目覚めた人間社会と本当の平和
                 
                                  ボディー・ダンマ 略歴

   生い立ち
 皆さん、おはようございます。ここに集まって いる皆さん方は禅の体験者ばかりですから、私の ような未熟な者が皆さんの前で話することは恥ずかしいことだと思っています。それでも、少しで もお互に心を伝えられればと思っています。テー マは「目覚めた人間社会と本当の平和」というこ とですけれど、このテーマは今の時代には一番大切だと思っていますので、そういうことにしまし た。  私は一九六三年生れで、中印度のナグプールの町で生れたのですが、このナグプールは歴史的に大乗仏教の発祥の地になっています。現在まで、 佐々井上人が歴史上の研究をされまして、ナグプールのナグというのはナグ民族のナグで、元来 お釈迦さんの弟子たちが住んでいて、本格的な仏教の町であることが確認されました。またナグプールは蜜柑の産地で水もきれいで、すごく環境 のいい所でして、私はここで生れました。  後で分かりましたが、親が不可触民でしたので 私も不可触民の家で、子供の頃は全然分かりませんでした。やっと自分が学校に入る時に、自分の名前、自分の宗教、自分のカーストを書くんですね。びっくりして何故自分のカーストを書かねば ならないか疑問があったのですが、それを書かねば政府から学費が頂けないことが分って仕方なく書きました。もし書かなければ、親が貧乏だった場合学校へゆけないんですよ。現実はそういう現実です。私のお父さんは建設会社(砂とか煉瓦を運ぶ)をやっていて、不可触民の中でも自分の会社をもって仕事をしていた人は少なかったのです が、お父さんはまあ金持でした。しかし一時の病気で私が十一才の時亡くなってしまった。その後お母さんと四人兄弟で、すごく苦労して食べる物 もない毎日でした。目の前に食べている人がいても自分たちは食べられない。目の前にいい服を着 ている子供がいても自分たちは着られない。そのような中でお母さんと共に苦労して苦労して、 やっと何とか生活できるようになりました。    

三昧の体験

そういう時に、仏教の教えではないけれど、十一才か十二才でしたが、「自分が三昧に入れば 自分の顔自分の身体全体が花のようになります」と 書いてあるのを読んでびっくりしました。 それで「自分の顔、自分も花になりたい」と思い、でも自分はその方法を知らない。 どのように坐ればよいか分らない。それでもどうすれば自分が花になるか分らないながら坐り始めたのですね。結跏趺坐するか半跏趺坐するか全然関係ないですね。坐るだけ坐ったんですよ。 ひたすら坐りました。お母さんは「この子は気違いになったのではないか」 と心配したほどでした。 私は自分の部屋を暗くして線香一本立てて、ずっとそれをにらんで坐って昼か夜かも分らない状態でした。 しかしお陰様で、みんなは見性とか悟りとかいうのですが、私は十五才の時すごい体験があったんですよ。 その体験は子供ですから分らないんですけど、「何か 自分が今までの自分とは違う、自分の人生は他の人とは違う」という感じがしたんですよ。だんだんそういうことがあって、「へえ、今までの自分とは違うな、今までこだわりがあったが、今は何もない」ということに気がついた。 それが悟りか見性か分らないけれど。誰も証明してくれる人もいませんでしたから。    

高校時代の辛い体験

 その頃、高校でレスリングをやっていました。 私は小柄ですが、すごく好きで、日本でいう相撲 でした。それも十二才から始めていましたが、私は一番有名なレスラーになるのが夢でした。一日に三時間も四時間も練習していました。そして州の高校の大会の時、私は42キロ級で優勝したんですよ。  勝ったんですけど、皆さん私の資料を見て不可触民と書いてあるので、優勝させなかった。 「不可触民の子は余り伸びてはいけません。あなた達はただ奴隷として生活すればよろしい。何か夢をもって前へ出るのは駄目。宗教界も社会もそれは許していない」ということですね。私は、自分が一個の人間であり、信仰する宗教とかカースト制社会がそれを守っている。夢をもって生きようとする一人の人間がこれから育ってゆこうとする時に、社会がそれを壊してしまったのです。  それに私は腹がたちまして一五才の時のあの体 験があったのですが、やはり、人間として何故私を平等に認めてないのかすごく疑問になって、毎日大変苦しんだんですよ。自分にも能力も力もあるのに、自分は相手を人間として平等に見ているのに、相手はこちらを平等に見ないで差別して見ている。私が優勝した方が国のためになるけど、 不可触民の子が、仏教を信じる子が余り伸びてはいけないのです。そういうことですごく苦しんだわけです。毎日の苦しみの中で私は私を差別した人たちをみんな殺したいくらいにすごく恨んだんですね。しかし実際そのようなことをしたら、私も撃たれて折角親から頂いた命は、大事に大事に育てて頂いた命は銃の一発で無駄になってしまうのではないかと、親に迷惑をかけるんじゃないかと、また、友達や私が愛してる人達に迷惑をかけるん じゃないかと冷静に考えたんですね。「力をもって勝るものは亡びる、徳をもって勝るものは栄え る」という言葉がありますね。ですから力をもっ てすれば、いずれ私も亡びてしまう。力では駄目です。十五才の時の体験がありましたから冷静に考えたんです。考えて考えてこれではいけないと思ったのです。    

釈尊の教えに目覚める

 では私はどんな道をえらべばいいかと、私のよ うに苦しんでいる子供たちが社会には一杯おります。 それではそういう人たちの問題は誰が解決するんですか。それで私はお釈迦さんの本を読んだわけですけれど、 仏教とかキリスト教とか興味がなかったのですが、とにかく自分が修行して特別 の力を得たい気持でした。 それからいろいろあって、私は差別ということですごく問題をもっていたのですが、 どんな方法でこれを解決するかという時になって初めて、お釈迦さんの教えに目覚めたのですね。 お釈迦さんは自分の民族が自分の目の前で亡びてしまったのに、一度も武器をもったことがない。 慈悲をもって語りましょう、慈悲をもってみんなに目覚めて反省してもらいましょう ということですね。 私は一八才の時に初めてお釈 迦さんの教えに目覚めて、お釈迦さんの教え、智慧をもって私はこれからの人生を歩んで、 みんなに迷惑をかけないようにしようと決めました。その時が、心の目覚めというのでしょうか。   それから私を差別した昔のレスリングの道場へ行って三年間練習したんです。 彼らは私が不可触民であることを知っているのですが、私も必死になって彼らに人間として認めてもらいたいという願いから三年間行って修行したのですが、残念ながら彼らは私を認めませんでした。   お釈迦さんの教えに目覚めたアンベードカル博士という方が、我々のためにすばらしい道を残して下さったので、 私はやはり仏教しかないと深く思いました。それでよかったと思いますよ。もし私があの時腹立ち紛れに何人も殺していれば今頃は刑務所にいると思いますね。只今あなたたちの前にいることはなかったでしょうね。 お陰様でお釈迦さんの教えに助けて頂いたのですね。   私は当時、毎日学校へゆく時は教会の前を通ってゆきました。私の町には教会が一杯ありますが、そこに書いてあるのは 「イエスは神の子で あって彼を信ずる者が極楽へゆく」。彼を信じない者はどこへゆくんですか、私には疑問があった。 私がある教会へ行って「いつもあなた方の書いてあるものを読んでいますが私は仏教徒です。 それでは私はどこへ行きますか。私は神を信じないですけども、神であればみんな等しく面倒見るべきではないですか。 みんな助けるべきではないのですか」と質問しましたが、向こうからは返事が返ってこないんですよ。 私は仏教徒でお釈迦さんを信じています。では私は地獄へゆくんでしょ うか。すごく疑問に思いました。 キリスト教では神を信じる者は極楽にゆくのなら、信じない者はどこへゆくんですか。 私は仏教徒ですから行かないということですね。そんな教えだったら、それは教えではないと思いました。 善人も悪人も等しく同じ慈悲の心をもって語るものであって、差別するものではないんですよね。   ヒンズー教もイスラム教も同じですから、こんな宗教は駄目と思ったですね。その時お釈迦さんの教えに「はっ」として、 この教えならば私は救われるんじゃないかと思ったわけです。しかし学 校へ行っても図書館へ行っても、 すごくイライラ するんですよね。勉強も手につかず、どう救われるのかという問題をはっきりさせて自分の道すじを見つけたかった。

佐々井上人の元へ  

私は苦しみ抜いて、ついに佐々井上人のお寺 (日本寺)へ走っていって 「実は私はお坊さんになりた い」と相談したのですが、やはりお坊さんになるには親の許可がないと駄目だといわれて(これは仏教のきまり)、佐々井上人も「お坊さんになるのはいいけれど、お母さんに聞きなさい」といわれるんですが、お母さんは反対するんですね。自分の子がこれから勉強して仕事して親の生活を助けてくれると思 ったのに、息子がお坊さんになるんではおかしな話ですね。そういうことでお母さんは許さなかったんですよ。しかし私はお坊さんになると決めていて、 毎日お母さんと対立していました。ついに佐々井上人がお母さんを呼んで、「あなたの息子がこんなにお坊さんになりたいのに、あなたはどうして許さないのですか」 といわれると、お母さんは「はい」とい ってしまったわけですよ。  お母さんは何だか分らないうちに「はい」といってしまったと後で困ったようですが、私は出家できることになり、二十才の時、佐々井上人のおられる プッダガヤの日本寺に入りました。そこに曹洞宗の方がおられて坐禅の仕方を教えてもらいました。厳 しい方で、結蜘鉄坐して一時間も坐らされて足が痛 くてたまらんでしたが、そのお陰で、今ではきちんと坐禅できるようになりました。  そして、二十才の時再び自覚的体験がありまして、 この時「これで死んでもよい。私の人生の目的はこれで終わりました」と思ったんですよ。生れてきてやりたいことを全部やりとげたと二十才の時思った。 そしてこれで死ぬしかない、もう夢はないと思い、 ある夜中に日本寺を飛び出して、何とか自分は死にたい、しかし最後の結論を出すために、大きな山門を飛び越えてお釈迦さんが悟りを開かれた所へ行って坐禅したんですよ。お寺では「あいつ、どこへ行 った」と探したらしいのですが、私は顔が見えないように衣を頭からかぶって坐禅していました。夜の一時か二時でしたか「これでは親から折角頂いた命を、また多くのご縁があって自分が体験したことを無駄にしてはいけない。これからは自分の民族のためにできることをやって生きるのが一番いいんじゃ ないかと、死んでもいいけど折角の人生ですからみんなのために使いましょう」と結論してお寺へ帰り ました。  その後佐々井上人が「お前、そんなに坐禅好きな ら日本へ行って修行しますか」といわれましたが、 私は日本が一体どこにあるか知らなかったんですよ。 日本は東の方にあって太陽が一番最初に出るという。 私は「太陽はインドに最初に出るんじゃないか」と (笑)。「何で日本に最初に出るんですか」といいましたが、「いや日本に出る」という。まあそうかなと思 って、「日本へ私行って修行します」といったら、佐々井上人が、親にお金ないので、「私がお金を出しますから」といってビザやパスポート等準備して下 さって、禅のぜの字も知らない人間が日本へ来られたんですね。  日本がここだということを後で知ったわけですが、 面白いことに、私が日本へ着いたのは一九八六年十 月五日 (達磨忌) ですから、入門した曹源寺の原田正道老師がびっくりして、「あなた、名前は何ですか」。 「ボディー・ダルマ」。「えっ、いつから誰が決めたんですか」。「誰も決めません。たまたまそういうこと になってしまった」。老師が私の顔をじっと見て 「こ いつは何者だ」と思っておられたようで、まあ顔も ちょっと達磨に似ている (笑) といいながら、しばらく私を見て 「その名前は誰から頂いたのか」と聞 かれて、「実は佐々井上人が私に下さったもので、自分でつけていません」私はその時達磨大師を知らなかった。日本へ来てだんだん知るようになったんですけど不思議なことでした。  私は二十才の時自覚的体験をして結論を出して、 それから一度も迷ったことはないですよ。日本では禅を学ぶ者は全部日本人だから日本語できなければ無理といわれながら、私も曹源寺へ入って十五年になります。佐々井上人も岡山県の新見の出身なので御縁のある岡山県で修行できるのは有難いと思っています。禅は理屈でもないし、禅の公案も分らないし、私にはそんなことしなくても自分の自覚的体験があるし、しかしまあ、老師さんに 「折角だから、 やりなさい」といわれて、お陰様で今日までやっておりますけど、まだまだ未熟者で、なかなか仏教というのは分らんですね。
釈尊の偉大さ    
 しかし禅というのは人間解放の道で、仏教にもいろいろありますけれども、坐るということは坐禅は本来の人間の姿にかえるということですね。みんな自分の時間をもって坐禅すれば、本当に目覚めた人間の社会をつくることができるわけですよ。我々は忙しくてできないとか何とかいって自分で難かしく してしまうのですよ。そうではなくて、坐ってみると足の痛いのも、身体の苦しいのも、お釈迦さんの苦労にくらべれば何でもないことで、それにお釈迦さんは自分のためには悟っていませんよ。もし自分のために悟ったというのならば、お釈迦さんも駄目ですね、お釈迦さんではない。  お釈迦さんは周りの人たちを見てなぜお互いに争 うのか、お互いに愛情をもって語るべきなのになぜ恨みをもって戦うのか。穏やかに住まないのか。水は天から頂いたものなのに何故水のために喧嘩するのか。お釈迦さんの頃も釈迦族と他の部族が水で喧嘩するんですよ。それを見てお釈迦さんは納得できなかったんですよ。いくらきれいな奥さんがあっても、金持で王様の家に生れ何不自由なく幸せであっても、彼の心は納得しない。人間の平等、人間の尊重、人間の平和、人間はお互い一個の命であるとい うことに目覚めてもらいたいという願心を起こして悟ったと私は思いますよ。自己の満足だけで坐ったならばお釈迦さんも一年か二年で逃げ出すはずだと思いますよ。こんな苦しいことを誰がするものですかと。お釈迦さんは王様の子であって、自分が政治をすればいいですから。でも、そんなことせずに、
我々を今日ここで坐禅させるために坐ったのだと思います。 お釈迦さんが坐ったからこそ今日我々が坐っているのです。そのお釈迦さんの恩徳というものを我々は無駄にしてはいけませんよね。お釈迦さんが自分で苦労して自分の我見を殺す。この我見が人間の一 番の毒ですよね。人間のもっている 「私が」という 我見を乗り越えたお方が、人間の歴史の中のお釈迦 さんだったと思いますね。お釈迦さんが生れなかったら多分私はどこに行ったか分らない。お釈迦さんが語った平等の心、慈悲の心をもったからこそ、イ ンドもその当時はすばらしい国だったと思います。

本来の仏教  

 インドはどこを見てもお坊さんが一杯いるから、 「金の鳥」 (ゴールデン・バード) といわれた。日本では黒い衣を着るけど、小乗では黄色か茶色の衣を着るので。どこを見ても平和で、お坊さん達が町の中を歩いている。そうして自分の体験したことをみんな説いている。そういう姿がどこにでも見られた。 だからインド全体どこを見ても金の鳥、ゴールデ ン・バード、お釈迦さんが坐って我々も坐る。これ が仏教の本来の姿ですよ。  今の仏教はどこに行っているのか分らない。臨済宗、曹洞宗というけれど、信者さんに聞いても坐禅もしない、何も分らない人ばかり、ただお坊さんが家に来てお参りしてくれればいいと、そういう今の宗教ですね。私は子供の時坐って、仏教とか宗教とか関係なかった頃ですが、自分の顔が花になりたい、 身体全体が花になればみんなが喜ぶと書いてあったので、自分が花になって接する人みんなを喜ばせたい、そんな人になりたいので坐っただけで、宗教なんて関係ないですよ。仏教徒とか、イスラム教徒と か何とかかんとかにはなりたくない。後で仏教といわれるけどお釈迦さんも仏教といわれなかったかもしれない。自分が体験したことをみんなに体験してもらいたいと、 四十五年間インドを歩いたのだろうと思います。そういう自分だけのためでなくみんなのためにというのでなければ、 ただ自分のためならば、行き詰まってしまう。
 私もそういう縁があって不可触民で苦労したし、学校でも優勝できなかったし、銀行の就職でも、 私は全部通ったと思っても、私の資料見て名前、宗教、カーストはこれこれと知ると、 私の目の前で資料を放り投げて「駄目だ」という。「私は何でも答えたじゃないですか」。 「お前、それは答えてもいい、しかし資料見たら駄目」。私はそういうことを三回いわれたことがあるんですよ。 これから自分の人生という時に、殺したいくらい口惜しく思ったこともありま したが、お釈迦さんのお陰で救われました。 これからはお釈迦さんの智慧と慈悲をもって人生を生きたいと思っています。

アンベードカル博士の運動

 さっきも話しましたが、現在インドに仏教を復活させたのはアンベードカル博士という方です。 アン ベードカル博士も不可触民でひどく差別を受けた。 自分が人間でありながら、いくら優秀であっても、 哲学、法律、経済とあらゆる学問を修めても、アメ リカでは平等であるけれどインドにゆくと、 いくら自分が勉強して力があっても差別される。アンベード カルは自分はヒンズー教の家に生れたけれど、 ヒン ズー教で亡くなりたくない、自分の人生は自分で切 り開くといって、一九三五年に不可触民を奴隷の生活から解放するための運動を起こしました。生れたのは一八八一年です。  彼は先ず水から始めました。 不可触民は同じ人間でありながら他の人と同じ水を飲むことができない。 同じヒンズー教であるけれどもお寺の中に入らせな い。 不可触民は同じヒンズー教の神々を遠く立って拝むわけですね。物を買いに行ってもお金持ちにはちゃんとお金を渡すのに、 不可触民にはポンと投げ出すんですよ。自分が人間でありながら何故こんな差別を受けるのか。 彼も不可触民として同じ差別を受けました。大学の教授でありながら同じ大学の水を飲むことができない。大学の教授ですよ。   そういう毎日だったので、彼も自分が何とかしてインドの社会を変えてゆかねばならないと思った。 国の独立より先ず人間の独立、自立が先である。イ ンドは八五%が奴隷ですよ。 そういう人たちが人間的に独立しなければ国の独立とはいえない。人口の八五%の人たちは目覚めがない。 教育がないからど のように生きてよいか分らない。だから奴隷になりました。 このような人たちが人間として目覚めれば本当の独立になります。 しかし実際は上の何%かの人達がイギリス政府と戦ったので、なかなかのこと でした。   アンベードカル博士が人間の尊重、人間の平和と いうことを一九三五年から研究しはじめました。 イスラム教、ヒンズー教、キリスト教とかの文献を読 みましたが納得できなかった。 こうした宗教ではみんなの平等を語ることができない。これでは人間の尊重を語ることができない。 これらの中にも差別があるから。ではどんな宗教がいいのかとアンベード カルが仏陀の教えを読み、 そして 「我々の道はこれだな。お釈迦さんの教えだけが我々を導いてくれる」 と考えて、 一九五六年十月十四日、インドのナグプー ル (イスラム教、ヒンズー教、キリスト教原理主義 の本部のある重要な町、 元来お釈迦さんの頃から仏 教徒のナガ族が住んでいた歴史がある町)、 彼はそこで 「ヒンズー教徒から仏教徒に改宗します」と宣言 して一九五六年五百人の人たちと改宗しました。 これが現在インドの仏教の姿です。アンベードカルは改宗して二ケ月で亡くなりました。 彼は日本へも来て、どんな仏教、大乗仏教か、インドのために日本の仏教を知りたいと思っていました。

インドにおける佐々井上人の布教  

佐々井上人という方は言葉も知らない。インド民 衆のことも知らない。 ただ団扇太鼓を持って南無妙法蓮華経とインドの町を歩いた。彼は東京の高尾山の真言 宗の方ですが、 ラージギルの霊鷲山の隣にある多宝山に平和仏舎利塔を建てられた日本山妙法寺の藤井日達上人のお世話になって、団扇太鼓をたたいて毎日町中を歩いた。 言葉も分らない、食物も口に合わない、インドの暑さにもめげず、彼は町中 お題目を唱えて歩いた。 その姿を見てみんな「誰じ ゃ?」と思った。多くの人は言葉をもって語るけど、 彼は言葉もなく身体をもって、 インドの民衆のために何になるか分らないけど、身を捨てて南無妙法蓮華経と町を歩いた。 だからインドの人たちも彼の後に 続いてぞろぞろ歩くわけですよ。そういう彼の姿を見て民衆は  「このお坊さんはどこから来たのか、チ ベット人みたいであり、中国人みたいでもあり、肌 も違う、顔も違うけれど、 一生懸命やっている」と 思って一人、二人後について毎日南無妙法蓮華経と唱えて歩いていた。 その姿を見てまたみんな佐々井上 人の方へ心が向いたわけ。中には哲学のできるお坊さんもいたけれど、 哲学では腹一杯にならない、如何に身をもって語るか、そういう者でないと人々の 心に響きません。 ただ偉そうにお釈迦さんの道を説いても、一杯本を書いても、かえってむずかしくするし、混乱させる。 しかし佐々井上人は身体をもっ て、じかに人々に当たるということをされたんですよ。 一軒一軒、知らない家の前で南無妙法蓮華経を唱 えるんです。今でも毎日二十四時間おつとめしています。 そういう日本のお坊さんがいるんですよ。

現在の日本の仏教  

 日本では仏教がなくなるなくなるというのですが、 かえって日本の人達は自分の足元を壊している感じがするんですよ。ただ錯覚しているだけ。こんなすばらしい国、京都へゆけば、どこにでも立派なお寺があります。そんな環境の中で仏教がなくなると悲 しい声でいいます。恥ずかしいことですよ。仏教は日本の命そのものだというのに自分の命をなくしてどうしますか。「いや、こういう時代になってきた」 といいます。でも誰がこんな時代にしたのですか。 誰がその責任者ですか。それが我々の反省しなければならないところだと思います。私はこれからイン ドで仏教を広めようとしているところですよ。イン ドで生れた仏教が時代の流れでなくなって、日本まで伝わってすばらしい花を咲かせながら、それが時代のせいだとか、ぜいたくすぎるからだとかいって、 自分で勝手に思っているだけですよ。私たちはこれからインドで命がけで育てようと思っているのに。 私たちはお金もなくカンパを集めて活動しています。 自分のものは何もなく、政治的な力もないんですよ。 その中でインドの仏教のために戦っています。  私は武器をもって戦うのではなく、お釈迦さんの智慧をもって戦います。武器をもって戦っては世界は平和になりませんよ。自分の欲のために、自分の満足のためにやっていると、現在のような不安な世界になるので、こういう欲を全部捨ててみんな一個 の命に立ち返ってみて、お互い身体の高い低いが違 っても心は同じですよ。目が二つあって、鼻が縦に、 耳が二つある。皮膚が違って言葉が違うけれども、 言葉を捨てて皮膚の色を捨てて自分の国籍も捨てて、 かえって赤ちゃんになれば、赤ちゃんに国籍がありますか。自分の言葉がありますか。自分の持ち物がありますか。ないですよね。その心に目覚めよということで、これが目覚めた人間社会と私は考えてま す。一人一人がお釈迦さんの本来の心に返るべきだと思います。  みんな坐禅すべきだと思いますが、みんな坐らない。 自分の心を冷静にするために何か方法があるわけですよ。そういうものを元にしてゆかないと 「日本はもう駄目ですよ。 インドから中国、中国から日本、日本からアメリカ、ヨーロッパへ仏教は行ってしまう」 という人がありますが、 そんな予測より「もっと自分の足元に気をつけなさい」と、外国人がいうとおかしな話になってくるんですが。 私は日本で修行させて頂いています。日本の食事を頂いています。日本の仏教を敢えて頂いています。 私は日本の恩恵をすごく受けてますよ。だから何とかしたいんですが、それをいうと 「現在は安定した生活をしているので私を困らせないでくれ」とこういうのですよ。 そんな考えだからアメリカ、ヨーロッパへお師家さん方が行くわけですよ。自分の国を放っておいて文化 の違う所で、これから千年もかかる所ですよ。「国際的なことをやっています」といいながら自分の足元も見ずに国際化にはならないわけですよ。先ず日本というすばらしい仏教の国が育たないといけません。 一人の日本人 (佐々井上人) がインドに行ってイ ンドの仏教を支えているのです。日本の仏教が亡びると聞くと私は悲しいですよ。折角すばらしいお寺があって、すばらしい環境があって、そこで育たなかったら勿体ないと思いますね。佐々井上人のように、お坊さんだったら民衆に語りながら民衆の中に入って死ぬべきですよ。自分の周りにすべての物をおいてお寺で死にますといったら、何ともいいようがありません。しかしそういう社会になってしまったわけですよ。  我々の方の活動はインドでは厳しいですよ。いつ命を失うか分らない。去年の九月、私を銃で撃とうと 訪ねて来た者があった時に、ちょうど私は外出していたので助かりました。私はいつも「どうぞ殺しなさい。私は自分の民族のためにお釈迦さんの智慧をも って語ります。ですから恐がりません。あなた撃ちたかったら殺しなさい。私は平等、またあなた達を攻撃していません。平和のため、国のため、世界のために、これからどうあるべきかを語っています。あなた達、私を殺してもいい」といっているんですけどもね。聞くと去年そういうことがあったらしいです。  ここにおられる方々は同じ仏教の兄弟でありますからがんばってほしいと思います。私は未熟者で何 もできませんが、このような道場がインドにも欲し いですよ。百人も坐れますからね。

身を捨てた布教を  

 お寺があっても和尚さんが留守で釣りしている。 悪いことではないですけれども。今の日本の一般社会も人間禅のように、雲水となって僧堂に行かなく ても、修行してほしいと思います。立田英山老師がご自分の体験から、すごく苦労して教団をつくられたと思いますよ、全国どこにでも、こういう道場があると聞いています。こういうすばらしい道場を育ててゆかなければ、先人の苦労を無駄にするのではないかと思います。  若い人が来ない、来る人が少ないといいますが、こ れからどうすればいいか、 親が悪いのか、学校が間違っているのか、お寺さんが間違っているのか、檀家制度が間違っているのか、 何かあるんですね。やっぱり民衆も自分の願いを語る人、社会をよい方へ変 えてゆく運動、 国に迷惑をかけるのでなく、自分の身を捨てた人間が一人でも二人でも出てこないとなかなか変らない。 みんな分っているんですが、お寺さんに聞くと 「ちょっと私は忙しい、檀家さんが許さ ない」とかいって逃げるんですよ。 分っていながら知らん顔している。だから仏教がなくなるなくなる といっているんだと思います。これは私の考えです。  日本から学ぶものが一杯あります。私も十五年間修行して禅の厳しい修行の中でどのように人間が育 ってゆくか、すばらしいことですよ。私という一個 の命が花になりたい。 そして花になればみんな同じく喜んでもらえる、私を見る人はみんな喜びます。 それで禅をやりはじめましたが、やはり禅は人間解放の道、人間を育てる道であり、人間を裸にしてそ の上に立って初めて平等の目で我々は見ることがで きるわけですね。この道場にもこのような体験者が おられると思いますが、やはり自分が得た体験を自だけのものにせずに、一般 の人達にも味わって頂 きたいという菩提心がないといけませんですね。  日本の仏教もそうですが私が禅の修行をしてみて禅は本当に人間解放の道、人間を育てる道と感じ、 私は今インドでここに飾ってある写真のように二十人の子供たちに坐禅を教えているんですよ。先ず坐 禅。坐禅から始めましょう。坐って自分の痛み、自分が何者であるかが分るんじゃないか。そこから始めているんですよ。じかに坐ることを基本にしている、こういう運動をしたいと思っています。           

目覚めた人間社会と平和  

目覚めた人間社会と平和。平和、平和と世間ではいいますが、いつになるか分りませんね。今はどこへ行っても争いばかりですね。目覚めた人間という ことは、体験のある人なら分ると思いますが、やは り自分を捨てた人ですね。自分を無くした人ですね。 自分の無い人が事に当たる時、そこにすばらしい人間性を産み出すんですね。しかし自分にこだわる人は必ず相手を傷つけ、軽蔑、差別するんですね。そうではなく自分が一個の命に立ち返って、お釈迦さ んが目覚めた本心本性に立ってみると、一人一人が 同じ人間であることに気がつくのを、私は目覚めた人間社会といっています。そのことはヒンズー教で もイスラム教でもどんな宗教であっても、それは関係ない。お釈迦さんの精神はその宗教にこだわっていません。お釈迦さんの精神は誰でも等しく持って いる人間の心の根源です。仏教の人達だけが目覚めればいいじゃなくて、他の宗教の人達みんな目覚めるべきで、お互い慈悲をもって愛することができるんじゃないかと思います。  仏教といっても真言宗もあれば日蓮宗もある。日蓮宗はお題目、浄土宗はお念仏でいいという、一心に唱えれば禅宗の公案と同じですよ。本当に大事なことはその心に目覚めるということですね。目覚めた人間がだんだん増えれば政治的にもよくなる。今の政治家はみんな学問ばかりですから争いが絶えない。お釈迦さんの時代にも沢山の王様がいました。 その頃はみんなお釈迦さんの教えをきいて民衆が平和でないと、その王様としての価値はないといわれ ていて、それぞれ人間性に目覚めたわけです。アシヨカ王のような人もお釈迦さんが亡くなって二百年後に生れましたけれども、人間だけでなく、動物のために病院つくったり、住める所をつくったりした人がいました。アショカ王が周りの国と戦争して、 山の頂上に立ってみると、多くの民衆が傷ついて倒れて苦しんでいる。「みんな死んでしまったら、自分を王様と呼ぶ人は誰もいない。これではすまない」 と気がついてお釈迦さんの教え、慈悲をもって民衆に語ってゆきましたので、アショカ王のお陰でイン ドも平和であったわけです。その時まで仏教はイン ドにありました。   バーミヤン遺跡が壊されましたが、アフガニスタンまで、アショカ王の娘や息子が行って広めたわけです。 自分の娘や息子をお坊さんにしたわけですが、今は 「あなたの子供をお坊さんにしなさい」という と  「いやいやそれはできない、そんなことして何になるのか」という親になってしまっているし、 仏教徒としての自覚がないからね。ただ仏壇にお参りするだけの仏教にしてしまったわけですね。 そのためにお釈迦さんの説かれた本心本性に触れることから遠く、 ただ表面的なものばかり見るからそこまでいかないわけですよ。   我々、目覚めた人間社会とはそういう一人一人が自覚すること、一人一人お釈迦さんの心にたどりつ くということですね。 お釈迦さんのすばらしい慈悲の心が自分のものになるということですね。そうなれば目覚めたということになりますね。 一人一人がそうなると、お互い好き嫌い対立があっても、それをのり越えてゆく智慧を持つことになるのが人間ですね。動物ではありません。我々はその智慧に目覚めるということですね。  
 私も三年前から南インドで目覚めた人間社会をつくりたいという願いをもって活動しています。ナグ プールから南へ全部回ります。事件もあるし、いろ いろなことがあって、いつどうなるか分らない状態ですが、お釈迦さんの本来の心に目覚めた人間社会 をつくりたいのですよ。私はインドで改宗といいますが、ただの改宗という形式的なものではなく、私がお釈迦さんの教えに目覚めた悦びを一人一人に伝 えたいからなんですよ。改宗しても、同じ神々を拝 むことはどうでもいいことで、自分の本来の心に目覚めなければ意味ないのです。イスラム教は自分たちのアラーの神が一番偉いという。キリスト教は神 を信じよという。ヒンズー教の神々は何千とある。 神々が沢山あるので混乱する。中には武器をもって いるのもあるが、神が武器を持つとは何ということ ですか。神ではないですね。「いや、これは表現です」 という。しかし表現すると理屈が出ます。お釈迦さんは自分が一日の食事をもらうために、ただ鉄鉢を持って歩くだけです。他の宗教の神々は顔をあちらにもこちらにもいくつも持っている。人間の姿ではないですよ。人間は手が二つ、頭は一つ、足は二つ しかないのに現実に関係ないことをいうから混乱するんですよ。現実を放ったらかして向こうへ向こうへ、極楽へゆきますといっている。  インドにこんな話があります。一人のお坊さんが町中を歩いて 「極楽へ行きたい人は手をあげて下さ い。私がみんなの席を指定席にしておきます」というと、人々は 「私は忙しいので席をとっておいて下さ い」 といってお金を払いま した。一ケ月 二ケ月、一年 二年するうちに 「いつ極楽へゆけますか」 と聞かれ て 「私も知らないのに、ど うして私が連れてゆけるのですか」とにせ者のお坊 さんがいったそうです。  これと似たような話で、私が南インドで或る町を 歩いていると、ここはキリスト教のとても多い町ですが、一人のアメリカ人が私に「郵便局はどこにありますか」と聞きました。私も曹源寺で十五ケ国の四十人の人達と暮していますので、何の抵抗もなく親しく「やあ、あなたまっすぐに行ってつき当たると看板があります」と教えました。私も興味があったので「あなた何宗教ですか」と聞きますと「実はキリスト教の大会があって参加するためです」。「テーマは何ですか」と聞きますと「極楽への道」。「あなた郵便局への道も知らないで、何で極楽への道を知っているのですか」 (笑)。そういうことなんですね。みんなそういう自分の知らないことばかりいうからかえって一般の人達が混乱するんです。  お釈迦さんは何も持っていません。ただ自分の一日の食事を頂く鉄鉢だけですよ。その姿を見るとすばらしいです。ちゃんと袈裟を着て、その人間性を自分の心を以て、自分の身体を以て、自分の慈悲を以て毎日インドを歩いたのですよ。それを見るだけでみんな「この人こそ」という感動があったわけですよ。その精神ですね。花になれば誰でも悪人も善 人も等しく感動するわけですね。お釈迦さんの慈悲 の心というものが目覚めた人間社会ということですね。そういう人間の花を直に桃の花に見て霊雲和尚さんのように「こんなすばらしい色に誰が染めたのか」という感動があったんじゃないですか。そういう、じかに花を見て心に当たる。そして悟りの目を 開かせる。そのように一人一人がお釈迦さんの本来 の花のような心にさっと目覚めないとね。そこまで ゆかないと我々がいくら平和といっても、まずその平和を産み出す心がないと平和というものは遠くの 話であって夢みたいなものですね。一人一人そうい う心をもつこと、本来の心に目覚めるということが必要ですね。

目覚めた人間社会、仏国土に向けて
 人間禅教団には十八ケ所禅堂があると聞きました。立田英山老師のお陰で皆さんはここに集まって坐禅 しています。 どうかここから日本の仏教がなくなら ないようにお願いします。やはり身を捨てた、そう いう人が出てこなければいけません。 お釈迦さんは全部身を捨てたわけですよ。一日も休まず四十五年間インドの地を踏んだわけです。 それでこそみんな感動したわけですよ。もしお釈迦さんが偉そうに、 どこかのお寺に入って「皆さんお話を聞きに来て下 さい」 といったらお釈迦さんを信じる者は少なかっ たと思います。お釈迦さんは何も持たず、一つの鉄鉢を持っているだけです。  聞くところによると今は和尚さんとお医者さんが一番いい車を持っているそうですね。   今の時代ですからお参りするのに車に乗ってゆく。 それはそれでいいですけど、お釈迦さんの頃は車も何もなかったよ。 しかし、そういうお釈迦さんを自分の目の前におかないと、お釈迦さんも遠くのものになってしまう。 私たちはお釈迦さんお釈迦さんと口先でいうのですが、自分の身体そのものがお釈迦さんにならないとお釈迦さんも何の関係ないものになってしまう。 そうならないようにみんな坐禅するわけですね。みんなそれぞれがお釈迦さんそのものになって、この社会を変えて頂きたいと思います。   日本もインドもあらゆる世界でいろいろな人間関係の問題が一杯あります。インドでもヒンズー教とイスラム教はあわないですよ。 隣の人がヒンズー教だったら、イスラム教の人はお互いに対立ですよ。 お互い人間でありながら対立する、恐い人生を歩んでいる。 恐い人生を暮してるんですけどもね。実は我々が自分でそれをつくったわけですよ。人間は穏やかに堂々として何も恐れない。 その恐れのないのが本当の人間の心ですけどね。しかし恐れて生きている。その恐れが自分の心を固くして大きな問題を起こしている。 そのような心にならないように宗教は悪人であっても目覚める道でなければならない。   お釈迦さんの頃、ある悪人アングリマーラが神通力を得るためには百人を殺さなければならないとお 師匠さんにいわれて、九十九人殺しました。 アング リマーラは九十九人殺したけど、後一人殺さないと いけない。自分のお母さんを殺すのが一番簡単と思 って準備していると、 周りのお坊さん達が気づいて、 危険なアングリマーラが住んでいるのでお釈迦さんにこの土地を去りましょうとすすめました。 お釈迦 さんは 「そうですか。では私一人で行きましょう」 といって堂々とアングリマーラの所へゆきました。 その悪人を目覚めさせたい一心からお釈迦さんは行 ったのですよ。  本当は彼の心には悪人も、善人もない。自分もな い。 しかし周りの人が悪人だ悪人だといって、もっ と悪人にするんですよ。社会が彼を悪人にしたんで すよ。ですから社会を変えねばなりません。 目覚めた人間社会でないといけないということです。お釈迦さんが堂々とアングリマーラ の所へゆくと、今ま で百人近く人を殺した力があるのに、 一目お釈迦さ んを見ると自分の身体が次第次第に重くなって持っ ていた刀も捨てて、かえって彼が反省したのです。 「今まで私は人を恐れさせましたが、この人には何の恐れもない」その不思議な力に打たれて今まで犯した自分の犯罪が彼の心を重くしたのです。 彼は 「あなたは沙門なのに、どうして走っているのですか」 と聞きましたらお釈迦さんは 「私は走っていません。 あなたの心が頭が走っているのです」。それを聞いた途端にアングリマーラは身を投げ出して悔心しまし た。そして悟を開いてお弟子の一人になりました。   お釈迦さんは、悪人でも善人でも一人でも多くの人に目覚めてもらいたいという願いで、インドの土地を歩いたのです。 仏教徒もそういう願心がないと意味がないと思います。仏教徒としてお彼岸やお盆にお参りするだけでは、本当の仏教徒とは思わないですね。 本当の仏教徒は自分がお釈迦さんの心に目覚めて、目覚めた心で、一人でも多くの人のために尽くすという願心を起こさないと仏教徒ではない。 原理主義ではないですよ、仏教徒は原理主義ではないからね。慈悲の心に目覚めることこそ、目覚めた人間社会を産み出せるのではないかと思います。   私は、インドでいつ死んでもいい覚悟をもって、 毎日車で回って教を説いています。 その車もお陰様で寄付して頂いたものですが、一人でも多くお釈迦 さんの心に目覚めれば争いを起こさなくなるのでは。 お互い兄弟、友達として生きてほしいですね。立田英山老師は世界楽土といいましたが、私は仏国土をつくりましょうといいたいですね。 同じことですが、 国ではなく、日本、インドとかパキスタン、アメリ カ、ヨーロッパといった国や地域ではないですよね。 仏国土とは心そのものの問題です。一人一人がお釈迦さんの心に目覚めれば、それが仏国土そのものに なるわけですよ。 みんな安心して暮せるじゃないですか。その心に目覚めて初めて穏やかに対立せずにいられます。 しかし人間だから二人いれば対立があ るのは当り前だけれども、鍋が二つあれば音がするわけですが、 音がしないようにおけば音はしないんです。ばたばたすれば音がするんですよね。ばたば たしない心に目覚めることがお釈迦さんの心そのも ので、 仏国土、慈悲の心をもって語ることが、英山老師の楽土ということだと思います。  そうなってほしいと私は思います。 国際部、青年部、婦人部とか、皆さん協力して私をここへ呼んで頂きましたことを厚く御礼申上げます。 ここにも国際部があるので、日本だけでなく世界のために働いて欲しいと思います。

インドの将来への夢  

 私もインドにちゃんとしたお坊さんが欲しい。争いをするのでなく、自分の身を捨てたお坊さんをつくりたいと思って、 今二十二人の子供たちを預かって教育し ておりま すが、いずれ十八才か二十才になった時日本にも留学 させたいし、できれば日本のいいものを勉強させたい。  しかし一番恐れているのは、日本のお坊さんが酒を飲むでしょ。結婚するでしょ。それを見たら子供たちがその気になるので、日本へ連れて来たくないんですよ。私の見ていないところで酒を飲んだり煙草を吸ったりして、インドにそんなお坊さんになって帰って来たら、大変なことですよ。私は日本のお坊さんがインドに来る時にはいうんですよ。あなた達結婚していることは知っているので、酒と煙草はひかえて下さい。でも「いやー、そんなこといっ ても、ボディ、夜ちょっと一杯」とよく聞くんですよ。そしてホテルでビールを飲んでいる。それが知らないうちに朝まで飲んでいて信者さんに知られたら大変ですよ。私は「申し訳ないですけど、日本でやっていることは日本でやって下さい。飲みたかったら夜一時二時頃にやって下さい。そうでないとお前はどんなお坊さんを連れて来たのかといわれま す」。  インドでは、日本のお坊さんは黒い衣を着ますが、 南インドでは黒はイスラム教の色で、原理主義の色です。お釈迦さんは黄色の衣ですのでインドでは黄 色です。私も一五年間日本にいますので黒も好きで す。曹源寺の原田老師がインドへ行かれる時も黄色 の衣にお願いしました。そうでないとインドでは信頼されません。日本のお坊さんも、酒を飲んではいけない、結婚してはいけないというのですが、知っているのにやらない。これが私には分らない。目覚めていないんですね。   私はこれから、インドの子供達十一才から十四才をお坊さんに育てる学校をつくりたいです。 もしお願いできれば、皆さんの協力をお願いしたいと思います。インドを別の国ではなく、兄弟として同じ仏 教徒として、私もいつ亡くなるか分りませんが、私の活動を応援していただければ有難いと思います。 長い時間お聴き下さいまして有難うございました。 (拍手)                       (完)

平成十二年六月、千葉県市川市の人間禅道場において開かれ た講話会録を一部修正して掲載。なお、テープ起こし・協力 は、岡山市在住の石田澄子氏が担当されました。了解をいただいて転載させていただいております。
ボディー・ダンマ略歴
■筆者 略歴
 筆者 略歴 菩提達磨(ボディ・ダンマ)/インド出身 1961年、インドのナグプールに生まれる。 1977年16歳の時、インドの仏教指導者佐々 井秀嶺師と出会い、仏道修行を始める。その後1982年21歳で得度し、1986年25歳の時に 岡山の国際禅道場・曹源寺(臨済宗)に入山、住 職原田正道老師のもとで禅の修行に入る。1996年8月、「印日国際青年仏教徒会」の代表と して南インドの各地で布教活動を開始。以後、毎 年6月か11月まで布教のため渡印。2001 年8月、南インドの地で第一回目の摂心会が原 田正道老師により開かれ、これに尽力する。 現 在、在日修行歴17年。日本語に堪能し、「印日国 際青年仏教徒会」名代として活躍中。 (※佐々井秀嶺師=1965年渡印、インドの各 地で仏教指導にあたり、のちに帰化。現在、2億 とも言われるインド仏教界の代表的指導者。)