アンベードカル全集第9巻
        「会議派とガンジーが不可触民に行ったこと」
        第8章  本当の問題点(真の核心)
        不可触民は分離した構成要素なのではないか?

                        2節 5行目からの冨士訳


不可触民たちが、自分たちがヒンドゥーから差別されていることの理由を十分に理解する
ことはそんなに難しいことではありません。またこれらを説明するのに長く念の入った申
し立ても必要ではありません。彼らの場合、申し立て書は簡単な質問によって、十分まと
めることができます。彼らがヒンドゥーだというのはどういう意味なのでしょう?
まず第一に、ヒンドゥーという言葉はいろんな意味で使われているので、人は質問にき
ちんと答える前に、どういう意味で使われているかを知らなければなりません。その一つ
は地域的な意味で使われています。ヒンドスタン(インド)に住んでいる人々はだれでも
ヒンドゥーであると。この意味においては確かに不可触民はヒンドゥーであると主張され
得るでしょう。しかし、そうであれば、ムスリムやクリスチャン、シーク、ユダヤ、パー
シー、その他もヒンドゥーだということになります。ヒンドゥーという言葉の二つ目の意
味は宗教的意味として用いられています。何らかの結論を引き出す前に、ヒンズー教の信
仰儀式(カルト)からヒンドゥー教の教義信条(ドグマ)を切り離す必要があります。不
可触民がヒンドゥーという言葉の宗教的な意味においてヒンドゥーであるのかどうかはテ
ストとして教義信条か、信仰儀式のどちらを採るのかという点にかかっています。
もし、テストの結果、ヒンドゥー教がカ−スト思想と不可触思想の教義信条であるなら
ば、すべての不可触民はヒンドゥー教を拒絶し、彼らがヒンドゥーであるという決め付け
を拒絶するに違いありません。
もし、テストの結果、ラーマやクリシュナ、ヴィシュヌ、シバ、その他のヒンドゥー教
に見られる神々や女神たちへの崇敬としての信仰儀式であるとの受け入れであれば、不可
触民たちはヒンドゥーだと主張されてもいいでしょう。会議派は必要であれば不可触民は
ヒンドゥーであり、彼らはヒンドゥーとして死ぬのだと声を上げるために常に不可触民の
間からの多数の代理人を世話しています。しかし、これらの支払いにもかかわらず代理人
たちは、もし彼ら自らが自分たちはヒンドゥーだと宣言することを求められるとして、ヒ
ンドゥー教がカースト思想や不可触思想を信じることを意味するならば、ヒンドゥーとし
て数えられることに同意しないでしょう。さらにもうひとつの点が強調されるべきです。
先に述べた理由によって、もし、ヒンドゥーという言葉が教義信条を認める信者たちの限
られた意味においてではなく、宗教的に用いられているのならば不可触民はヒンドゥーと
みなされるでしょう。
ここでもなおヒンドゥーと不可触民とは共通の宗教を持つのだと結論付けることに対して、
警告を与えることが必要です。教義信条を認める信者であってさえ、彼らは共通の宗教を
持つとは言えない、というのが事実です。正に適切に言うなら、彼らは似た宗教を持って
いると表現すべきでしょう。共通の宗教とは入信参加の共通の結びつきを意味します。し
かし教義信条(カルト)を順守するならば、入信参加の共通の結びつきは存在し得ません。
ヒンドゥーと不可触民とはそれらの教義の共通性にもかかわらず、彼らヒンドゥーは異邦
人同士がするように不可触民を引き離しておくために、それらの教義信条(カルト)を分
離差別として実践するのです。これらヒンドゥーという言葉の持つ二つの意味のどちらも、
政治的問題を決定する助けとなり得るとか、単に議論をまとめるのだといった、いかなる
結果をももたらしはしません。
使えるのはただひとつのテストです。ヒンドゥー社会の一員である指標としてのその社会
的感覚であります。
一人の不可触民がヒンドゥー社会の一員であることを保持できるのか?
彼らをその他のヒンドゥーとを結び付けるどのような人間的結び付きがそこには存在する
のか?
そこには何もないのです。そこにはいかなる婚姻組織(connubium)も、いかなる同火同食
(commenssatio)もないのです。そこには触れる権利さえなく、ましてや付き合うこともな
いのです。それどころか単に触れることがヒンドゥーにとっては十分に汚れの原因となる
のです。ヒンドゥーのすべての伝統は不可触民を別の要素として認めることであり、そし
て実際、その伝統に固執しています。ヒンドゥーと不可触民を分離することのヒンドゥーの
伝統的な専門用語は不可触民の主張に味方して最良の根拠を提供します。この伝統的専門
用語に従ってヒンドゥーはSavarnasと呼ばれ、不可触民はAvarnasと呼ばれます。これはヒ
ンドゥーがChaturvarnikasであり不可触民はPanchamasということを語っています。そのよ
うな専門用語は、もし分離がそれほど目立ったものになっていなくて、その習慣が事実を
表現するための特別の言葉を新造することが求められるほどに必要でなかったならば存在
しえなかったのです。したがって、不可触民はヒンドゥーであり、それゆえ、不可触民は
ムスリムやその他と同様な政治的権利を要求することはできない、とする会議派の主張に
はいかなる中身もほとんどないのです。
伝統からの主張は不可触民がヒンドゥーではないことを証明するための良い根拠の確かな
主張だけれども、どうも何か弱いものに見えるかもしれません。私は会議派の主張と直接
に向きあうことなしに戦いの場を離れることを望みません。この目的のために私は不可触
民は宗教的にはヒンドゥーだと認めることにしましょう。しかし疑問が起こります。もし
不可触民がヒンドゥーだとしても問題はないのか?インドの国民的生活において分離した
要素として認められている彼らのあり方としてはどうなのか?そのような限定された意味
での宗教によってヒンドゥーだとみなされているという単なる事実がどのようにして不可
触民がヒンドゥー社会の完全な部分であるとの主張の根拠であり得るのか、ということを
理解することは難しいのです。議論のために敢えて不可触民が宗教的にはヒンドゥーであ
ると認めたとして、私が述べたこと、すなわち彼ら不可触民が同じ神々や女神たちを他の
ヒンドゥーと同じように崇拝し、聖地巡礼に同じ場所へ行き、他のヒンドゥーが神聖視す
るように同じ石や樹木や山々に崇敬の念を抱くということ以上の何かを意味することがで
きるでしょうか?
不可触民とヒンドゥーとはひとつの社会の部分だという議論を終えるのに十分ではないで
しょうか?もしそのことが会議派の主張の裏にある論理であるならば、ではベルギーやオ
ランダ、ノルウエー・スウェーデン、ドイツ、フランス、イタリア、スラブ、etc.
についてはどうなのか?彼らはすべてクリスチャンではないでしょうか?
彼らは皆同じ神を信仰しているのではありませんか?彼らは皆、イエスを救世主として受
け入れているのではありませんか?彼らは同じ宗教的信条を持っているのではありません
か?
言うまでもなく彼らの間に思想、崇拝、信仰において完全な宗教的団結が存在します。し
かし、フランス、ドイツ、イタリアやその他の国々の人間がひとつの共同体ではないとい
うことに、だれが異議を差しはさむでしょうか?他の例を取りましょう。それはアメリカ
合衆国における白人と黒人の場合です。彼らもまた共通の宗教を持っています。両者とも
クリスチャンであるが、だれがこの二者を一つの共同体として計算することができるでし
ょうか?三つ目の例は、インドのクリスチャン、ヨーロッパ人、それにアングロインディ
アンの場合です。彼らは同じ宗教を信じ信仰告白しています。けれども、彼らは一つのク
リスチャンの共同体を形作っているのではないことが認められるのです。シークの場合は
どうでしょう。シーク、マズビシーク、それにラムダシアシークがいます。皆シーク教徒
だと信仰告白をします。しかし、ひとつの共同体を形作っていないことは判っています。
これらの説明が明らかにするように会議派の主張が誤りに満ちていることは分かりきった
ことです。
会議派の第一の誤りは、憲法上の保護規定を認めるか認めないかについて、全人口のう
ちの一つの社会的グループの結合か、対するに分離なのかどうか、という質問を据えよう
とすることの根本的な問題点が明らかになるという失敗のうちにあります。宗教はひとつ
の仲間か別のものかを推測する単なる一つの状況にすぎないのです。
会議派は、モスレムとインド人クリスチャンが彼らはモスレムか、クリスチャンか、では
なくて、基本的に彼らは実際にヒンドゥーとは別の要素から形作られていることによって
別々の政治的認識を与えられてきたのだ、ということを理解しているようには見えません。
会議派の第二の誤りは一般的な宗教の存在するところでは社会的団結も認められなければ
ならないということを証明しようとするその試みにあります。
それは会議派が勝つことを望むことがこの理由の根底の上にあるのです。会議派にとって
不運なことにそれはできません。というのは事実が決定的な推論をこしらえることに強力
に反対しているのですから。たとえ宗教がそこから単に許される程度の推論が作り出され
るところのひとつの状況だとしても。それゆえヨーロッパのイタリア人、フランス人、ド
イツ人やスラブ人、そして合衆国の黒人と白人、そしてインドのインド人キリスト教徒、
ヨーロッパ人、アングロインド人たちは一つのコミュニティーを形作らないという事実は
そのような主張を否定するのに十分です。彼らのすべてが同じ宗教であると信仰告白した
としても。残念なことに会議派は、それほど完全に統合するひとつの要素としての宗教に
基づくという、その主張に夢中になっています。また普通の宗教にもかかわらず差別が存
在する実例が存在するといいます。なぜなら宗教が規定しているゆえに最も悪いことであ
る差別が存在する両者の間にはいかなる一致協調もないということ、またなにが最悪と言
って宗教がそれを定めたゆえの差別が存在するということをはっきりと理解していない点
なのです。会議派の主張に静けさを与えるためには、これらの事例のひとつひとつに例証
を与えるのが望ましいでしょう。私が考える最善で最も容易な事例はシークとヒンドゥー
に関するものです。彼らは宗教を異にしています。しかし彼らは社会的には分離していま
せん。彼らはともに食事をし、彼らはお互いに結婚し、彼らは共に暮らしています。ヒン
ドゥーの家庭において、一人の息子はシークかもしれないし、他の息子はヒンドゥーかも
しれません。宗教的な違いは社会の結び付きを壊さないのです。二つ目のヨーロッパのイ
タリア人、フランス人、ドイツ人、そしてアメリカの白人と黒人の事例は望み得るおあつ
らえ向きの良い説明です。このことは宗教が結び付ける力であるところでは起こるけれど
もそのような人種の心情として分割することをしがちな他の力に耐えるほどには十分力強
くはありません。ヒンドゥーとヒンドゥーイズムは第三のケース、差別が宗教それ自身の
結果である場合の最善かつおそらく唯一の説明です。それはそのようなケースであり得る
のであって、ヒンドゥーはいずれにしても語られることを要しません。というのはヒンド
ゥーイズムが結合をではなくて差別を説くことはよく知られているからです。ヒンドゥー
であることは混ざらないということを意味し、すべてにおいて分離していることを意味し
ます。その言語は通例、ヒンドゥーイズムがカーストを是認し擁護し不可触差別はおそら
くその才能を偽装させすっかり隠していることとして用いられています。ヒンドゥーイズ
ムの真の才能は分割することにあります。このことに議論の余地はありません。というの
はカーストと不可触差別は実際に何を意味するのか。明らかに差別を意味しています。カ
ーストを意味することは差別を意味する別の名前であります。そして不可触差別はコミュ
ニティーからコミュニティーを引き離すことの極端な形態を代表しています。
カーストと不可触差別は死後の魂の状態に関わる他の教義と比較して無害の教義ではない
こともまた明白であります。それらはすべてのヒンドゥー教徒を地上における彼の一生の
間、守るように縛りつけられているところの行動規範の部分なのです。カーストと不可触
差別はヒンドゥーイズムによって定められた主要な儀礼の中にある単なる教義とはほど遠
いのです。ヒンドゥーにとってカーストと不可触差別の教義を信ずるだけで十分ではあり
ません。さらに彼の日常生活の行為においてカーストと不可触差別を守りおこなわなけれ
ばなりません。ヒンドゥーイズムがもたらしたところの差別、ヒンドゥーと不可触差別の
その教義によって不可触とされた者たちとの間の分裂の一つは、かって、法王が植民地を
めぐるポルトガルと彼らのライバルとの間の争いで線引きしたような、そのような単なる
仮想の区別の先ではありません。またそれは長さをもった幅のない色のついた線のような
ものではなくて、あるものには見えて、あるものには見えないようなものでもありません。
区別はあるが差別のない人間集団の境界のようなものでもありません。それは奥行きと幅
の両方を持っています。実際、ヒンドゥーと不可触民は有刺鉄線で作られたフェンスによ
って引き離されています。観念的には不可触民が決して突っ切ることを許されなかった、
けっして突っ切ることを望むこともできなかった防疫線なのです。一般的にいってこの問
題点はヒンドゥーイズムと社会的団結はしないという点にあります。その非常な才能によ
ってヒンドゥーイズムは社会的不和の別名であり、社会的差別さえ作り出す所の社会的差
別を信じています。もしヒンドゥーたちが一つであろうと望むならば、彼らはヒンドゥー
イズムを棄てなければならないでしょう。彼らはヒンドゥーイズムに背くことなしには一
つであり得ないのです。ヒンドゥーイズムは最もヒンドゥーの団結にとって大きな障害な
のです。ヒンドゥーイズムはすべての社会団結の基本である帰属することへの願いを起こ
すことができないのです。反対にヒンドゥーイズムは分裂差別することに熱望を引き起こ
します。会議派は用いている議論がそれ自身に背いていることに気がついていないように
見えます。会議派の主張を支援することから離れていることがもっとも最善であり、不可
触民の主張をはっきり示すことを推進できる最も効果的な議論なのです。なぜなら不可触
民はヒンドゥーであるという前提から、たとえどのような結論が引き出されたとしても、
原則的にも実際上のどちらにおいてもヒンドゥーイズムは不可触民がヒンドゥーというブ
ロックのひとかけらも認められていないけれども、分離した一団として扱われ、そしてヒ
ンドゥーから差別されている、ということを常に強く言い張っているということでありま
す。それゆえ、もし不可触民が分離した要素であると言っているとしても、政治的なメリ
ットのために新しい理論をでっち上げたとは誰も告発できません。彼らは単に指摘してい
るのです。何が事実であり、いかにしてこれらの事実がヒンドゥーイズムそれ自身の文化
的伝統であるのかを。
会議派は不可触民を分離した要素として認めることを拒否する論拠として正直にまた明白
にヒンドゥーイズムを用いることができません。もしできたとしても、それは単に利己的
な動機によって動かされているからにすぎません。不可触民に対する認識はインドの自然
的生活の一要素として、またヒンドゥーから異なり、分離した行政官職や議会議員、不可
触民とヒンドゥーとヒンドゥーの分け前を制限するものの間の公共サービスにおいて帰結
するに違いありません。会議派は好まないのです。ヒンドゥーが不可触民の分け前、それ
はヒンドゥーが彼ら自身に割り当てられる習慣であったとところの分け前を奪われること
を。これが会議派が不可触民はインドの自然的生活において分離した要素であると認める
ことを拒む真の理由なのです。会議派の二番目の主張は、インドの自然的生活において不
可触民は分離した要素であるとする不可触民の政治的認識は不可触民とヒンドゥーの間の
分離を永続させるだろうという理由で許されるべきではないというものです。これはほと
んど考慮する値打ちもない主張です。それは最も弱い根拠であり、会議派が事態を改善す
るために無策であることを示しています。そのうえ先の主張と矛盾していますし、全く誤
解している。もしヒンドゥーと不可触民との間に本当の分離があるならば、もしヒンドゥ
ーによる不可触民に対する巧妙な差別待遇の危険が存在するなら、それならば不可触民は
政治的な評価を受けなければならないし、また、ヒンドゥーの暴虐に対する政治的保護を
与えられなければなりません。より良い未来への可能性を現在の暴虐に対して彼ら自身を
守る方法手段を模索することから不可触民を妨げる理由として用いることはできません。
第二にこの理由は、ヒンドゥーと不可触民の社会的融合を信じる人々によってのみ用いら
れています。そしてそのような融合をもたらすであろう手段と方法を追求することに積極
的に没頭しています。会議派の人間が不可触民の問題は社会的、政治的であるというのを
しばしば聞かされてきました。しかし問題は会議派の人間が、それは社会的問題であると
彼が言うとき、心から誠実であるでしょうか?さもなければ彼らは不可触民とともに政治
的力を獲得してきた結実を無効にするための口実としてその主張を用いるのではないでし
ょうか?そしてもし彼らが、それが社会的問題であるということを持ち続けて誠実である
ならば、こうしたことに彼らの誠実さのどんな証拠があるというのでしょうか?会議派の
人々はヒンドゥーの社会的改革の保証人となっているのでしょうか?彼らは同火同食とカ
ースト間結婚に賛成の運動をしていますか?社会改革というフィールドに会議派が記すも
のはいったい何でありましょうか?
                       

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