞いて私たちは途方にくれた。第一に非常に困り、途方にくれているのが佐々井師であった。バンテー佐々井師は手招きをして、ガジビエ博士を一同より少し離れたところに呼んでいうのであった。これは非常にひどい仕打ちである。これは裏に回った陰謀計画のように思えてならない。その陰謀者たちはこのエアーインディアの人たちにあることないことを吹聴して、彼らとぐるになって、私たちを、特に大菩提寺解放の指導者がある私を、国連ユネスコに行くのを防止しているように思える。佐々井の陰謀的途方に暮れ、困難に会っている様子は真実のように思えた。なぜならばすでにせっかく機内に積み込もうとする私たちのスーツケース全部を再び機内から降ろさせて、私たちの前に積み重ねるように突き返してきたからである。私たちは一生懸命になって空港関係者に頼んだのでした。国連の特別総会のスタート、第一会議は722日午前10時にスタートを切ることになっている。もし私たちがこの飛行機に乗ることができなかった場合、私たちは国連総会に出席することはできないことになる。少しずつエアーインディア航空の関係者たちは私たちの必死の言葉を信用してきたらしい。そして一度積み降ろし、私たちの前に突きつけ返した荷物をまた再び機内に運ぶ自動車に入れた。そればかりかフランスに到着した後、問題が起きては大変とばかりに、私たちが別に頼みもしないのに航空券の作り替えをしてくれた。すなわち、このエアーインディア航空でまずデリー、次がフランスの首都パリ空港、外に出てはならない、飛行場の指定された待合い室でおとなしく待っていること、それより他の飛行機に乗り換えて、ジュリチャ、ジュネーブというように作り替えてくれた。そして私たちは機内に入る許可を得た。私たちのエアーインディア航空はA1―147、デリーよりパリを最終点とする航空機であった。その航空機に搭乗する私たちは、先のようなゴタゴタもあって一番最後の登場者となった。

2002年7月21日

午前8時50分、エアーインディア航空はボンベイ国際空港を後にして、天空に舞い上がった。バンテー佐々井師は約40年近い間、一度もインドより外に出たこともなく、常にインドの貧しい、虐げられた仏教徒民衆とともにナグプールを中心として生きてきた。今回初めてどういう風の吹き回しか、インドの大地を離れて、ブダガヤ大菩提寺解放の戦いをさらに全世界に向かって拡大していくために、また大菩提寺を仏教徒の手にすべて奪還せんとする決意の下に、その協力者である一行グループのS・K・ガジビエ博士、ボンベイのナーガセン・ソナレー氏を従えて、いま、ジュネーブの国連総会に出席するために機上の人となっているのである。2時間後航空機はデリーのインディラ・ガンディー国際空港に到着した。しかし外に降りて休むことは禁じられている。デリーよりパリに向かう人たちが機内に乗り込んできた。その後、私たちの乗っている航空機はこのデリーの国際空港を飛び立ったら、真直ぐにフランスの首都パリ、ボルイグ国際空港までは止まらず、長い機内の旅が続くのである。そしてほどなく私たちはその長い機内天空の旅に出発した。すべての機内の座席はいっぱい満員であった。旅の天候も雨期ながら上々である。そんなに苦しいこともなく疲れも起きなかった。航空機が天空に舞い上がってより少しの時間をおいて、私たちの前にお茶やらお菓子が配布された。その後ご飯も出た。ご飯はインド食であった。機内には軽い音楽のリズムが流れていた。また大型のテレビで映画を流していた。私たちの乗っているエアーインディア航空はどこにも中途止まらないまま、長時間の飛行を終わって、7月21日午後2時20分にパリの国際空港に到着した。インドとフランスの時差は4時間である。飛行場関係者たちは私たちがエアーインディアでこの時間にパリの国際空港に降り立つということを、彼らはすでに知っていた。それゆえにパリ国際空港の責任者たちは私たちをスイスエアライン航空機に乗せてくれ、それよりまず30分ほどでジュリチャに送った。そして再びジュリチャ空港より再び別機スイスエアラインで私たちをジュネーブに送った。かくして私たちはまあまあ無事に欧州国連本部のあるジュネーブに到着したのであった。しかし到着したその時の時間はスイス時間で夜の10時を指していた。しかしボンベイ出発時のゴタゴタもあって、また飛行機もたびたび変更したこともあって、私たち全員の荷物スーツケースはいくら待っても出てこない。そこでガジビエ博士、ソナレー氏、マラビー氏の三人があちこち奔走して調べてみると、やはり荷物は私たちとともにジュネーブに到着していないことが分かった。荷物責任局事務所に行って調査し、後便でつくことを依頼して、われわれのすべての書類に対するリポートをとってもらい、荷物の到着日は明日に期して私たちはエアポートの閉まる寸前にやっと一同外へ出た。ジュネーブエアポートに私たちを国連またユネスコに呼んでくれた最大の尽力者である数年間一家と共にアメリカに止住している技術者ヨゲーシュ・ワラディー氏が私たちを迎えに来るはずであった。しかし私たちの乗る航空機がたびたび違ったことによって、また途中降りたって、飛行機もまっすぐに一路、ボンベイ、デリー、パリ、ジュネーブとならなかったために、私たちはワラディー氏とジュネーブ空港で会うことができなかった。

私たちはワラディー氏の他にこれからのジュネーブでの落ち着き先を知らなかった。ジュネーブは私たちにとっては新天地であった。私たちはこのジュネーブについてはただ、国連欧州総本部があるところというだけぐらいで何も知らなかった。こういう次第で私たちはジュネーブエアポート周辺をワラディー氏を探してワラディー氏に会うのを楽しみにして、夜の1時まであちこち探し歩いていました。佐々井師は年のせいもあって非常に疲れているようであった。彼は言った「私たちは一晩中、夜の明けるまでこの石の上に坐っているのかい。行こう。どこか木の下、林の中に入って足を伸ばそうではないか」そうした時、ヨゲーシュ・ワラディー氏が私たちの前に、アキヒトというなにか日本の天皇様のような名前を持ったガイドマン(実は秘密警察)のような人と現れた。2人は私たちを探しにこのエアポートに再び舞い戻ってきたということであった。その後、私たちは2台のタクシーでヨゲーシュ・ワラディー氏が私たちのために落ち着くところを用意してくれていた、そこに到着した。

2002年7月22日

その時はもうすでに時間は夜中の2時だった。ヨゲーシュ・ワラディー氏を指導者として、今より私たちのこれよりのプログラムに向かって立ち上がっていかなければならない。ワラディー氏は「佐々井師は年も年だし、だいぶお疲れのご様子だから休んでください。朝早く起きていただかねばなりませんから」このようにして佐々井師を除いて私たちは明日より始まる国連総会出席のための準備に取り掛かった。すでに夜は深くふけて、ほどなく夜明けが近い時間となっていた。また長い飛行時間の旅の疲れが今ごろ一度にどっと出てきたのであろう。私たち全部のものは非常に疲れていた。そのゆえに居眠りの状態で私たちは国連総会出席の準備をどうやら終わった。午前5時の目覚まし時計がけたたましい音を立てた。私たちは水浴をして、その後、朝の軽食をいただいた。私たちグループの人は一団となって国連本部事務所に国連に出入りできる、また広大無比の国際連合内を自由に歩くことのできる認証許可パスというものを下付してもらうために行った。国際連合はその出入りが非常に厳しく、そこに出入りする人々の胸には必ず国連出入り、また国連総会出席の代表者として国連本部の内外どこでも歩けるこの認証許可証ともいうべきパスをつけていなければ誰人も通してくれない。またこの国連出入りのパスはこの国連本部より総会出席のために、その各国代表者として国連本部より招待状を得た者のみの人々に発行するパスであった。

事務所本部でその国連の門出入り、また議会出席の許可パスを交付してもらって、それを胸にピンで止め、私たち一同は国連総会第一会館ホールに到着した。その第一会館ホールではTHE UN WRKING GROUP ON INDIGENOUS POPULATIONの世界国連総会が20日間にわたって、本日の2002年7月22日午前10時より開かれるのである。私は非常にうれしかった。ジュネーブに初めてきて国連総会に出席することができたことに非常なうれしさを覚えた。ちょうど時計が午前11時を指すと同時に総会はスタートを切った。総会の会長席には。マルティー・ネージャ氏を選出した。この国連総会には全世界より少なくとも120ヶ国以上の国々の代表者で埋まっている。佐々井師も席に着き、耳に備え付けのイヤホン(聴音拡大機)をつけて一生懸命各国代表の入れ代わり立ち代わりの演説要旨を聞いていた。この国連総会には各国政府代表(この7月22日の最初の総会にはインド政府の大臣三人、日本も1人おりました。他国政府の代表も多くおりました)非政府代表(即ちこれをNGOと称して政府に関係なく外輪の各種各分野の協会、ミッション等のことを言い、例えば今、私がこの協会によって国連に出席することができたAMBEDKAR CENTER FOR JUSTIS AND PEACEとか、APOSITION PAPER ON THE DEVELOPMENT OF THE OKINAWA(RYUKYUS)とか、 またはVIOLATION ON THE  CULTURAL BUDDHIST OF INDIA等々の政府関係外の諸協会諸団体諸ミッションを指している)全世界より参加していた。私は今ここでは各国政府代表のことはしばらくおいて、この各国の政府関係代表としては無関係でこのNGO各国代表者たちそれぞれの自分たちの置かれている苦難、苦境、迫害、差別、貧困、圧迫、または迫害等の現状を聞いていて、私はこの政府外に置かれた、またはそうした政府の圧力に圧迫、踏みにじられている人々民族が世界に非常に多くいることを知り、彼らは非常な悲しみの人生を送りつつ、それでもなお立ち上がろうとしている。これ等世界から集まったNGO代表者たちの演説に同情と涙を禁じ得なかった。ただこの世界にインドの私たちのみが苦しい抑圧された人生を送っているのではない。私たちと共々世界にはもっともっと苦難弾圧されつつ生きていっている人たちがいるのである。こうしたそれぞれの国のNGO各国代表の総会における演説が続き、それを国連関係者は上方バルコニーに十方録音機を据えて、皆一言一句を完全に録音しているのである。NGOにはいろいろな方面より集まってできた非政府代表者の集まりであるが、そうした人たちの演説が進んでやがてはそれぞれ各国のムールニワシーすなわち原住民種族代表の演説も続いた。世界各国について言えることですが世界中それぞれの国には原住民という名称で呼ばれている先住民族がいて、こうした原住民種族の上に差別、不可触制、山人などの後進部族に対する嘲笑的差別迫害弾圧圧迫が容赦なく襲いかかっている。こうした原住民と呼ばれる部族の代表者がその国の政府より、また他種族よりの支配迫害を受けて生きる悲痛な号泣の叫びをこの国連総会に出席している多くの国々の代表者にきかせているのである。私たちも私たちの協会より代表を立てて、われわれインド下層民衆が抱える苦難迫害また差別、非人間カースト制社会世界を作っている。五千年来より神々の権威の下にブラーミン最上主義の権威の下にカースト制度また種姓制度より醸し出されている非権利、非人権、非宗教、非民主のことについて各国代表者に訴え聞かせる時間がいただけるはずであった。7月22日に私は聞いた。上記のTHE UN WORKING GROUP ON INDIGENOUS POPULATION総会において私たちの協会グループすなわちアンベードカル・センター・フォア・ジャスティス・アンド・ピースよりの代表者が弁論を張るであろう。私はその時間は昼の午後1時と聞かされた。それを聞かされたときより私たちは私の演説要旨を作成することに一生懸命となった。この要旨を書いたペーパー(原稿)をS・K・ガジビエ博士が演説調に読むことに決定した。この演説要旨の中にブダガヤ大菩提寺問題を入れる部分を取ることに成功せしむべきではないか、このためにヨゲーシュ・ワラディー氏とバンテー佐々井師の2人で協議話し合い、その結果その演説要旨を一同でパスせしめたのであった。この演説要旨を読む会場大ホールは本日開会の大ホール、ワーキンググループ総会議場であるがゆえに、一切、始中終すべてを通してブダガヤ大菩提寺問題を取り上げ、それのみの、演説に終始することは至難であった。それでその要旨として、他のインドカースト問題の実情をその演説要旨の中に、中心的課題とせざるをえなかったのである。しかし私たちがこの国連に出張したのはブダガヤ大菩提寺問題を一大事と観て、これを全世界の各国政府代表者、非政府代表者、また宗教者代表たちに訴え聞かせんがための今回のジュネーブ国連出席であったので、この人間権利すなわち人権問題の名目のもとに大菩提寺の問題を演説要旨の中に入れたのである。

 2002年7月23日

私たちにとっては永遠に記念すべき日となった。ブダガヤ大菩提寺問題は今までインド国の中の問題であったが、今日の日に限って、今やこの大菩提寺問題はただ単にインド国内の問題としてだけではすまされない、その国境種族民族宗教を超越して人間の自由と独立と友愛において認識される人権的生命の勝利として、この大菩提寺問題は考え直され、見つめられてゆく、将来全世界に向かっての展望である。ブダガヤ大菩提寺問題はインド国を出て全世界政府、国連総会のヒノキ舞台に躍り出て、今や大菩提寺問題は全世界各国のブダガヤ大菩提寺問題となり、放たれた野鳥は大きく、天空に向かって羽ばたいているのである。西紀2002年7月23日、午後1時の時、私たちにとっては非常に一大事の時だった。なぜならばこの演説の中より、私はすべて世界の人々の問いと答えを私たちの方にひっぱり、私の演説要旨にくぎ付けにしてしまうことであった。その時は徐々に迫ってきた。S・K・ガジビエ博士が私たちの会の代表者として、その彼の人生において最初に国連総会において自身の演説ペーパーを読んだ(別紙その原稿は同封して送る)そしてブダガヤ大菩提寺解放問題を全世界に対して詳しく次のように述べている。「現在全世界において世界仏教徒の最大聖地であるインドブダガヤ大菩提寺のような例証はないであろう。そこが最大のその宗教の全世界大地における無二無三の最大最勝の大聖地大寺でもあるにもかかわらず、その宗教の信仰者たちの支配管理によらず、かえりてその教学実践社会構成が正反対対立的立場に立つ他宗教の信仰者たちによって支配管理されているというような現実である。これはすでに300年間そうした実情の中にブダガヤ大菩提寺は支配運営されてきているのである。こうした内容の演説要旨ペーパーを読み終わったとき、少なくとも25ヶ国から30ヶ国の人々が私たちのそばにたちまち詰め掛けてきて、そのペーパーのコピーを我れがちに奪い取るようにして持っていった。そしてS・K・ガジビエ博士の雄大な弁論大会に出席したような演説に対してあちこちで各国代表者相互の話し合いが始まっていた。インド政府の代表の大臣2人も押し掛けてきて、その演説要旨のコピーを持って帰った。日本の大臣もいた。このガジビエ博士が演説をするとき、佐々井師も総会に出席して、耳に出席者一同に備え付けのやイヤホーンを耳に入れじっと聞いていた。佐々井師のその顔はブダガヤ解放闘争現場で大音声で指揮をとっている時のような真剣そのものの表情であった。そして彼佐々井師は心の中にこのように思ったことであろう。国連総会に出席してただちにその2日目、ブダガヤ大菩提寺解放闘争の声が全世界の人々の中に怒涛風雲のように渦を巻いていると。このことはわれわれのためにまた全世界仏教徒のために大いなる気迫を吐いたものと思っている。而してその後、私たちの努力注目の目的は国際連合人権高等弁務官メアリー・ロビンソン女史に会見することである。この国連人権高等弁務官というのは、パレ・ウイルソンという現在の国連本部のパレ・デ・ナシオンより少しく離れた美しい大河を見下ろす絶勝のところに位置し、ここが1920年より1933年の10年間、国際連合欧州本部があったところである。故に国連人権高等弁務官は国際連合においては副事務総長の地位にあり、国連事務総長に直接報告をする地位をこの高等弁務官が率いているのである。故に何がなんでもブダガヤ大菩提寺問題を持ってこの国連まできたならば、断じてこの現人権高等弁務官メアリー・ロビンソン女史に会見し、世界仏教徒の最大生地シッダールタ・ゴータマが成道し仏陀世尊となった全世界仏教の発祥地ブダガヤ大菩提寺の非人権非宗教的管理主義の現状と信仰、自由、独立に基づくインド仏教徒乃至、世界仏教徒への返還解放へのアピールをしなければならないと私たちは断じたのであった。国際連合が言及している通り、この人権高等弁務官はOHCHRと呼ばれ、その任務は国際社会の意志と熱意に具体的な影響を与えることによって、人権が世界的に享受されることを推進することである。故にこの国連の人権高等弁務官は人権問題に関して主導的役割役割を果たし、国内および国際的レベルで人権の重要性が高まるように努めている。

メアリー・ロビンソン女史はかってアイルランドの大統領を5年間務め、非常に偉大な大統領として全欧州は彼女に最大の敬意を表している。私たちはこの国連人権高等弁務官メアリー・ロビンソン女史にブダガヤ大菩提寺問題において、断じて会見せねばならぬ責務を感じ、その会見する道を佐々井師はヨゲーシュ・ワラディー氏に頼んだのである。ワラディー氏も現在まで約15年間国連に出入りしているが今までかような機会がなかったので、彼自身も今回は高等弁務官に会うことを決意したようで、努力すると誓った。しかしいるワラディー氏をして会見の交渉を始めてより2日3日と日が過ぎていったが高等弁務官事務所の方よりは何の返事もなかった。ワラディー氏も佐々井師も非常に疲れたように失望の色が隠せなかった。佐々井師は特に疲れ切って失望の色が隠せず、S・K・ガジビエ博士に向かって立腹心を発露した。「あなたたちは大菩提寺解放という全世界仏教徒の大問題について、深く真剣に必死になって考えていないようである。あなたたちはただインドのカースト制度、種姓制度による非人権社会、圧迫社会の問題のみ考えていて大菩提寺問題について、断じてここで取り上げなければならないという確信が見られない。もしこの国連本部に来てブダガヤ大菩提寺の件につき徹底的成就満足できないこのようなだらだらとした日が続くならば、私はこのジュネーブ国連に来たことは失敗であり無益であったと断ずる。私はそうでなくてもインドでしなければならない仕事がいっぱいある。あなたたちは私と最初の約束はただの5日間の会議といったではないか。それで私は5日間ならばなんとかしてもインドを空けることも可能として承諾した。しかしここに来てみて国連会議総会の第一次また第二次とあってその第一第二会議は連結して明月8月9日までの約20日間の期間となっている」。佐々井師の非常に立腹したような鋭い言葉が火を噴いている。国際連合は180カ国よりなる国際連合政府である。そしてこの180カ国の連合政府の人権高等弁務官すなわち国連ハイコミッショナーに早急に短時日にその会見をすることは不可能である。しかしヨゲーシュ・ワラディー氏は、その国連人権の最高機関、高等弁務官ハイコミッショナー、メアリー・ロビンソン女史との会見交渉をあきらめず、その道をより強く進めていくことを誓い努力していった。

2002年7月29日

ついに私たちのところに国連人権高等弁務官事務所の方より「会見了承」の通知がきた。すなわちこの月も末日の2002年7月31日午前10時、私たち国連認可の協会、Ambedkar Center For Justice and Peaceより三人の代表者が国連人権高等弁務官メアリー・ロビンソン女史と会見することができる。この通知に私たちグループ一同の間にはうれしさ、感激の風が渦巻いて吹き渡った。ヨゲーシュ・ワラディー氏は言った「これは佐々井師のおかげだと思っています。いくらハイコミッショナー、ロビンソン女史と会見の交渉をしても、その事務所の方よりよい返事がもらえず、私は1度は失望したが、再び努力して私たちがハイコミッショナーに会見したいのは日本の僧侶で、インドですでに40年近くもインドの貧しい非人権抑圧を受けている民衆とともに生きている仏教僧です。ブダガヤ大菩提寺の非人権的非権利、解放のことについて遠いところより66歳の老体をもって、わざわざロビンソン女史、ハイコミッショナーに会いに来たのです。というように佐々井師の名前を出して、たびたびお願いしてみたのです。そしてブダガヤの問題ということをアピールした。このことによって今回、国連人権高等弁務官ロビンソン女史と会見できるというありがたい通知をいただけたものと思われる。故に佐々井師のおかげでわれわれもまたロビンソン女史に会見できる」と言い、佐々井師の存在というものをこのヨゲーシュ・ワラディー氏は改めて認識したと、そのとき彼は私たちに話した。私たちはこの時、私たちのグループ全員一同、改めてブダガヤ大菩提寺解放問題を真正面より見つめ前進してゆくことを誓ったのでした。この全インド仏教徒への非人権的非宗教的ブダガヤ大菩提寺管理権問題を国際連合人権高等弁務官の前に置き、アピールし、この国連人権高等弁務官の機関を通して、それを国連事務総長に報告提議することは断じて実現せねばならない私たちの不可欠の基本的条件であると、私たちグループ一同は確信した。一同私たちは会見可能となったことを歓喜して他のことはほとんど放置し、手につかないような状態であった。しかし会見人数は三人と限られておりこの私たち協会の中にロンドングループ、インドグループ、アメリカグループの中より誰彼の内より三人の代表を選ばなければならない。誰と誰が会見するのかという問題が起きた。このことについて私たちの話し合いは我等のアンベードカル協会名でこの国連総会に出席した人数は合わせて1三人であった。インドより6人、英国ロンドンより6人、アメリカより私たちの協会会長であるヨゲーシュ・ワラディー氏である。話し合いの結果決定した三人はヨゲーシュ・ワラディー氏そしてバダンタ・アーリヤ・ナーガルジュナ・秀嶺佐々井師とS・K・ガジビエ博士のこの三人が国連高等弁務官国際連合副事務総長、メアリー・ロビンソン女史に会見するということが決定した。私たちはこの国連人権ハイコミッショナーと会見するということは非常に重大な意義を持つものと判断した。なぜならば私たちはこのアンベードカルセンター・フォア・ジャスティス・アンド・ピースというワラディー氏設立結成の協会が国連参加団体、N・G・Oとして認定されてより6年経っている。この6年間、私たちは常にこの国連最高部の人権高等弁務官に会う努力をしてきたが現在まで実現していなかった。そして事実、私たちはこの国連最高部との会見ということは不可能事であると現在まであきらめていた。それが今回実現可能となって、私たち一同は歓喜で一杯であった。それもその会見目的が全インド不可触民解放へと直結しているブダガヤ大菩提寺解放という大問題を前提においての国連最高部との会見であるということに、もう一つの大きな誇りと意義を私たち一同は全身全霊に感じていた。7月31日、私たちはこの国連人権高等弁務官との会見に臨み、大菩提寺解放に関する一切の書類を整理して提出するファイルまたアピール文書の作成に取りかからなければならなかった。私たちは7月30日の夜、横になることの時間がなかった。バンテー佐々井師自身、この夜は午前3時に横になった。S・K・ガジビエ博士、ヨゲーシュ・ワラディー氏の2人は一晩中午前5時まで、手持ちコンピューター機の前に座して、ハイコミッショナー、メアリー・ロビンソン女史に提出するアピール文書の作成に余念がなかった。

2002年731

すでに会見の日となっても私たちのアピール文書作成の仕事は完了しなかった。ようやくアピール文書作成を完了すると同時に、私たち一同は高等弁務官ロビンソン女史との会見のためにマンダタ・インターナショナル・ゲストハウスを出発した。国連人権高等弁務官官邸は先に述べている通り、国連欧州ジュネーブ本部のあるパレ・デ・ナシオン地区より車で約15分ほど離れたパレ・ウイルソンというところにあった。先にも言ったようにこのパレ・ウイルソンが1920年より1933年の10年間、国際連盟の本部であった。1875年にスイスの建築家ジャック・エリゼ・ブスによってホテル・ナショナルとして建造された。1920年アメリカの大統領ウッドロー・ウイルソンに敬意を表して現在のパレ・ウイルソンの名称が与えられた。スイス政府の好意で、このパレ・ウイルソンは国際連合人権高等弁務官本部の設置が可能となったものである。私たち一同はこのパレ・ウイルソン国連人権高等弁務官本部に到着後しばらくしてその代表三人、バンテー佐々井師、ヨゲーシュ・ワラディー氏、S・K・ガジビエ博士たちは高等弁務官室に、その警備の人たちに連れられて行った。国連人権ハイ・コミッショナー、メアリー・ロビンソン女史は彼女の秘書、事務長とすでに私たちの来るのを椅子にかけて待っていた。
ヨゲーシュワラディー氏らと共に国連高等弁務官事務所へ

私たち三人がロビンソン女史の会見室に入ると同時にロビンソン女史は椅子から立ち上がって佐々井師に敬意のあいさつをするために佐々井師の方に近より前に立った。佐々井師は彼女の前に深く頭を下げて合掌した。こうしてロビンソン女史は私たち三人の入来を歓迎した後、私たちに椅子に腰を下ろすように言われた。

そして彼女自身も秘書、事務長ともに私たちとともに椅子に腰掛けた。まず国連人権高等弁務官メアリー・ロビンソン女史との歴史的会見のまず切り出しは、佐々井師をして再び立ち上がり、かねてより、もし国連最高部の人たちに会うことが可能の時は、自分自身の手によって寄贈プレゼントをせんと思って、はるばるインドの地より持ってきていた50センチ大ほどの仏像を両手にいただきロビンソン女史の前に近づいた。同時にロビンソン女史また合わせて一同椅子より立ち上がった。佐々井師はまずその仏像を自分の両手に捧げ、掲げて「ナモータッサー、バガバトー、アラハトー、サンマーサンブッダッサー」(この世においてもっとも聖なる無上尊、、すべての十方より供養を受けるに相応する無上尊、すべての法を宣説するに相応する無上尊、この世において最高の智恵と慈悲を体得せし無上尊、われわれはこのような無上尊、タターガタ・サンミャクサンブッダに対して帰依帰命し奉る)と彼本来の大音声でお祈りをした。そしてそのお祈りをした仏様をメアリー・ロビンソン女史に贈った。彼女は贈られた仏像を両手にいただき大変感動感謝しているように見えた。そして再び一同椅子に腰をおろした。その後私たちは会見の趣旨本眼目に入っていった。佐々井師をこの会見の先達導師として話を進めていった。佐々井師はブダガヤ大菩提寺大闘争の足跡、10年間の記録を、またインド大統領、首相、ビハール州首相、等と大菩提寺解放に関する一切文書を要領よくまとめた保存資料文書3巻、これも国連人権高等弁務官ロビンソン女史に、その時に今後インドブダガヤ大菩提寺国連管見用として提出した。そしてそれらの3巻の解放闘争運動の記録書に沿って佐々井師は具体的にヨゲーシュ・ワラディー氏の通訳によって、ロビンソン女史にアピールし懇々と告げた。そして時々女史の質問を受け、そのことに対して佐々井師、ロビンソン女史はまた話し合いという形で進められていった。女史はその佐々井師のアピールまた話し合いに質問も幾度もし、自身、インドブダガヤ大菩提寺の歴史、現状、管理、解放等々の諸問題を全身に把握し理解しようと真剣に佐々井師の言葉に耳を傾けており、それを筆記記録するように秘書に命じていた。ブダガヤ大菩提寺は単にインド仏教徒のみの聖地ではなく全世界仏教徒全世界民族の無二無三の大聖地である。このところにおいて過去BC600年ごろシッダールタ・ゴータマは成仏して釈迦牟尼仏となったところ、それによってこの地は仏陀出生の大聖地全世界仏教発祥地の源泉根本道場であることを佐々井師は必死になってロビンソン女史に向かって説き明かし、アピールしていった。そうした世界仏教徒最勝無二の大聖地総本山たるブダガヤ大菩提寺の管理は本来的に歴史的に仏教の破壊的立場に立っているヒンズー教徒ブラーミンたちの手によって管理支配されている。そして彼らの管理してきた約150年前より、現在まで彼らヒンズー教徒またブラーミン達の管理によって、その全世界仏教徒の大聖地はめちゃめちゃに蹂躙され尽くされていると佐々井師は述べていた。こうした佐々井師の陳情アピール報告を聞いて、国連人権ハイコミッショナー、メアリー・ロビンソン女史はその全身全霊に悲痛な悲しみを表示していた。メアリー・ロビンソン女史に仏像を贈呈
そして彼女はその悲しみが心の中にわき起こるたびごとに、そばで記録している彼女の秘書、事務長に指でサインを送り、この大菩提寺の問題は大変非常な切迫した重要問題である。この問題は早急に解決への道にもってゆかねばならない。秘書はこれを詳しく記録していた。このように佐々井師を先頭にした私たちと国連人権高等弁務官メアリー・ロビンソン女史の大菩提寺問題を中心とした歴史的会見は最初ただの10分間という予定であったが、それを優に越して約45分間にわたる会見時間に終わった。この国連最高部高等弁務官メアリー・ロビンソン女史との会見成功によって、私たち全世界仏教徒の勝利の行進はその大菩提寺解放への新しい世界的解放闘争への展開として出発したのであった。

さてこの国連最高部との会見は成功として、ブダガヤ大菩提寺解放勝利への行進の旅路は、さらに前進してこれまた大菩提寺解放への最大目的地、フランスの首都パリにあるユネスコ本部への勝利の行進を進めていくことであった。今年2002年6月30日、ユネスコはインドブダガヤ釈尊成道の大聖地、大菩提寺全域を世界文化遺産に決定指令したことをインド全紙にわたって発表した。そのことについてユネスコに行き、事務総長ディレクタージェネラルは佐々井師の母国日本の人と聞いている。そのユネスコディレクター松浦晃一郎氏に断じて会見しなくてはならない。ユネスコ本部はフランスの首都パリにある関係上、そのユネスコの事務総長ディレクタージェネラル松浦晃一郎氏にまず連絡をとり、その会見の日時をいただき、それによって私たちはブダガヤ大菩提寺問題を引っ提げてフランスのパリに到着し、ユネスコ本部を訪ねていかねばならない。このことについてもヨゲーシュ・ワラディー氏は非常な努力を払った。ジュネーブの国連事務所の2階にユネスコとの連絡関係をつかさどるユネスコ国連事務所がある。そのユネスコ連絡国連事務所を通してワラディー氏はユネスコ・ディレクター・ジェネラルの松浦晃一郎氏との会見を実現しようと努力していた。しかしこれも連絡して連絡して努力して努力して、最後に向こうよりの連絡通知で分かったことはユネスコの事務総長松浦晃一郎氏は、アフガニスタン、バーミヤンの大仏破壊のことで現在彼の地の方へ出張しており、ユネスコ本部には不在であるということを知った。故にその代わりとしてユネスコの副ディレクタージェネラルの地位にあるこの人も女性の方であるがミンジャ・ヤング女史と会見は可能であるということであった。こういうユネスコよりの通知が来た以上このことについて私たちグループの人々は、佐々井師、ヨゲーシュ・ワラディー氏等と話し合い相談した後、フランスの首都にあるユネスコ本部に行くべきことを決定した。しかしそのフランスのパリにあるユネスコ本部に行くには、このジュネーブにあるフランス大使館に行って、スイス国よりフランス国に入るフランスの入国ビザを必要とする。また首尾良くユネスコにおいて私たちとのブダガヤをめぐっての問題に関与して会見会議をし、それを終了せしめて後はまたフランスを後にしてこのスイス国ジュネーブに帰ってこなければならない。しかればフランスよりスイス国に入るスイス入国ビザをも断じて取っておかなければ私たちは2度とスイスに入れなくなる危険性を持っている。こういう相談話し合いの結果、私たちは行動を起こした。2002年8月5日、私たち4人、即ちヨゲーシュ・ワラディー氏、佐々井師、S・K・ガジビエ博士そしてナーガセン・ソナレー氏の四人は、この日一日中国連会議に出席せず、ジュネーブ市街を歩き回り、フランス大使館、スイスビザ申請所事務所、フランス、スイス、スイス、フランス往復入国ビザを取得した。佐々井師、ヨゲーシュ・ワラディー氏、S・K・ガジビエ博士、ナーガセン・ソナレー氏のこの4人代表がフランス、ユネスコに行くことを決定した。フランスに行くのに飛行機で行くのが時間的に最もよいのであるが、私たちにとってはとてもお金のかかることなので、それを心配して飛行機でパリに行くことは断念してジュネーブよりパリ行きの超特急列車で行くことに決めた。決定した以上はフランス行き往復超特急列車のチケットを購入し、リザーベイションもしておかなければならない。2002年8月6日早朝6時のジュネーブ発フランス、パリまたパリより同日夕方ジュネーブに帰ってくる、そうした列車の往復チケットのリザーベイションも終わった。付するならばユネスコ本部は私たちとの会見時を2002年8月6日午前11時と決定して与えてくれている。故にその会見時と合わせてみて、同日午前6時超特急列車にてフランスへ行くのが時間的にちょうど良いとみていた。8月5日午後2時ごろまで、フランス、ユネスコ行きの往復二国の入国ビザ、また列車の往復チケット等すべてのフランス行き、またスイスに帰ってくることの手続きを完了して、国連総会のSUB・COMMISSIONに出席するために、そこに到着した。サブ・コミッション会議は午後6時まで続いた。会議終了した後、私たちグループ一同はマンダタ・インターナショナル・ゲストハウス(国連本部より車で北方約20分の地点、山林の中の一軒家に20人くらいの人達が泊まれる。山林中の一軒家であるから非常に空気が清く静かで、別天地のようなところと思った。前方にはジュネーブを囲む連峰が望める。またこの宿舎の地点はジュネーブ・エアポートに近いのかひっきりなしに飛び交う飛行機がこの宿舎の前、私たちのほんの目の前を通り過ぎる。時にはこの私たちの宿舎にぶつかりはせぬかとそんな近距離で国連都市ジュネーブの航空機はひっきりなしに飛んでいる)への帰路についた。

帰り支度をして私たちが広大無比の国連総会ビルディングを外に出たとたん、佐々井師が苦しみながら言い出した。「ガジビエサーブ、私は腹がひどく痛み出した。歩けそうにもない」S・K・ガジビエ博士は佐々井師に言った。「バンテジーあなたは私の方にもたれ何としても国連入り口までは頑張ってください。歩けますか。国連本部入り口の外に出たら、どこか病院にお連れしますから頑張ってください」その私の言葉に答えるだけの力がなかった佐々井師は苦しげにただハーハーというだけで言葉も出ないほど苦しんでいた。佐々井師はもはや背を丸めてうずくまってフラフラしながらゆっくりゆっくり前方を見ながら国連本部西方入り口の方に向かってゆく。ガジビエ博士はそんな佐々井師の背をさすりまた手をとって、大丈夫ですか、ここで休んでください、もう歩かないでくださいと連発してかなり慌てふためいていた。佐々井師はなんとかして国連入り口を出るまではと歯を食いしばって、もうほとんど一歩も歩けないような状態の中で背を丸め腹部を押さえ、もつれるような歩き方で、一歩一歩全力を傾けて国連入り口の方に這うように歩いて行く。しかしはたで見てもわかることだが佐々井師の腹痛はすでにただの腹の痛みというものではなく、呼吸が止まり前進の激痛に変わってきてその病状はますます募るばかりとなり、いつ呼吸が止まり国連内の芝生の上にぶっ倒れるかもわからない、全くの危険危篤状態となっていった。ガジビエ博士は佐々井師の一切責任者ということ、一切の今回の国連行きは始中終、ガジビエ博士が一切の給仕世話をしてくれているので、全く予期もしない佐々井師の発病であわてふためいて、もうその声はオロオロ声になっている。佐々井師の背中に手に体に全身をぶつけるようにしてさすり、大丈夫か大丈夫か、ここで休め、救急車を呼んでくるから。しかし佐々井師はもう言葉も出ないようである。無言で這うように倒れるように歩きつつ国連のゲートの方に歩いて行く。そのようにして必死の面もちで最後の力を総身に振り絞って、国連内で倒れまいとするその最後の一念で歩いていた。国連ゲートを出るまではなんとか頑張り抜かなくてはならない。這うように総身の力をかけてせむし男のように丸く低くうずくまって歩いている姿をガジビエ博士はハラハラと心配でもはや佐々井師の姿を見る力もなかった。国連本部西方チェックゲートを出たとたん佐々井師はその歩道に打ち倒れ、苦しみに顔はゆがんでいた。国連入り口を出たとたん一歩半歩も歩けない全身の激痛に呼吸も乱れ心臓発作のような状態となって全身霊の筋肉をギューンと激痛が引きちぎってゆくようで遂に倒れてしまった。国連西方チェックゲートを出たとたん倒れたものだから、国連チェックの守護警官たちはこれまた驚きふためいて駆けつけてきた。私たちのグループはこのことをほとんど知らない。私たちグループ一行としては私たちガジビエ博士の2人は最後に国連総会会館を出ている。私たちのグループは後の方で佐々井師が死ぬかどうかというほど苦しんでおり、ガジビエ博士も半泣きの状態で私の背をさすり、腹部の衣類一切をとって腹部を押さえて手当てをしている。しかしただひとりナーガセン・ソナレー氏が私たちよりも一歩遅れていたと見えてこの入り口のところにまで来て、黒山のような人だかり、何んであろうと覗いて佐々井師とガジビエ博士の姿を見てびっくり仰天、ガジビエ博士とともに私の看護に当たる。ガジビエ博士もナーガセン・ソナレー氏の姿と彼が佐々井師の看護の世話に当たったのでようやく彼は本心に立ち返り、勇気が出てきたようである。そして国連守護の関係者の人、4〜5人駆けつけて共々、佐々井師の身体を看護した。時間はちょうど国連総会各コミッションの会議が終わって180ヶ国代表の老若男女すべて各国政府代表、非政府代表のすべての人が大波を吐き出すように国連総会会館からはみ出るようにして、それぞれの宿舎に帰っていく。すべて国連チェックゲートをへて外に出てくる。その180ヶ国代表の多くの人々群衆がこの国際連合チェック大門の外の歩道に仰向けなって白い大きな腹を出してウンウン苦しみ唸っているものだから、しかも法衣をつけた一人の坊主である。腹だけ大きく丸く出している。みんな走りよってきて周囲はたちまち黒山のような人だかりとなってしまった。ガジビエ博士はこれは大変だ、早く救急車を呼んでください。佐々井師に万が一のことがあったら大変だ。すべて私の責任となってくる。そんなことをわめきながら国連守護官たちに至急、救急車を呼んでくれるように依頼した。国連守護官の人たちはすぐ国連よりの直接電話にてジュネーブ国連大学病院より救急車を呼んだ。それまで国連守護官の中に2人は病人看護の心得がある人とみえて、何か診療器具を走り持ってきて血圧を測ったり、呼吸の具合を点検したり、腹や胸の方をポンポン叩いてみたり、何か胸や腹に5ヶ所ほど何かを貼ってしまった。要するに貼り薬というのであろう。佐々井師の息はとぎれとぎれのようであった。もはや彼佐々井師の口から声とか言葉が出る余裕もなかった。ただ目をつむり顔を苦しそうにゆがめ、一切腹部の衣類を除き、真っ白い大きな66歳の腹が大きなお月さん、大きなお正月のお餅のように覗き、胸は苦しく波打っている。いわば180ヶ国の国連総会に出席した帰路の群衆人だかりは遠くから見れば何か見せ物を見ているような光景の中で、佐々井師はただ一人苦しんでいた。私たちのヨゲーシュ・ワラディー氏、マラビー氏またロンドンの代表たちはもうすでに、この先方のところまで毎日出迎えに来るマンダタ・インタナショナル・ゲストハウスの車で宿舎に帰ってしまった後の出来事で、私たちグループの人たちもここにいるガジビエ博士、ナーガセン・ソナレー氏を除いては、後方にこんなことが起こっているなど誰ひとりとして知る者もない。約20分後、医師2人と共にものすごい警笛を鳴らして救急車が国連入り口ゲート前で止まった。しかしこの時、この救急車が国連ゲート前に到着したのを見たとたん、佐々井師の口より細かい苦しそうな声が漏れた。ガジビエ博士はおおいかぶさるようにして何を言っているのか耳を佐々井師の口元に近づけた。「ガジビエサーブ、私は病院に行きたくない」なぜならば明日私たちの会見はパリにあるユネスコで行われる。このことを念頭に入れての佐々井師の細い声であった。そのようなことを念頭に入れてか、また苦しい息の下より佐々井師は言い出した。「私は自分の生命を守ることはできない。私は大菩提寺問題が私の生命以上に案じられて心配でならないのだ」医師2人は異口同音に行った。「あなたは病院へ行かなければならない」このように言って医師は佐々井師を起こして救急車中に運び寝かせるように命じた。5,6人で佐々井師を起こし、十分な設備の寝台に佐々井師を寝かせ、その佐々井師の寝た寝台をそのまま救急車の中に入れた。佐々井師と共にガジビエ博士、ナーガセン・ソナレー氏の2人が私の生命に万が一間違いがあったら大変とその世話給仕等を兼ねて病院に行くことになった。宿舎のマンダタ・ゲストハウスに帰りついていた他の私たちのグループには、さっき国連ゲートの電話を借りて一部始終を告げ、これより病院に行くことを告げている。インドでこんな救急車で病院へ運ばれることは、確か一度か二度この40年近い歳月で記憶している。救急車の中で佐々井師は国連都市ジュネーブの超現代的医療器具で十分な手当てを受けた。国際都市国連欧州本部ジュネーブの都心を佐々井師の体を気遣って、救急車はけたたましい警笛を市中いっぱいに響かせながら、どこもストップせず一直線に走り20分後にジュネーブ国連大学付属病院に到着した。佐々井師を寝台のまま救急車より降ろして、そこより車いすに佐々井州を乗り換えさせて、車いすに乗せられて国連大学付属病院の広い長い廊下を運ばれた。医師たちは佐々井師を診療台に横にして診察をはじめだした。佐々井師の全身を点検診療した。一応の診察後、ガジビエ博士、ソナレー氏の2人に医師たちは言い残して去った。「佐々井師を入院せしめねばならない。まだすべての診察は終了していない。いま急を要する患者がいるので、そこにまず行って帰ってくる。佐々井師をすべて診察して完全にもはや安全だと目鼻のつくまでは、佐々井師は入院していなくてはならない。私たちは医師として彼をこのまま放逐することはできない。国連総会代表者には私たちはジュネーブ国連大学の病院として、医師として十分の責任ある治療を彼に与えねばなりません」このように告げた。この医師たちの言葉を聞いて私たちにはジュネーブ国連大学付属病院が何か私たちを閉じ込める牢獄、檻の中にいるように私たちには思えた。ガジビエ博士は医師の言葉を信用して、私を入院せしめるためにあちこちの各科入院事務室に行き、その入院手続きのために奔走し始めた。ナーガセン・ソナレー氏は病院の車いすで横たわり休んでいる佐々井師に付き添っている。約15分後、入院事務室で佐々井師の入院手続きを一切完了してガジビエ博士は佐々井師とソナレー氏のところへ帰ってきた。そして佐々井師の顔色とその体の様子を見てガジビエ博士は非常にうれしくなり元気づいた。佐々井師が言い出した「逃げろ!今私は私たちのゲストハウスに帰るんだ!」ガジビエ博士は佐々井師に行った「バンテジー、ユネスコよりもあなたの命の方が私たちにとってはかけがえのない大切なものだ」佐々井師は言った「おまえたちは気でも狂ったのか。今私はすべてよくなった!歩くことも走ることのできる人だ。私の出入りの息も調子ができてきた。さあ、行こう。おれたちは病院より脱出しよう」ガジビエ博士とをナーガセン・ソナレー氏は言った「バンテジー、私たちは私たち自身の気持ちで病院には来られます。しかし自身の気持ち気ままよりこの病院は国連大学病院である。脱出することはできない。私たちはもう一度、医師たちに尋ねてみます。その許可が出たら私たちは自分たちの宿舎に帰りましょう」ガジビエ博士とナーガセン・ソナレー氏は病院の医師に尋ねるために再び佐々井師のそばを離れた。佐々井師担当の医師は答えた。「あなたたちは自分の気ままでこの病院を出ることはできない」ガジビエ博士が行った。私たちにはあなた方医師に差し出すお金を持っていません」医師は言った。「クレジットカードを使用すればよい。(すべてジュネーブでは電話でもバスでも船でも食堂でも何でもパスである。1カ月間のそれらのパスを借りているのである)私たちは言った「私たちはそのクレジットカードというものを持っていません」これを聞いて医師は私たちに一つの条件をつけて退院してもよいと言った。その医師の2人がいった条件とはもし万が一、夜中に佐々井師の身体に何か変調の起きた場合はあなたたちは私のところに電話して通知をください。私方ですぐにマンダタ・インタナショナル・ゲストハウスに救急車を差し向けますから。国連総会に出席した人と聞いて、国連大学付属病院のそれを担当する医師としての責任がありますから。ようやく病院の許可を得てガジビエ博士ナーガセン・ソナレー氏の2人は佐々井師のところへ帰ってきた。佐々井師はもうすっかり良くなって意気旺盛なところを2人に見せた。佐々井師自身が己れの身体と戦い抜いてきた現在までのインドの大地に生きてきたことを知っている私たちには、その佐々井師の意志と信念と自覚がかくも短時間であれほどの死の一寸手前のような状態より、また元の旺盛な全身霊に復活するということは私たちには全く驚くべき出来事である。佐々井師は真っ先に病院外に出ることを望んでいるかのように私たちを急き立てて、先に立って堂々と大象のごとく歩き出した。私たちも共に外に出た。国連大学付属病院外に出て夕方の空(ジュネーブの日の暮れるのは午後の10時頃となる)青空に両手を力いっぱい伸ばして大きく胸を張って、突然佐々井師は「ウオーシ!」と一声大きなそれは人間の叫びとは思えない奇妙な大竜がうなるような声を張り上げて、私たちを驚かせ、唖然とせしめた。佐々井師は私たちに向かっていった。「ガジビエ・サーブ、ソナレー・サーブ、私は檻の中から解き放たれた虎のようで心身共に軽くなった。さあ行こう。さあ帰ろう。私たちの宿舎に向かって」この佐々井師の誓願力というものをまたまた見せつけられて、ガジビエ博士もソナレー氏も共々びっくりした。これが佐々井だ!過酷な陰謀の渦巻くインドの大地で40年近く極貧民衆の中で生き抜いてきた彼の力、バンテジーの大悲願心の力を。2時間前、あの国連チェック大門の横に打ち倒れていた佐々井師にはその生命の上に死への暗雲が漂っていた。今みよ!佐々井師の全身霊にはそのような病める病者なる暗さのひとかけらも見ることはできない。明日のユネスコ行きを控えて佐々井師の真精神とその大願力を試練せしめた仏陀世尊の大悲心であったのか。

そこよりタクシーを拾って三人は自分たちの山林深い森の中に仙人の住む家のように、ただ1軒建っている自分たちの宿舎マンダタ・ゲストハウスに帰り着いた。私たちのグループは佐々井師のことを大変心配していたので67歳になろうとする非常に元気旺盛そのものの姿を見てびっくりして、病気であったとすることなんか信用せよという方がおかしいくらいだというような顔で、良かった良かったと一同祝福してくれた。そしてみんな一同大声で手を打ち叩いて喜んでくれた。そして皆一同佐々井師の身体がゆっくり明日のユネスコ行きの大事に備えて休むことを要求した。「バンテジーあなたは休んでください。明日はユネスコに行かなくてはならないのですから」佐々井師も一同の忠告をまじめに聞いて、2階の私たち三人の部屋に入っていって体をベッドに横にした。いや私たちはそう思って安心していた。しかしそれでもまた苦しんでいるのではないだろうかと思って2階の私たちの部屋に行って見てまた驚いた。佐々井師という人は休むことも眠ることも本当にはできない運命の人のようだ。明日ユネスコ本部に奉安するもの、嘆願するもの、アピールするもの等々のすべてを完全に整理してユネスコに持参しなければいけない。それ故にこれら一切の文書はインドからユネスコへと思って持参してきたものである。ユネスコ本部に奉安すべき文書は少なくても10冊からなるファイルそのファイルの表紙にはすべてユネスコに奉安する目録を英文で示している。すなわち「ユネスコ奉安目録」である。それ等、また他の一切文書を以てユネスコに行きユネスコ本部との会見会議において、その奉安目録を書き込んでいる10冊のファイル、すなわち10年間にわたる、なお永遠に脈打つブダガヤ大菩提寺解放闘争の各方面よりの各種の大記録であり、また4年間にわたる大菩提寺解放運動をめぐってのビハール州政府を相手どっての最高裁判の大記録文書であり、いまひとつの最高裁判の記録文書は100年前、ブダガヤ大菩提寺解放闘争の歴史はスリランカの仏教徒大居士、アナガリカ・ダンマパーラ師に端を発しているのである。大菩提寺を解放せんとする意図において、アナガリカ・ダンマパーラは大菩提会を全インド各地の仏蹟に創立せしめたものである。しかし今の大菩提会はすべて創立者アナガリカ・ダンマパーラーの意思行動誓願に相反して、ヒンズー最右翼の要人と相組んで私たち全インド仏教徒10年間の大菩提寺解放闘争運動にはいつもヒンズーブラーミン衆と相組んで私たち全インド仏教徒の解放運動を妨げてきた。それはともあれ、大菩提会の創立者、大菩提寺解放の父と称されるアナガリカ・ダンマパーラ師の100年前の最高裁判において可決せしめた勝利的文書、またそれに反対するブダガヤヒンズー教法主マハンタギリの反論文書(このヒンズー教法主、ガヤ地区、ブダガヤ地区のマハンタギリは大菩提寺管理委員会の永世メンバーとして1948年〜49年のビハール州制定のガヤ・メインテンプル・マネージメントコミッティーすなわちブダガヤ大菩提寺管理委員会の規約に明記されている。一時の大菩提寺は事務総長もブラーミン、管長スプリテンドもブラーミン、またこのメンバーもマハンタギリ永世におけるブラーミンの時もあった。このマハンタギリは現在もなお永世メンバーとして管理委員会に実力を持っている)すなわち100年前の大菩提寺解放の出発を飾っているマハボディー・ソサイエティーの創立者アナガリカ・ダンマパーラー師の当時英国治領下における最高裁判の勝利的判決文書(しかし惜しいかなダンマパーラー師の最高裁の判決は勝利的判決であってもアナガリカ・ダンマパーラー師をして最高裁における主眼目が異なっていたために勝利的判決を可決せしめるも大菩提寺はダンマパーラー師のもとに帰ってこず、ダンマパーラー師はヒンズー教徒たちのダンマパーラー師に対する打擲で多くの傷を受け、自身の生命の危険を感じ、その己れの生命を守護すべく、またヒンズー教徒の処罰を願っての最高裁への裁判要求をしている。それゆえ勝利的判決が下っても大菩提寺は返還されなかった。

また次に1993年に始まる佐々井師が中心となって大菩提寺問題を最高裁に訴え、それより4年間裁判をしたが、当時アヨッジャの問題もあって(アヨッジャは25年間、裁判をしているがまだ判決は下らない)ブダガヤの最高裁の道は至難となった。国会などで質問、答弁などは一切最高裁にブダガヤ問題がある限りできないのである。こういうことで何十年先になるかもしれない大菩提寺問題の最高裁の法規的勝利への道は断念せざるを得なかったのである。佐々井師の最高裁の裁判は4年間続けられたが、しかし実際に裁判したのはただの2回であった。ビハール州政府の反論文書等々、また5年前頃より始まる現在インド中央政府(インド民族主義を鼓吹する最右翼ヒンズー原理主義者がこの政府には多い)を主体としてヒンドゥートワ(ヒンズー教精神)の思想実践を以て全世界ヒンズー教と全世界仏教徒を回教、キリスト教と真っ向より対決相対立しているヒンズー教徒は何としてもこのとき仏教をヒンズーの方に味方につけねばならないとして、また一方真実の仏教を骨抜きにしてすべてヒンズーと変わらない、そうしたヒンドゥートワ、即ちインド教精神に輪をかけて、ヒンズー教と仏教は兄弟である。仏教はヒンズー教の一分派である。仏陀はビシュヌ神の化身である、とするそうしたヒンズー教、仏教一体論を鼓吹して、各仏陀世尊の四大仏蹟に「ブッダ・マハー・ウシサオ」仏教大祭を中央政府が主体となって行っている。この仏教大祭に世界仏教国の僧侶たちまた仏教徒たちも全世界からくる。しかしこれはヒンズー教精神の陰謀であり、仏教徒をヒンズー教徒の味方にせんとすることと、仏教そのものをヒンズー教とせんとする、仏法を滅亡せしめんとする大陰謀である。私の最高裁大菩提寺問題に対するビハール州政府の反論として上記のヒンズー精神に立脚した大陰謀であるところの仏教、ヒンズー教は兄弟、仏陀はビシュヌの化身、仏教はヒンズーの一派である、等々の、上に方に述べたヒンズー教精神(ヒンドゥートワ)に立ってビハール州政府は反論している。しかしこれは法律的反論とはなっていない。また現中央政府を主体として5年前よりインド・ネパールの仏教遺蹟に展開されている「仏教大祭」(ブッダ・マハー・ウシサオ)なるものも虚偽性がだんだんとして見えてくるのである。すなわちこれもまた法律的ではなくヒンズー教指導者たちの仏教をヒンズーの中に包み、本来ヒンズーの最大法的とされた仏教をヒンズー教化した仏教とせんとする陰謀の黒雲が大きくその後方に渦巻いているの知る。仏陀の四大聖地に世界の仏教徒は仏教の大祭をインド中央政府で主催という甘言に魅せられてきているが、仏教の力、仏教の教義を骨抜きにするヒンズー教精神の大陰謀である。すなわち幾度もいう。仏教、ヒンズー教の一体観。本身化身のヒンズー教、仏教の一体観。ヒンズー教、仏教の兄弟義を樹立せんとするヒンズー教、仏教の一体観。仏教はヒンズーの一分派であるとするヒンズー教、仏教の一体感。インド最高裁は過去において各州に起生したヒンズー教、仏教の闘争の判決文書を残している。最高裁の両教に対する判決は五例ほどの判決において、ヒンズー教と仏教は根本的に相異し相入れないもので、ヒンズー教と仏教はすべて根本的に独立した宗教である。このことは今年初めの頃の国会においても、佐々井師のブダガヤ大菩提寺問題の最高裁の裁判で弁護士役をしていたシャンティー・ブーシャン最高裁弁護士が明然とこの両教を法律的には各々独立した根本的に両教は相入れない教学世界観を持っているものであるとしている。こうした最高裁判所の両教の相違、両教各々独立した宗教、両教各々の本質、教学の根本的相違の判決文書、また佐々井師は10年間にわたるブダガヤ大菩提寺解放闘争の過程において、インド歴代大統領に差し出したアピール嘆願文書またはその返書、インド歴代首相への大菩提寺解放へのアピール嘆願文書と返書、同じくビハール州首相に対する大菩提寺解放へのアピール嘆願文書と返書、またソニヤ・ガンジー女史(故ラジブ・ガンジー首相の妻、現在亡夫の遺志を継いで政界に入り、野党第一の国民会議派全国会長を務めている)の要求にてブダガヤ大菩提寺管理委員会規定文書2000年の新規則を仏教徒一同で作って、こうした仏教徒管理のこうした規則による大菩提寺管理委員会規則書を必要とする、といってソニヤ・ガンジー女史に差し出した私たち仏教徒のみで仮に作成して提出したブダガヤ大菩提寺管理委員会2000年創定規則と題する文書、合わせて1948年〜48年ビハール州政府制定の非人権的非宗教的ガヤ・メインテンプル・マネージメント・コミッティー(ガヤ大寺管理委員会)文書、この1948年〜49年度ビハール州政府可決による大菩提寺管理委員会規則書による管理は現在もなお続いている。私たちはこのビハール州政府によって1948年〜1949年に創定せられた非人権、非宗教、非憲法的、非仏教的ガヤ大寺管理委員会規則の変更、またこの法規の破棄、新管理委員会規則の作成実施をめぐって、10年間の大菩提寺解放運動を展開してきているのである。また日本よりの大菩提寺解放を嘆願しての岡山、新潟、広島、東京、神戸、大阪等を中心とする膨大なアピール嘆願文書、またインド各政党党首に差し出した大菩提寺解放への支援アピール文書とその返事文章、また全インド仏教徒協会の各州支部よりのこれまた膨大な大菩提寺解放への嘆願アピール文書等々。こうしたブダガヤ大菩提寺解放闘争100年前より今日までの貴重な資料文書は今ユネスコに奉安納めておくべき必要を感じて、この多くの膨大な闘争記録文書、歴史的文書、法規的文書と分けて、今ユネスコをしてブダガヤ大菩提寺を世界文化遺産として、全世界仏教徒の最大聖地とする無上清浄の全世界民族の大聖地として再構成再構造再建設して欲しい心からなる発願心を持って、この膨大なる10冊の大記録文書を明日ユネスコ本部の事務総長ディレクタージェネラル松浦晃一郎氏がアフガン出張のため留守との報ではあるが、その下で働く副事務総長デピュティー・ディレクター・ジェネラルに手渡したいと思っていると、こういう意味の念願を持って佐々井師は今回、40年近くもただの一歩もインドを離れなかったが、この一大事の使命感より東方母国の土を踏むこともふり捨てて、西方欧州国連またユネスコを指して、今回初めてインドの大地を離れ来たった第一要因を私たちは今寝もやらず、それを2度も3度も繰り返し繰り返し整理している佐々井師の姿を見てそのように思ったものでした。このようにしてあれほどの佐々井師の身体の生命が脅かされたそのことをも打ち忘れて夜半3時ごろまで起き、ファイルを整理していた佐々井師の寝もやらずの姿を私たちはもはや何も言えず黙って見ていたのであった。最後にわずか佐々井師また私たちも1時間くらい横になった。

2002年86

午前4時、すでに佐々井師は起き上がり支度完了、ヨゲーシュ・ワラディー氏、S・K・ガジビエ博士そしてナーガセン・ソナレー氏の4人はまだ暗闇の中、ゲストハウスを出て、すでに呼んでいたタクシーに乗り、山林山道を下ってジュネーブ駅に到着したのであった。
C・R・ブレッタ超特急列車はジュネーブよりフランスの首都パリ450キロの長距離をただの3時間で到着するという。なるほど超特急列車だ。いつかインドで聞いたことがあった世界中で1番時速の速い列車がフランスで作られたということだったが、この今私たちの乗っている列車ではないかと思った。母国日本が世界中で1番時速の早い列車を作ったということも聞いたが、フランスは日本国を超えて時速の速い列車では世界でナンバーワンとなったのではあるまいか。私たちは午前9時という時間にすでにフランスの首都パリの地上に立っていた。そして私たちはパリの地下鉄に乗って午前10時ユネスコ本部に到着した。ユネスコ本部では私たちが本日来るということをすでに国連本部事務所の2階にあるユネスコ連絡事務所よりの連絡ですでに通知が来ており、私たちは容易に出迎えに待ち受けていた関係者に連れられてユネスコの雄大な建物の部屋部屋を通り抜け、ユネスコ本部副事務総長ともいえるデピュティー・ディレクター・ジェネラルのミンジャ・ヤング女史に会うことにさして時間もとらず苦労はしなかった。この副ディレクター・ジェネラル、ミンジャ・ヤング女史のそばに世界文化遺産を担当する秘書記録係すなわちアシスタント・デピュティー・ディレクタージェネラル(副事務総長助手秘書)のミリグロス・デルコール女史、それからもう一人の女性はこれまた副事務総長の下で働くエグゼクティブ・オブ・デピュティー・ディレクタージェネラル・オブ・ワールド・ヘリテージの地位にあるというパウロ・リオシニー女史、このユネスコ本部の三人と、ここでは全インド仏教徒の代表ともいえる私たち4人、計7人が長い会議用の机に差し向かいに椅子に腰掛けて、このユネスコの歴史的会見時の会議はスタートしたのであった。ユネスコ副ディレクタージェネラル、ミンジャ・ヤング女史に対しても佐々井師がかねてよりインドより用意してきた仏像を御一体を両手で高く捧げて、国連人権高等弁務官メアリー・ロビンソン女史会見の時、仏像を贈った時と同じように、仏陀に対する帰依文大音声で唱え、ミンジャ・ヤング女史に贈呈した。彼女は私より寄贈された仏像をしばらく両手で押し頂いて無言の体勢を取られた。
ミンジャ・ヤング世界遺産センター副室長に仏像を贈呈
何かお祈りをしているようであった。第一番に彼女に仏像を贈った後、皆一同椅子に腰を下ろし終わった時点において、このフランス、ユネスコ本部での会議は始まった。この佐々井師を先頭にしたインド仏教徒をして最初にこのパリのユネスコ本部まで来て、会議をし、インドブダガヤ大菩提寺が、今回ユネスコより世界文化遺産に指定せられての直後の仏教徒代表がここに訪れての会見会議は非常に歴史的重大代的意義を含むものといわなければならなかった。ミンジャ・ヤング女史はブダガヤ大菩提寺のことについて大分の知識を持っていた。バンテー佐々井師の10年間にわたる大菩提寺解放闘争の展開のことも、そうくわしいという程ではないにせよよく知っていた。バンテー佐々井師はブダガヤ大菩提寺問題の関係について、その歴史上100年前のアナガリカ・ダンマパーラ師の数年間にわたる闘争と、当時英国治領下の最高裁判の勝利的判決のこと、また1948年〜1949年に、ビハール州政府をもって制定認可している現行法、大菩提寺管理委員会規定、この規定はその後約50年間というもの長年月尊守実施されておらず、その後50年間1975年前ごろまではこの規定法に基づく人事選挙人事変更もなく、あればヒンズー教徒、ブラーミンの人たちお互いによって都合よく自分たちで人事決定を一方的に決める。そうしたことで50年間この1948年〜1949年制定「ガヤ・メイン・テンプル・マネージメント・コミッティー」規約は何の用も足していないということ。また先の50年間の間にブダガヤ大菩提寺大塔の古代・中世・近世製作の大小の仏像、菩薩像また大小のストゥーパ(塔)など、その盗難リスチ、約8冊のファイル文書より見れば、古代中世近世の2000体以上の各種像、ストゥーパ等、盗難紛失していることが知れる。また驚くべきことに、この1948年〜1949年制定のブダガヤ大菩提寺管理委員会法案をビハール州政府可決せしめて後、約50年間、先に述べたような無法的大菩提寺管理となり、その50年間の供養金、寄贈金すべて紛失、その会計書は一片も残っていない。50年間の供養金はブダガヤ大菩提寺は全世界の仏教徒の最大聖地総本山なるがゆえに、膨大な供養金・寄贈金等が全世界仏教国より国家単位とし、また政府単位とし、国王大臣単位として、または長者金持人の単位として、または一般仏教信者としてこの大菩提寺に寄せられていることを思うものである。佐々井師自身、1995年ごろより2002年の現在に至るまで、そのブダガヤ大菩提寺管理委員会のメンバーとして、先のビハール州首相ラルー・プラサド・ヤーダブ氏の政治手法によって大菩提寺解放闘争委員会全インド会長の佐々井師をメンバーにした。佐々井師自身、外からの解放闘争、または内部に入って内部よりの解放闘争という計画を立てて、このラルー前ビハール州首相の政治的手法に乗っての管理委員会入りであった。ところが規定としては3年おきの管理委員会人事の選出がある。1975年より現在の2002年までに2期を終了、第3期をいま、1年間は終わっている。この2期終了において、すべての前メンバーは変わって、新しい人事となっているが、ラルー前首相は私の大菩提寺闘争を恐れてか、どう思っているのか知らないが、佐々井師は毎回の人事変更でも更正されず、やはりこの三期人事にも佐々井師の名前を出してメンバーとしている。ブダガヤ地区のヒンズー教法主マハンタギリは永世メンバーで、これは規約に定まって条文化されている。こういうわけで佐々井師は内外からの大菩提寺解放運動を進め、管理委員会に籍を置いているから、その1948年から1949年後より1975年ごろまでの管理委員会の内情の黒幕が解ったわけである。佐々井師が大菩提寺管理委員会に入ってより1年間の寄付金供養金さい銭箱の金など合わせて1年間に50 ラクルピー(日本円で約千三百万円)は下っていない。ともかく佐々井師がここで言いたいことはビハール州制定の大菩提寺管理法案は無益無法でその人事もなく、あればお互いに土地地元のボスの寄り合い的に人事を都合よく相談して変えるという具合いで、その管理法案に条文として掲げられているビハール州政府よりの人事変更など、首相任命選出の管理委員会など一度もなかった。またこの50年間、その会計報告が全部なく、その細密な一切れの会計報告書の紙だにも発見されない。50年間会計なしということは非常に膨大な寄付金、供養金が全部汚職されているということを実証しているものである。また盗まれたものは先に述べた仏像菩薩像、大小のストゥーパといった文化遺産だけではない。ブダガヤ大菩提寺全域には多くの菩提樹が群れをなしていた。釈尊はこのブダガヤの菩提樹下で成仏された。故に菩提樹は全インドの大地に無量無数にある。この菩提樹の本名はピッパルまたはピッパラといってインド教においても聖樹とされ樹王と呼ばれている。シッダールタ・ゴータマがこの地に来て最後にこのピッパラ樹の下で成道した。その時より仏教徒はこのピッパラ樹を菩提樹と呼ぶようになった。現在でもインド教徒はこの木をピッパラ樹と呼んでいる。しかし仏教徒は世界中、どこに行ってもこの木をピッパラ樹とは呼ばず菩提樹と呼んでいる。故に菩提樹の本源はこの中天竺ブダガヤ大菩提寺の菩提樹である。ブダガヤの菩提樹、聖樹の中の大聖樹菩提樹はブダガヤ大菩提寺金剛宝座の大菩提樹である。故にブダガヤ大菩提寺全域において15年前ごろまではこの境内全域に菩提樹の大木が生い茂っていた。佐々井師も何回かこのところに坐定に着て知っているが、菩提樹の豊かな大公園という風景であったと語っている。今はその面影はない。なぜかといえばこのブダガヤの大菩提樹は全世界に名前が知れ、聖なる大聖地ブダガヤの大聖樹菩提樹として知られている。これに目をつけこの菩提樹を売り飛ばし、切り倒しを敢行したのがブラーミン比丘と呼ばれていたこの大菩提寺の管長スプリテントの僧であったのである。この菩提樹を切り倒し、全世界に向かって売り飛ばすことができる僧侶が真実の比丘ならばどうして出来ようぞ。それを冷淡無情平気で、その大菩提寺境内の菩提樹の大木をどんどん切り出し、それを世界にブダガヤ大菩提寺管長の名の下に大菩提寺菩提樹という銘付きで売り飛ばしたときは、どんなに多量の金がその管長とやらいうニセ坊主のところに転がり込んできたことであろうか。この大菩提寺管長の大暴挙を見て怒り心頭に発して大反対運動をしたのがブダガヤのチベット僧たちであった。しかしブラーミンたちと組み、ヒンズー教徒と組み、ヒンズー教界を指導していたその大菩提寺管長自身ブラーミン出身であるところより、亡命難民チベット僧の声に押されるような彼管長ではなかった。その当時管長スプリテントはブラーミン出身の比丘形をした僧と言われている人であり、事務総長もやはりブラーミン出身であり、この大菩提寺の近くに現在も住んでいる。またマハンタギリは永世管理委員会のメンバーであり、ブダガヤ全地区のヒンズー教法主の地位にある人であった。このように50年間、全世界仏教徒の最大聖地といわれる根本道場、ブダガヤ大菩提寺はヒンズー教徒ブラーミンにすべて蹂躙し尽くされてしまったのである。またこれに対するチベット仏教徒が彼らブラーミン管理委員会に向かって何ができたであろうか。亡命難民のレッテルを張られたチベット仏教徒の上にかえって大弾圧大迫害が及ぶことを恐れて最後には無念の涙を飲んで黙視するよりか道がなかったのである。
また現在はだいぶ良くなっているが依然先の50年の間は大菩提寺管理委員会が無法地帯の源泉であれば、ブダガヤという大聖地全域は完全に無法地帯となってしまい、暴力団まがいの人々が横行し、全インド随一のスモグリ地帯だと言われていた。強制的物売りの横行、婦女暴行の横行、麻薬患者の大宿場ブダガヤという噂も全インドに流れていた。それでも他国の仏教徒たちは釈尊成道の大聖地と信仰して、このブダガヤに来ていた。しかしこの当時のブダガヤに来て外国の仏教徒また外国旅行者たちはこのブダガヤが大聖地と思っていたが、それは大反対。地獄地帯、地獄の1丁目、もう二度と再びブダガヤだけは行きたくない、ブダガヤは無限の地獄のようなところだと、その当時外国の仏教徒信者はすべて異口同音にブダガヤに対して嫌悪の情を怒り恐れの心情とともに発露している。佐々井師は言う。我々はそうしたブダガヤを再び全世界仏教徒の清浄なる大聖地にせんがためのブダガヤ大菩提寺解放闘争の10年前の出発であったのです。そのブダガヤ全域汚職腐敗暴力の源泉は先に述べたように大菩提寺管理委員会の無法的50年間の非人権的非宗教的管理より来ているものなれば、このブダガヤ全体を清浄なる仏陀成道の大聖域への悲願心を燃やすならば、まずもってその50年間、ブダガヤ無法地帯原泉の大菩提寺管理委員会を正さねばならない。その大菩提寺管理委員会を正す前に、私たちはビハール州政府によって認可したという1948年〜1949年のブダガヤ大菩提寺管理委員会の不実行的非宗教的非人権的法規を打ち捨て、破棄して、新しい、インド憲法に即した仏教徒中心の管理委員会法規を制定しなければならない。私たちはこのために10年間闘い続けてきたのです。断じて腐敗し蹂躙し尽くされたブダガヤを仏陀世尊の成道地として、平和の使者、釈迦牟尼仏の大聖地に全世界の平和を愛好する人たちがお参りして、この大菩提寺の大清浄な大聖域のことをそれぞれの国に帰りても一生忘れないようなそうしたブダガヤ大菩提寺を復活再建せしめて下さい。ユネスコにお願い申し上げておきます。このように佐々井師はこんこんと畢生の悲願を込めて、ブダガヤ大菩提寺の50年間の腐敗汚職に無法状態が続いていたことの、その地獄の様相を呈したブダガヤを、大菩提寺を、再び全世界の仏教徒が集まりくるような大信仰の聖地最大無上の仏陀ガヤへとする大誓願の下に私たちは10年前より現在に至るまで不断連続してブダガヤ大菩提寺解放闘争を全インドの大地にわたって展開してきたものである。このブダガヤ大菩提寺全域の再構築再建設への道、また大菩提寺管理の浄化、仏教徒中心管理への道にもってゆき、将来全世界仏教徒の一大聖地が全世界平和の記念すべき大聖地大清浄の聖域となって、この平和への祈りのために世界中の人々がこのブダガヤにお参りできるような、お参りしていただける新しいブダガヤ建設、新しい大菩提寺建設に向かう世紀の大仏事は世界文化遺産の名の下に、この国連ユネスコが私たち全インド仏教徒が10年間解放闘争の名の下に歩み来たった道を、今これよりユネスコ本部が継承して、血脈して相承して歩んでいってください。それを私たちは全インド仏教徒、否、全世界仏教徒を代表してユネスコ本部のディレクター・ジェネラル松浦晃一郎先生、また副ディレクター・ジェネラル、ミンジャ・ヤング女史に、またその他の皆々様に深く伏してお願い申し上げておきます。
このように佐々井師はブダガヤ大菩提寺の50年間にわたっての不法汚職等々の腐敗蹂躙尽くされているブダガヤ全域の現状をユネスコ会議において述べていったのである。これらのことは今ユネスコ代表の首席として私たちの前方にいる副事務総長ディレクター・ジェネラル、ミンジャ・ヤング女史の目を大きく開かせた。彼女は佐々井師の言うことを秘書1人の手に任せず、自分自身で1言1句ももらすまいと全部書き留め記録していた。その必死な表情で記録する女史としては、当然今後のブダガヤ大菩提寺を世界文化遺産として、仏陀成道の大聖域にその再建設という大事業を進めていく上に、この今回の佐々井師の報告と謹告は必須的不可欠なる条件を具備していたことであろう。さらに佐々井師はユネスコが今回、ブダガヤ大菩提寺を世界文化遺産に指定したことはブダガヤ大菩提寺がこれまで通りのヒンズー教徒またはヒンズー教主のブラーミン、マハンタギリ一党の管理を離れて、ユネスコの方より何らかの道を切り開いて、この畢生至難なるブダガヤ大建設、大菩提寺新建設のスローガンとともに、その大事業に進んでいってほしい。私たちはそれをユネスコに信頼し、確信する。故に私たちは次のような注文お願いをユネスコにしておきたい。
 

(1)、ブダガヤ大菩提寺はユネスコにおいて世界文化遺産に指定された。よって今後は、その大菩提寺をただブダガヤ地区、またビハール州の大菩提寺、またインド国の大菩提寺ではなく、全世界の大菩提寺、国連の大菩提寺、ユネスコの大菩提寺として、このブダガヤ大菩提寺釈迦牟尼世尊の成道の大聖地、世界の仏教発祥地として一大清浄な大聖地への道を畢生至難なユネスコの使命として切り開いていってほしい。例えばその清浄な地域の例をとれば、ジュネーブ国連の芝生が広がる大公園のように、またこのユネスコの平和的文化的香り高き遺産を感じさせるような全世界仏教徒の一大総本山としてのブダガヤ大菩提寺へと、その新建設改造としての道を前進せしめていってほしい。
 

(2)、ブダガヤ大菩提寺は今回ユネスコにおいて世界文化遺産に指定せられた。故に現在より将来にかけてのインドブダガヤ大菩提寺はこれよりはユネスコと大菩提寺は無関係、または間接的ではなく、直接的支配的関係に置かれ、大菩提寺の管理支配の権利を樹立開顕するの必要があり得よう。今後、大菩提寺再建設において、膨大な資金をユネスコはブダガヤ大菩提寺に、その清浄化聖域化等の再建設的改造的前進への資金に支出されることと思われます。しかし現在のままの1948年〜1949年の管理法のそのままの現行法を大菩提寺管理委員会は現在もなお実施している。現在の大菩提寺管理委員会にそうした世界文化遺産の改造新建設資金を出し、彼らに任せることは、先に私たちの述べた諸点を見ても反対である。現在のブダガヤ大菩提寺管理委員会の現状を見ても非常に危険であり反対する。

(3)、故に先にも言ったようにブダガヤ大菩提寺が世界文化遺産に指定された以上、今後はユネスコの責任として、その大清浄地大聖地への改造新建設の法道をブダガヤ全域に開顕樹立してゆかねばならないと思います。しかれば早急にでもユネスコの方より直接的なブダガヤ大菩提寺管理委員会というものを新しくかの地に設立すべきかと思います。そして直接的ユネスコの管理委員会の下に、この大菩提寺は直接にユネスコの管理支配の中に置くことができると思います。そしてその管理委員会を通してユネスコはかの地に対して全世界文化遺産の活動、即このブダガヤ大聖地を真実の仏教の最大聖地へと改造新建設も至難畢生の大事業を前進せしめて行くことができる。

(4)、それには重ねていいますが、現在までの1948年〜1949年、ビハール州政府が可決したという非宗教的非和合的非人権的非仏教的非憲法的ブダガヤ大菩提寺管理委員会法に立脚して、それを無上の法規現行法として、現在もなお使用重視している現ブダガヤ大菩提寺管理委員会を早急にユネスコの威厳と権利を以て早急にも解散せしめて、また早急にユネスコ直接管理に基づく大菩提寺管理委員会を設立せしめていただきたい。

(5)、確かに私たちは信じています。ユネスコがブダガヤ大菩提寺を世界文化遺産に指定せしめた以上は必ず国際連合と提携しているユネスコは直接的管理委員会をブダガヤ大菩提寺に設立することでしょう。しかしもしこのユネスコをして結成するであろうところの直接的管理機関、大菩提寺管理委員会をブダガヤに設立する場合、大菩提寺は釈尊成道の大聖地で全世界仏教徒の根本道場総本山であるということを、ユネスコ関係者はよくまず認識していて欲しい。そしてその認識は新管理委員会を特別的にせよ臨時的にせよ、設立する場合、その人事は仏教精神に立脚して言動する真実な人、まじめな人、正義感の強い人々による管理委員会設立の新人事としていただきたい。

(6)、全世界に多くの宗教がありますが、そのいずれの宗教のその最大聖地総本山は、みないずれもその宗教を奉信するその宗教の信仰者によって守護運営されていっています。キリスト教、回教、ユダヤ教、ヒンズー教、シーク教、ジャイナ教、すべてのその大聖地総本山はすべてその宗教を信奉する、その宗教を信仰する人たちの手によってのみ守護運営されていっています。またこれが当然なる総本山管理の無上の道でありましょう。先に述べた各宗教の大聖地総本山はその宗教を奉信する信仰者の手によってのみ管理運営されていっています。ところがただひとつ、世界の三大宗教の一つといわれ、栄光ある歴史を持つ、平和の使者、平和の宗教といわれている仏陀の成道地その全世界仏教徒の最大聖地インドブダガヤ大菩提寺全域を400年前より牛耳って、蹂躙して破壊して盗んで踏みつけてきたは、その大菩提寺の支配権管理権を持つ者は仏教徒ではないという最大の悲劇、最大の非人権非宗教の現状現実をただこのインドブダガヤ、仏教の総本山大菩提寺において見ることができよう。その支配者、管理者はヒンズー教徒であり、ブラーミンである。このためにこそ私たちは今回、国連総会に出席し、その現状を全世界の代表者の良心に訴えたのです。またこのための故にこそ、私たちは今このユネスコに来て、その関係者の皆様方の心情良心に訴えているのです。故に重ねてユネスコにお願い申し上げます。ユネスコをしてブダガヤに直接管理の人事を決定する管理委員会か運営委員会を設立する場合は特にこの点をよく考慮して、その人事は仏教精神に立脚して言動する真実なる人を以て、その直接的ユネスコの管理委員会をブダガヤ大菩提寺に設立していただきたい。

(7)、ユネスコは今回、ブダガヤ大菩提寺を世界文化遺産に指定したといいますが、これからどのようにして大菩提寺を全世界仏教徒の一大聖地一大清浄なるところにするかということについて、そのユネスコをしてブダガヤ大菩提寺を世界文化遺産にしたと各新聞を通して発表されたときに、大菩提寺周辺の雑多な多くの建造物をすべて何平方キロの拡大さにおいて取り除く、取り壊すということが出ておりました。まさに非常によい計画だと思います。世界三大宗教のひとつである仏教、その仏教の開祖の成道地であり、仏教の全世界へ広布されるその源泉発祥地である世界仏教徒の一大根本道場であるならば、それに相応する大改造新建設するくらいの勇気と大方針がなくてはなりません。聞くところによりますと、ブダガヤには各国仏教国のモナストリーが群を並べていかめしいビルディングの建設を次から次へといたしておるようですが、これらの各国モナストリーの比丘、比丘尼、坊さん方は、ユネスコの菩提寺が世界文化遺産指定の発表を聞いて大変喜び、その翌日、歓喜の行進をブダガヤに展開したと聞きました。しかしその後、ユネスコの方針として、大菩提寺を中心として何平方キロメートルの地域にわたって、いかなる建造物をも取り除く方針であるということを聞いて、地元ヒンズー教徒、また3、4の国際ホテルの社長たち、また地元の右翼政治家、またブダガヤ参道左右に立ち並ぶ商店街組織会員、またブダガヤ全域に散在する民家、また各国仏教寺院モナストリー等の人たちは反対運動に立ち上がってきております。そして反対運動組織を結成し、この反対運動組織はガヤ地区長官コレクター(ガヤ地区長官は大菩提寺管理委員会の会長です。管理委員会規定に、ブダガヤ大菩提寺管理委員会の会長はいつもガヤ地区長官、即ちガヤ地区コレクターを以てブダガヤ大菩提寺管理委員会の会長とする、と条文になっております。ただしそのガヤ地区長官はヒンズー教徒でなければ大菩提寺管理委員会の会長とはなれないと、その条件が入っております。もしガヤの地区長官が回教徒であったり、キリスト教徒であったり、また仏教徒であったりして、ヒンズー教徒でないならば大菩提寺管理委員会の会長になる資格はない。管理委員会の会長は断じてヒンズー教でなければならないということである。このヒンズー教徒でなければならぬということをもう少し深く突っ込んで考えるならば、ガヤ地区長官は回教、キリスト教、仏教、シーク教等の宗教信仰の人は断じてガヤの地区長官にはなれない。されガヤの地区長官コレクター就任の条件はヒンズー教徒としての条件を持っていない人はガヤの長官になれないということである。なぜならばブダガヤ大菩提寺管理委員会の規定書には、この管理委員会の会長はガヤの地区長官コレクターでなければならないと、絶対的ガヤ地区長官の大菩提寺管理委員会の会長の条件を明然と条文にしている。かかる非民主的非道徳的非宗教的なことがあるであろうか。ヒンズー教を除く他宗教徒では断じてガヤのコレクターに就任することはできない。ブダガヤ大菩提寺管理委員会会長は断じてガヤの地区長官でなければならぬ。ヒンズー教徒でなければならないと明文で書かれている。)のところへ、この反対運動を行進させて、ユネスコをしてブダガヤ大菩提寺周辺を取り壊し、取り除くことにはブダガヤ地区全住民は断固として反対する、とそのブダガヤ全住民の反対宣言書をガヤ地区長官すなわち大菩提寺管理委員会会長に突きつけている。これについて私たちが言いたいことはブダガヤ大菩提寺はただ単なるブダガヤ地元の人たちの大菩提寺ではないということです。ましてやこのことはこれまで何度も言っておりますが、ブダガヤ大菩提寺は、ただビハール州のみの大菩提寺ではなく、インドのみの大菩提寺ではないということです。ブダガヤ大菩提寺は全世界のブダガヤ大菩提寺であります。ましてや今回、世界文化遺産となって世界の宝、文化の遺産となり、その脚光は全世界よりますます集まってくる時代に入ってきたのです。全世界の脚光の中に照らされ、浮かび上がり来たったブダガヤ大菩提寺をただ地元民衆の反対で、それを中止するようなことがあっては断じてならないと思います。雄大な世界文化遺産とするために、その周辺の米平方キロは一切すべて取り除くのであり、その取り除かれた人々の住居街はその何平方キロの外境地帯に新ブダガヤとして建設してゆくという計画でユネスコは進めていくとのこともまたすべての新聞に出ていました。故にユネスコにお願いすることはこのようなただブダガヤの地元住民が反対組織をつくって反対運動を展開したとて、そうしたことを恐れずユネスコで新建設大菩提寺のスローガンと計画を立てた通り、ブダガヤ大菩提寺を世界文化遺産になすべく前進していっていただきたい。あのジュネーブの国連本部のきれいな清浄な大公園のように。または文化の遺産の高き香りがブダガヤ一円をすべて洗心して心身清められるような仏国浄土を建設してください。各種の木々が茂りまた各種の美しい花々が四季を通して咲き乱れている、あの国連やらこのユネスコの公園芝生は私たちの一生に忘れることのない仏国浄土でありました。私たちはユネスコの発表とこのブダガヤ地元の反対のうわさを聞いたので、すぐ私たちはインド現首相はワエジペ・アタル氏に手紙を書き、どんなに今後ブダガヤ地元住民の反対があっても、ブダガヤを世界中の人々が来る大聖地清浄なる仏国土に建設するために、一歩もインド国としてユネスコに対して世界文化遺産OKの国家承認の署名サインをした後は、その心を不動不退として変えてはならないと、インド政府の今回とったユネスコへの世界文化遺産への調印をしたことへの称賛とともにこのような忠告の手紙を書いて出しております。ビハール州前首相ラルー・プラサド・ヤーダブ氏に対しても同じ意味の手紙を出しました。故にこのユネスコへも、今ここで、私たち全インド仏教徒を代表して、否、全世界の仏教徒を代表してお願い申し上げておきます。ブダガヤ大菩提寺を汚職、ビルディング群、建造物群に包まれて囲まれた不清浄的、不聖地的大菩提寺に落ち込んだ最大の理由は地元利権を目的としてヒンズー教を信じ、大菩提寺によって金力を得んとする仏法不信仰、ヒンズー教精神に立脚する最右翼政党また団体宗教指導者たちに扇動使用されての現在の仏教徒の一大聖地らしからぬ現状風景がが醸し出されているのです。故なればこそユネスコの総力を挙げて、雄大無比の大聖地ブダガヤへと大改造大手術するにはユネスコの最初の方針を曲げず、退けず、その通りに、この大菩提寺大塔を中心としてその周囲何平方キロメートルの一切の建造物、これは例えその建造物の中にいくら国際ホテル群があるにせよ、各国仏教寺院があるにせよ、また各大小の商店街の商店群があるにせよ、また一切の乗り物、バス、トラック、トンガ、リキシャ、オートバイ、スクーター、自転車等の乗り物群すべてを世界文化遺産の永遠にわたる守護のためにその本来の方針に従って、世界連合の名誉と力をかけて、ユネスコの名誉ある歴史とその文化遺産にかけた情熱をもって、全世界仏教徒の最大無上の大聖地仏陀ガヤ大菩提寺を仏国浄土のシンボルとして全世界に開顕樹立していただきたいのです。

佐々井師はこのようにいちいちの問題に番号をつけて、ナンバー7までの項目について佐々井師のユネスコをしてこのたびブダガヤ大菩提寺を世界文化遺産に指定したことについて、これからのブダガヤ大菩提寺を、真実なる魂の入った文化遺産の大聖地としての道を進めていく上に、いかにすればよいかということについて、佐々井師はこれまでの10年間以上のブダガヤ解放闘争の体験を十分に生かしてのユネスコへの陳情且つその忠告をも兼ねてのアピールを披瀝いたしたのです。その佐々井師の言葉アピールを一言一句ももらすまいと懸命に筆記していたユネスコ副ディレクター・ジェネラル、ミンジャ・ヤング女史はそうした佐々井師のアピールまた忠告の言葉がすべて終わるのを待って、彼女自身はぺンを置き、明然と顔を上げ、他の二人のユネスコ女史とともに明然とした態度で言った。「私たちもそのように思っています。現ブダガヤ大菩提寺管理委員会も、あなたも(佐々井師に向かって)現委員会のメンバーと言われておりますが、申し訳ありませんがこの現大菩提寺管理委員会は大菩提寺が実質上世界文化遺産として、ユネスコの手に移って来た以上はもちろん解散せしめます。そしてあなたたちのいうように、ユネスコに直結する世界的視野に立つ、国際的ブダガヤ大菩提寺管理委員会という新しい協会委員会を設立するつもりでいます」
 そしてさらにユネスコ副ディレクター・ジェネラル、ミンジャ・ヤング女史は佐々井師に対して敬意感謝の気持ちを表して言った。「この、こうしたブダガヤ大菩提寺の問題について、国際連合やユネスコに来てくださったのはあなた様が現在までにおいて最初のお方であります。このような大菩提寺問題のことはインド政府もまたビハール州政府もそれを解決する道を示すことは非常に至難であります。その非常に至難な大菩提寺問題をあなた様は十年間やって私たちの前に見せてくださいました。」
佐々井師はこの時、その10年間のブダガヤ大菩提寺解放大闘争の記録文書10冊のファイルに整理収めたものをユネスコにブダガヤ大菩提寺が世界文化遺産として委ねられた以上、そのユネスコに10年間、いな100年前のアナガリカ・ダンマパーラ師に始まるブダガヤ大菩提寺解放闘争の大記録文書を収め奉安しておくべきが私たちの責任的道ではないだろうかとして、今回インドより持ってき、昨夜明け方までジュネーブの宿舎で寝もやらず整理した10巻ファイル、ブダガヤ大菩提寺解放闘争記録文書を佐々井師は立ち上がり両手でささげて、それに手を添えてヨゲーシュ・ワラディー氏、S・K・ガジビエ博士の三人ともども持って、ユネスコ副ディレクター・ジェネラル、ミンジャ・ヤング女史に手渡す。向こうのユネスコ側の方も三人の女史でこれを抱くようにして受け取った。ここに佐々井師の約10年間以上にわたるブダガヤ大菩提寺解放闘争記録文書を世界文化遺産に指定されたブダガヤ大菩提寺の歩んだ歴史の一端としてユネスコ本部に収め得ることに対する感謝感激でいっぱいであった。ここに佐々井師が国連に来、またこのパリのユネスコにきた最大の目的は大成功裡のうちに完遂し終わったのであることを佐々井師はその66歳全身霊にしみじみと味わっているようであった。ナーガセン・ソナレー氏はそうした大切な一瞬一瞬を近くに立ってカメラに収めていた。このようにしてユネスコ会見会議においても、私たちの勝利への道が真実なものになるような確信を覚えた。最後に佐々井師が日本語で副ディレクター・ジェネラル、ミンジャ・ヤング女史に向かって「ありがとうございました」というと彼女も明然とした美しい日本語で「こちらこそありがとうございました」とあいさつもした。驚いた佐々井師は、今度は日本語で「あなたは日本の人ですか」と聞くと彼女は「いいえ日本人ではありませんが母が日本人で父が韓国です」といった。お二人は急に親しみを覚えたようであった。「こんな遠いところへ、こんなにも大切な多くの資料を持ってきてくださって本当にありがとうございます」といわれた。母親が日本人とのことで親しみを感じる
佐々井師はユネスコ・ディレクター・ジェネラル、松浦晃一郎先生に日本僧で現在インドに40年近く住んでいるインドの仏教復興に奉仕させていただいている佐々井秀嶺というものが、お留守中うかがいましたと、お帰りの節にはよろしくお礼申し上げておいてくださいと伝えた。副ディレクター・ジェネラル、ミンジャ・ヤング女史はユネスコ本部より発したブダガヤ関係の3,4枚の文書とユネスコ発行の世界文化遺産の仕事展開等についての説明書と思える2,3冊の小誌、また世界文化遺産の全世界の写真が載っている、これもユネスコ発行の今年度2002年度のカレンダー、手帳等々を佐々井師に差し出した。このようにして会見会議は完了し、その後案内されたユネスコの食堂で昼食をとり、すべてを成就せしめた満足感に浸りつつ私たちはユネスコの門を出た。外に出て歩きながら佐々井師は言った。「私はあなた方についてインドを離れ国際連合と、このユネスコに来たが、どちらも来た最大の目的を果たすことができてうれしい。今、私は病院に入院しても少しも心配はなくなった。」私たちは大笑いであった。その後また超特急列車に乗ってフランスの首都パリからスイスのジュネーブに帰ってきた。時間は夜の10時でだった。

次の日、即ち8月7日、国連においてサブ・コミッションの総会会議が開かれることになっていた。この総会会議においてもブダガヤ大菩提寺問題について、再び国連に訴えるべく演説要旨を読むことにガジビエ博士が予定されていた。しかしこの日はそれが実現できなかった。明けて

2002年8月8日

国連総会に出席する私たちの最後の日であった。午前10時、日本、スリランカ、モンゴリア、インド、ネパール、インドネシア、タイランド、等々、約150カ国の代表がそれぞれの政府代表ともども政府外のNGOの諸団体等、大ホールに満員となるほど詰めきって、サブ・コミッション・オン・ザ・プロモーション・アンド・プロテクション・オブ・ヒューマンライツ会議においてS・K・ガジビエ博士が「バイオレイション・アンド・カルチュラル・ラールイタス・オブ・ザ・ブッディスト・オブ・インディア」と題して演説要旨を読み上げた。その演説要旨の中において、特別に注目すべき内容は、世界中の人々はこれは当然なこととして知っていることであるが、世界中には無数の教会がある。これらの世界中の無数の教会はすべてクリスチャンの管理支配下にある。世界中にはこれまた無数のマスジッド(回教寺院)がある。すべての無数のマスジッドもすべてムスリム教徒の管理支配下に運営されていっている。また世界中に多くのグルドワール(シーク教寺院)がある。これらのグルドワールはすべてシーク教徒の手中に管理されている。またどんなに多くのヒンズー教寺院があっても、すべてこれ等はヒンズー教徒の管理運営下に置かれている。それなのになぜ仏教のしかもその開祖成道の大聖地にヒンズー教徒の支配管理とは、ブラーミンの支配管理とはどういうことなのか。ということを演説し、仏教徒としての人権も権利をそうした大聖地にも認めないインドブダガヤ大菩提寺の現状を約15分間にわたって約百何十ヶ国代表の前で読み上げたの壮挙壮観であった。この会議にインド中央政府の三人の大臣も出席していた。その首席はアータルユーシャンナル(インド中央政府代表の首席として公認する)ソーリー・ソーラーバジー氏であり、現代インドにおける法律学の最高権威者として有名な人であった。このソーリー・ソーラーバジー氏がこの会議においてインド政府代表の出席としてこの国連総会に出席していた。

インド政府もこのサブ・コミッションのメンバーであったから、インド政府の首席ということにおいて、この会議は非常な重要性を帯びたものとなっていた。インド政府代表出席のこの会議においてバンテー佐々井師はブダガヤ大菩提寺解放問題の関係において、1冊のファイルに多くの解放闘争記録と先にインド首相に大菩提寺世界文化遺産になったことへの称賛と忠告を兼ねた手紙(このことはユネスコで副ディレクター・ジェネラル、ミンジャ・ヤング女史と会見会議したときにブダガヤ地元住民の反対に対してインド首相としてその意を翻す事なかれの意を含んでインド首相ワジペー・アタル氏にあてて手紙を書いたことを示している。故に今首相に対する手紙とはこの手紙のことを指している)そして嘆願書アピール等を全部そろえて、今国連総会サブ・コミッション会議にインド中央政府首席として出席しているソーリー、ソーラーバジ氏に提出手渡した。彼の奉信する宗教は私たちの仏教とヒンズー教の中間に位置しているようなパーシー教(古代中世にかけてこの宗教は現在のイラン、パキスタン等の国教的な大宗教とされていた。しかしその後、回教の進攻によって、このイラン地方はすべてパーシー教は滅亡した形になっている。インドにもパーシー教を奉信する人がいるがわずかな人口にすぎない)と聞いていたので、佐々井師が大菩提寺問題の文書とインド政府に対する嘆願アピール文書をソーリー・ソーラーバジ氏に手渡すとき「あなたは最高裁のシャンティー・ブーシャン氏を知っておられますか、この大菩提寺問題を私は4年間、最高裁判にかけておりましたときに、私の弁護士としてこのシャンティー・ブーシャン氏には幾度か大変お世話になりました」と、その意を無言のまま彼の腹に含めて佐々井師は聞いた。ソーリー・ソーラーバジ氏は大きくうなずいて私の大先輩です。よく知っている、と答えた。確かに大先輩に違いない。シャンティー・ブーシャン氏は現在は法律学の大御所的存在で、かってはインディラ・ガンジー政権の時、インディラ・ガンジー女史にその法律の大家として見込まれて、インド中央政府法務大臣としてその当時活躍しており、その後も現在まで健在であり、今年初めころ最高裁判事(いつごろ彼シャンティー・ブーシャンが最高裁の判事に抜擢されたのか知らなかった)の立場よりインド国会に重大な発言をした。その重大な発言とは「仏教とヒンズー教は根本的に相異なる独立した宗教であり、ヒンズー教の枠内に仏教を入れることは間違いであるという現代インド最右翼および一般ヒンズー教徒の認識していた「ヒンズー、ブッダ一体論」の考えを真っ向より折断しきった「ブッダ、ヒンズー別異宗教論」を法律的に定義した発表をして、全インドの大地を震動せしめている。このシャンティー・ブーシャン氏も以前その信奉する宗教はパーシー教と聞いていたので、ヒンズー教ではなく中立的立場で良いと思ったので、念のためその含みも兼ねて佐々井師は今、インド政府代表首席としてこの総会会議に私たちと同じく出席していたソーリー・ソーラバジ氏に、彼自身がパーシー教奉信の人と聞いていたので、今、そのシャンティー・ブーシャン氏の名前を出し、彼を知っていますかと打ち出した次第であった。ともかくも国連総会に出席していたインド政府代表首席に大菩提寺問題のファイルと嘆願書アピール文書を提出、首席代表たる彼自身の手に、しかも国連総会の会議場において手渡したことは、これもまたインド国内ではなく、場所が場所だけに非常に意義があったと、これも今回佐々井師をして国連に出席したひとつの勝利への旅となったことと思われた。この総会が終わったとき、その会場の入り口のところで日本の部落解放同盟中央本部中央執行委員長の組坂繁之氏と反差別国際運動の事務局次長森原秀樹氏にお会いすることができた。このようにしてブダガヤ大菩提寺問題は欧州ジュネーブ国際連合本部、またパリのユネスコ本部を通して初めて国際的問題として雄飛し、全世界仏教徒の人権権利を主張して、その解放大闘争の場をインドの大地より一転して世界に向けて展開するその道を開いた仏教僧としてはバダンタ・アーリヤ・ナーガルジュナ・秀嶺佐々井が世界において最初の僧であった。

2002年8月10日

このようにして国連総会またユネスコの旅を無事成満して、午前10時、フランス航空にてジュネーブエアポートでアメリカに帰っていく今回の佐々井師国連総会またユネスコ会議を成功成満せしめる最大の立役者大恩人となった技術者ヨゲーシュ・ワラディー氏と相分かれて、そのジュネーブ空港を後にして帰国の途についたのである。そしてパリよりエアーインディア航空にて、パリを出発すること3時間遅れて私たちの飛行機は中天に舞い上がっていったのである。その翌日午前11時長時間の航空旅行を終えて、母国ニューデリー・インディラ・ガンジー国際エアポートに到着した。私たちはさらにその航空機にてボンベイに直行、ボンベイよりナグプールへ帰って行くというこういう予定を立てており、その予定に準じた旅行チケットはすべて用意してあった。しかしデリー国際空港で分かったことは、私たちのパリより乗って帰った航空機は、そのエンジンに故障を生じ、ボンベイには直行不可能ということになった。パリで出発前その出発時が3時間遅れたのもその故障のためであったという。そこで私たちはどうするかということで、エアーインディア航空より国内インディアン・エアラインに頼んでもらい、国内機にてデリーよりボンベイに行かず、直接ナグプール行きのインディアン・エアラインに乗せてもらい、ナグプールにつくということに決定した。ボンベイのナーガセン・ソナレー氏は私たちと同じく国内機でデリーより直接ボンベイに向かった。しかし私たちのナグプール行きは明日早朝5時30分デリー出発、早朝7時ナグプール到着の時間である。そこでその夜はエアーインディア航空がその航空機故障の責任をとって、ホテル食事一切航空会社持ちで、エアポート近くのセンターホテルにその夜は泊まった。


2002年8月12日

午前5時30分出発のデリー、ナグプール行きの国内機インディアン・エアライン機に乗って私たちは午前7時ナグプールエアポートに到着、故郷の大地を約24日ぶりにて踏みしめた。かねてガジビエ博士がデリーよりナグプールに私たちのナグプール到着時刻を連絡していたと見えて、佐々井師がエアポートに到着すると、ナグプール・エアポート全域に割れるような大歓声大音声唱導合唱の声が早朝の静けさを破って響きわたっていた。仏陀万歳(ブッダ・バガワン・キー・ジャイ)アンベードカルの勝利万歳(ババサーブ・アンベードカル・キー・ジャイ)この大合唱のエアポート全域を焦がす大音響は佐々井師出迎えの歓迎のナグプール仏教徒民衆の声であった。多くの青年民衆老若男女が空港の外で、今や空港口より姿を現わさんとする佐々井師の姿を待ちわびての大歓声大合唱の声であった。佐々井師としてはナグプールに到着した途端、こんな大民衆大群衆に取り囲まれる大歓迎が待っているなどとは考えてもみなかったことであろう。こんな多くの群衆がナグプール空港外に詰め掛けて早朝より空港全体が割れるほどの大騒動に空港警備の警察たちも驚いて、何事か、何か事件騒動でも彼ら民衆は起こそうとしているのではないか。空港警備の警察官たちはナグプール警察本部に電話をかけて、至急トラック2台くらいの警官隊をナグプール空港まで派遣してほしいと、今そのように本部に連絡をとり、警察の応援隊出動をたのまんとしていた寸前であったと、その警備上位警官の人がガジビエ博士に言っていた。そしてこれは何事かということに対してガジビエ博士は佐々井師を歓迎出迎えに来ているのだということで、その平和的歓迎の大群衆であり大歓声、大合唱であることが分かって、警備警官の人たちも安心したようであった。それでも念のため上位警官はたびたびガジビエ博士に聞いていた。ガジビエ博士は「いや幾度もいうようになんの騒動も起こそうとしているのではない。佐々井師が国連、ユネスコに行き成功して無事帰ってきたから民衆は大歓迎に押し掛けてきたのだ。何も警察の出動トラックを呼ぶ必要はない」と盛んに説明をし、弁解をしていた。アンベードカル国際ミッションの学生青年たちの歓迎の指導しているのがシリーカント・ガビール、ナグプール大学教授である。これより佐々井師帰国行進がナグプール・エアポート前より出発する。この佐々井師帰国大行進には200のスクーター行進隊、80台のオートバイ行進隊、10台のSUMO(ジープ)自動車行進隊、トラック8台行進隊(トラック、自動車には婦人子供たちが仏教旗を持って満載されている)より成り立っている早朝の大行進である。その佐々井師帰国歓迎大行進はナグプール空港前より早朝の空気を破って、ブッダ万歳、アンベードカル万歳の大行進、歓呼、大歓声の群衆の声はやがて全インド仏教徒の大聖地アンベードカル菩薩大改宗のディキシャ・ブミ(改宗広場)に到着した。20世紀のサルナートと言われているところである。

佐々井師は車より降り出て、改宗広場のアンベードカル菩薩改宗大記念ストゥーパの中に入っていった。このアンベードカル大改宗記念大ストゥーパは去年2001年11月、ナラヤナン大統領を招いてマハラシュトラ総督アレキサンダー氏、同じく首相デシュムンク等を招待してアンベードカル博士記念協会長ラスガワイ氏の会長の下にナラヤナン大統領夫妻の手にて、この雄大なアンベードカル大改宗記念大ストゥーパの落慶法要を盛大に厳修した。仏教僧としてはただ一人、佐々井師が招待され、ステージの上に大統領夫妻とともに坐した栄光に浴している。それより前、すなわち200110月、この雄大無比のアンベードカル菩薩大改宗記念ストゥーパの大本尊仏の奉安開眼法要の大導師は佐々井師がアンベードカル博士記念協会よりの信頼と尊敬を得て、彼佐々井師の手にて本尊釈迦牟尼仏のビルマ製本尊仏は安置奉安された。さらにアンベードカル博士記念協会の会長、上院議員のラス・ガワイ氏はアンベードカル博士の真身舎利をこナグプール平野の天空高くそびゆる白亜の大ストゥーパすなわちアンベードカル菩薩大改宗記念大ストゥーパの中心にその舎利奉安台を設立し、その奉安台に20世紀仏教再興の父、インド平和建設の不世出の大旗手、B・R・アンベードカルの真身舎利を永遠的に奉安埋葬したのであった。その時、アンベードカル博士記念協会会長ラス・ガワイ氏、事務総長サダナンダ・フジエレー氏と佐々井師の三人が共にアンベードカル菩薩大改宗記念ストゥーパの中心点、1956年10月14日、アンベードカル菩薩はその地点、そこに立って60万民衆と共に仏教に改宗した。そこに立って、その地点で60万民衆を唱導せしめる仏教再興の大導師となり全五天竺の大地に仏教再興ののろしを転じたところ、その地点こそこの大改宗記念大ストゥーパの中心点であり、アンベードカル菩薩の真身舎利が永遠に奉安され、永遠に眠るところである。その聖なるストゥーパの中心点にラス・ガワイ氏、サダナンダ・フジエレー氏、佐々井師、三人の手によってアンベードカル菩薩、真身舎利は奉安されたのであった。その改宗大広場、アンベードカル菩薩大改宗記念大ストゥーパの中に入って佐々井師はまずおのれ自身が奉安開眼法要の導師をつとめ、己の手にて安置した改宗広場大ストゥーパの本尊仏釈迦牟尼如来に花輪を供え、ろうそくと線香を立てて合掌三礼をし、帰国のあいさつをした。多くの人々とともに三帰戒、三宝のお勤めを合唱唱導し、続いてインド仏教再興の菩薩B・R・アンベードカル博士の真身舎利奉安台に帰国のあいさつをし、花輪をささげ三礼合掌する。かくて改宗広場、現代インド仏教徒の根本道場ともいうべきディキシャ・ブミに対する佐々井師帰国のあいさつ参詣も終わって大ストゥーパの外に出て、また再び車の人となった。

これより大行進は北部ナグプール入り口の地点、国立銀行前のアンベードカル菩薩大銅像に同じく花輪を捧げ、ろうそく、線香を供え、無事帰国のあいさつをし、それより一路、大行進は北部ナグプール、佐々井師が数十年止住本部と決めている「アンベードカルの大城」とその生前、アンベードカル博士、このインドラ町を指して名付けて行っているそのインドラ町のインドラ・ブッダビハールに大群衆の行進はなだれ込むように到着した。インドラビハール門前のアンベードカル菩薩に花輪をささげ、民衆群衆共々アンベードカル万歳の大歓声を連発しながら仏教寺院に入った。インドラ町仏協会としてはすでに事前に佐々井帰着と同時に歓迎式をするプログラムをすでに準備しており、佐々井師はたちまちのうちに寺内ステージの特別大型椅子に大王のように坐らせられた。町内民衆は花輪を佐々井師の首にかける。整理も整然もあったものではない。群衆の大雑踏大混雑の中に、佐々井師の顔は花輪で埋まるようであった。町内の老若男女の群衆は佐々井師無事帰国に大歓喜大歓迎をして寺内寺外は人波でいっぱいとなった。佐々井師はまずインドラ・ブッダビハールの本尊仏釈迦牟尼仏の9フィート大の立像に花輪を捧げ、その前に額ずきろうそく線香を立てて、合掌三礼し本尊仏に無事帰国の報告あいさつをした。これより盛大な佐々井師帰国の大歓迎式に入ることになるのであるが、まずは私たちの担当としての佐々井師ブダガヤ大菩提寺解放への大問題を引っ提げての国連ジュネーブ行き、またパリ、ユネスコ行きの報告記は一応この辺でペンを置くことにします。ありがとうございました。

西2002年9月21日記終わる。